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—アドラー心理学と「おくゆかしさ」の交差点—
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『境界線の向こう側』
## —アドラー心理学と「おくゆかしさ」の交差点—
「幸せになる権利があるんだよ、和子さん」
カウンセリングルームの窓から差し込む午後の光が、デスクの上のコーヒーカップに反射して小さな輝きを作っていた。向かい合って座る二人の間には、言葉以上のものが流れていた。
和子は45歳。大手企業の中間管理職として20年以上勤め上げてきたが、最近になって急に自分の人生に疑問を感じ始めていた。それは夫の海外転勤が決まり、彼女自身もキャリアを捨てて同行するかどうかという選択を迫られたことがきっかけだった。
「でも、そんなこと考えるのは、わがままじゃないでしょうか。自分の幸せだけを追求するなんて...」
和子の声には迷いがあった。目を伏せ、手のひらを強く握りしめている。
「和子さんは『わがまま』という言葉をよく使いますね」カウンセラーの健太郎が穏やかに言った。彼はアドラー心理学を専門とする40代半ばの男性で、アメリカで長年学んだ後、日本に戻ってきていた。「自分の気持ちに正直になることと、わがままであることは、まったく違うものですよ」
「でも...」
「アドラー心理学では、『幸せに生きる』ことは権利であり、それを追求することは責任でもあると考えます。自分を犠牲にすることが美徳だとは考えません」
和子は黙ってコーヒーカップを手に取り、小さく息を吐いた。「日本では、特に私の世代では、『おくゆかしさ』が美徳とされてきました。自分を主張せず、周りに合わせ、控えめにしていることが評価される...」
「おくゆかしさ」という言葉に、健太郎は少し考え込んだ。彼自身、海外生活が長かったため、その言葉の奥にある文化的背景を理解しつつも、その価値観とアドラー心理学の間にあるギャップを感じていた。
「和子さん、その『おくゆかしさ』が、本当にあなたを幸せにしていますか?」
それから一週間後、和子は実家のある京都を訪れていた。古い町家で暮らす80歳の母、敏子との対話を求めて。
二人は縁側に座り、庭の紅葉を眺めながら、静かにお茶を飲んでいた。
「お母さん、幸せって何だと思う?」唐突に和子が問いかけた。
敏子は少し驚いたように娘を見つめ、やがて柔らかな笑みを浮かべた。「なぜ、そんなことを聞くの?」
「カウンセリングに通っているの。自分の人生について考え直そうと思って...」和子は少し言葉を選びながら話した。「カウンセラーの先生はアドラー心理学という考え方を教えてくれて。『幸せになることは権利だ』って」
敏子はそっと湯飲みを置き、昔話を始めた。
「私が若い頃は、個人の幸せなんて考える余裕もなかったよ。戦後の混乱期で、家族全員が生きていくことで精一杯だった。自分の願いより、家族や周りの人との調和を大切にすることが、結果として自分の心の安定につながると信じていたの」
和子は黙って聞いていた。
「でも、それは時代のせいだけじゃない。私たち日本人には昔から『おくゆかしさ』という美徳があってね。それは単に自己主張しないことじゃなくて、他者を思いやる心、自然と調和する心、そして物事の『間』を大切にする感覚なの」
「間?」
「そう、言葉と言葉の間、人と人の間、行動と行動の間...その『間』に日本人は美しさや深みを見出してきた。その感性が『おくゆかしさ』につながっているのかもしれないね」
敏子は続けた。「だけど、和子。それは自分を消すことじゃないよ。自分の本当の気持ちに耳を傾けることも大切。私の世代は我慢することが美徳だと教えられてきたけど、それが正しいとは限らない」
和子は意外な母の言葉に驚いた。
「あなたのやりたいことは何?」敏子がまっすぐ娘の目を見つめた。
「...わからない。それがわからなくなったの」
翌日、和子は京都の哲学の道を歩いていた。紅葉が美しく、外国人観光客も多い。ふと、ベンチに座っている外国人女性に目が留まった。彼女は一人で、閉じた目で日差しを浴びながら深呼吸をしていた。なぜか和子はその姿に引き寄せられるように近づき、隣に座った。
「美しい場所ですね」英語で話しかけた和子に、その女性は微笑んで応えた。「ええ、魂が洗われるようです」
彼女はマリアといい、アメリカからの旅行者だと自己紹介した。心理学者で、特にアドラー心理学を研究しているとのこと。和子はその偶然に驚いた。
「私も最近アドラー心理学について学び始めたところです」
話は弾み、二人は近くの茶店に移動した。
「日本の文化には深い敬意を抱いています」マリアは抹茶を前に言った。「特に『間』の概念や、自然との調和の取り方は素晴らしい」
「でも、日本では個人の幸せより集団の調和を優先する傾向があります。アドラー心理学とは相容れないのでは?」和子は率直に尋ねた。
マリアは少し考えてから答えた。「私はそうは思いません。アドラー心理学の本質は、個人が社会の中で意味を見出し、貢献することで幸せを感じるという考え方です。これは日本の『和』の精神と矛盾するものではありません」
「でも、アドラーは個人の幸福追求を重視していますよね?」
「アドラーが言う『幸せになる権利』は、利己的な快楽主義とは違います。他者との関係性の中で、自分の存在意義を見出すこと。それは日本の『おくゆかしさ』にも通じるものがあるのではないでしょうか」
二人の会話は夕暮れまで続いた。マリアはアドラーの「共同体感覚」について熱心に語った。それは個人が社会の一部として貢献し、つながりを感じることの重要性を説く概念だった。
「実は、アドラー心理学と日本の伝統的価値観は、表現は違えど根底に共通点があると私は考えています」マリアは言った。「西洋的な『個人の幸福追求』と日本的な『おくゆかしさ』は、一見対立するように見えて、実は同じ人間の幸福への異なるアプローチなのかもしれません」
その夜、和子は旅館の部屋で思索にふけった。マリアとの会話、母との対話、そして健太郎のカウンセリングの言葉が頭の中で交錯していた。
翌朝、和子は早起きして旅館の庭を散歩していた。朝露に濡れた苔の上を歩きながら、彼女は自分の内側と向き合っていた。
「おはようございます」突然、耳慣れた声がした。驚いて振り返ると、健太郎が立っていた。
「先生!どうしてここに?」
「京都で学会があったんです。和子さんが実家に帰ると聞いていたので、偶然かもしれないと思いながらも、この旅館に泊まってみました」健太郎は少し照れくさそうに笑った。「でも、これは『偶然の必然』かもしれませんね」
二人は朝の庭を歩きながら、和子はこの数日間の出来事について話した。
「昨日、アメリカ人の心理学者と話しました。アドラー心理学の研究者で...」
「マリア・ジョンソン教授ですか?」健太郎が食い入るように尋ねた。
「ええ、そうですが...知り合いなんですか?」
「彼女は私の恩師です。この学会の基調講演者でもあります」健太郎は驚きを隠せない様子だった。「本当に不思議な縁ですね」
「先生、私、少し考えが整理できてきました」和子は立ち止まり、目の前の小さな池を見つめながら言った。「アドラー心理学と日本の『おくゆかしさ』は、対立するものではないと思うんです」
健太郎は黙って聞いていた。
「『おくゆかしさ』は単なる自己犠牲や我慢ではなく、他者や自然との調和の中に自分の居場所を見出す感性。アドラーの言う『共同体感覚』にも通じる部分があると思います」
「そう考えると、自分の幸せと周りとの調和は両立できるはずです。問題は、その『間』のバランスをどう取るか...」
健太郎は静かに頷いた。「和子さん、その通りです。アドラーの教えも、自分だけの幸せを追求するのではなく、社会の中で自分の役割を果たしながら幸せを見つけることを説いています」
「問題は、日本の文化が時に『おくゆかしさ』の名の下に、自己犠牲や過剰な我慢を美化してしまうことかもしれません。それはアドラーが批判する『誤った目標』になり得ます」
二人は池に映る朝日を見つめながら、しばらく黙っていた。
「私が夫について海外に行くべきかどうか、まだ決められていません」和子が静かに言った。「でも、それを考えるとき、もう『わがまま』だとか『犠牲』だとか、そういう言葉で自分を縛りたくないんです」
「それが大切なことです」健太郎は優しく言った。「アドラーは『人生の課題』を自分で設定し、選択することの重要性を説きました。たとえその選択が何であれ、他者からの評価や期待ではなく、自分自身の価値観に基づいて決めることが大事なのです」
学会最終日、和子はマリアの基調講演を聴きに行った。講演のテーマは「アドラー心理学のグローバル化と文化適応」。マリアは様々な文化圏でアドラー心理学がどのように受け入れられ、適応されているかについて語った。
そして講演の最後に、マリアは和子との対話について触れた。
「昨日、日本の方との対話で私は多くを学びました。『おくゆかしさ』という日本の美徳は、一見、西洋的な自己実現の概念と対立するように見えます。しかし、その本質は『間』—関係性の中で自分を位置づける感覚—にあると教えていただきました」
「アドラー心理学の『共同体感覚』も、個人と社会の『間』のバランスを探る試みだと言えるでしょう。私たちが追求すべきは、文化的背景を超えた『人間の幸福』の普遍的な理解なのかもしれません」
講演後、和子はマリアと健太郎と三人で食事をした。会話は深夜まで続いた。
「私が思うに、幸福の定義は文化によって異なっても、幸福を追求する権利は普遍的です」マリアが言った。「ただ、その表現方法が違うだけなのではないでしょうか」
健太郎は続けた。「日本では『おくゆかしさ』の美徳の下、自己主張を控えることが美しいとされてきました。しかし、それは本来、他者との調和の中に自分を見出す感性であって、自己否定ではないはずです」
「私の母はそう言っていました」和子は懐かしそうに笑った。「彼女は伝統的な価値観を持ちながらも、『自分の本当の気持ちに耳を傾けることも大切』だと言ったんです」
帰京前日、和子は再び母の家を訪れた。二人は再び縁側に座り、今度は夕暮れの庭を眺めていた。
「お母さん、私、決めました」和子が言った。「夫の海外赴任には同行せず、私は私の道を歩むことにします」
敏子は静かに娘を見つめた。
「夫とは話し合いました。彼も私の決断を尊重してくれています。週末婚になりますが、それもひとつの形だと思います」
「そう」敏子は優しく微笑んだ。「あなたらしい決断ね」
「これが『おくゆかしさ』に反する選択だとしても?」和子は少し不安そうに母を見た。
敏子は首を横に振った。「違うよ、和子。『おくゆかしさ』とは、自分を見失うことではない。自分の内側にある真実の声に、静かに耳を傾けること。それこそが本当の『おくゆかしさ』だと私は思うの」
「この数日間、たくさんの人と話して気づいたの。アドラー心理学が説く『幸せになる権利』と、日本の『おくゆかしさ』は、対立するものじゃないって」和子は庭の石灯篭を見つめながら言った。
「どちらも、自分と他者との『間』のバランスを大切にしている。表現は違っても、目指すものは同じなのかもしれない」
夕暮れの光が二人を優しく包み込んだ。
「和子、あなたは『幸せ』を何だと思う?」今度は敏子が問いかけた。
和子は少し考えてから答えた。「私にとっての幸せは、自分の選択に誇りを持ち、同時に大切な人たちとの絆を感じること」
「それは素晴らしい『間』のバランスね」敏子は微笑んだ。
一ヶ月後、和子は健太郎のカウンセリングルームを再び訪れていた。同じ窓から差し込む光、同じコーヒーカップ。しかし、和子の表情は以前とは違っていた。
「先生、アドラーが言う『課題の分離』について、もっと教えてください」和子は真剣な眼差しで言った。「私は自分の人生の課題と向き合いたいんです」
健太郎は微笑みながら頷いた。「和子さんは既に、その道を歩み始めていますよ」
窓の外では、桜の蕾が膨らみ始めていた。新しい季節の訪れを告げるように。
「『おくゆかしさ』と『幸せになる権利』の間で、私は自分だけの『間』を見つけたいと思います」和子は静かに、しかし確かな声で言った。
それは彼女の新しい人生の始まりだった。
## —アドラー心理学と「おくゆかしさ」の交差点—
「幸せになる権利があるんだよ、和子さん」
カウンセリングルームの窓から差し込む午後の光が、デスクの上のコーヒーカップに反射して小さな輝きを作っていた。向かい合って座る二人の間には、言葉以上のものが流れていた。
和子は45歳。大手企業の中間管理職として20年以上勤め上げてきたが、最近になって急に自分の人生に疑問を感じ始めていた。それは夫の海外転勤が決まり、彼女自身もキャリアを捨てて同行するかどうかという選択を迫られたことがきっかけだった。
「でも、そんなこと考えるのは、わがままじゃないでしょうか。自分の幸せだけを追求するなんて...」
和子の声には迷いがあった。目を伏せ、手のひらを強く握りしめている。
「和子さんは『わがまま』という言葉をよく使いますね」カウンセラーの健太郎が穏やかに言った。彼はアドラー心理学を専門とする40代半ばの男性で、アメリカで長年学んだ後、日本に戻ってきていた。「自分の気持ちに正直になることと、わがままであることは、まったく違うものですよ」
「でも...」
「アドラー心理学では、『幸せに生きる』ことは権利であり、それを追求することは責任でもあると考えます。自分を犠牲にすることが美徳だとは考えません」
和子は黙ってコーヒーカップを手に取り、小さく息を吐いた。「日本では、特に私の世代では、『おくゆかしさ』が美徳とされてきました。自分を主張せず、周りに合わせ、控えめにしていることが評価される...」
「おくゆかしさ」という言葉に、健太郎は少し考え込んだ。彼自身、海外生活が長かったため、その言葉の奥にある文化的背景を理解しつつも、その価値観とアドラー心理学の間にあるギャップを感じていた。
「和子さん、その『おくゆかしさ』が、本当にあなたを幸せにしていますか?」
それから一週間後、和子は実家のある京都を訪れていた。古い町家で暮らす80歳の母、敏子との対話を求めて。
二人は縁側に座り、庭の紅葉を眺めながら、静かにお茶を飲んでいた。
「お母さん、幸せって何だと思う?」唐突に和子が問いかけた。
敏子は少し驚いたように娘を見つめ、やがて柔らかな笑みを浮かべた。「なぜ、そんなことを聞くの?」
「カウンセリングに通っているの。自分の人生について考え直そうと思って...」和子は少し言葉を選びながら話した。「カウンセラーの先生はアドラー心理学という考え方を教えてくれて。『幸せになることは権利だ』って」
敏子はそっと湯飲みを置き、昔話を始めた。
「私が若い頃は、個人の幸せなんて考える余裕もなかったよ。戦後の混乱期で、家族全員が生きていくことで精一杯だった。自分の願いより、家族や周りの人との調和を大切にすることが、結果として自分の心の安定につながると信じていたの」
和子は黙って聞いていた。
「でも、それは時代のせいだけじゃない。私たち日本人には昔から『おくゆかしさ』という美徳があってね。それは単に自己主張しないことじゃなくて、他者を思いやる心、自然と調和する心、そして物事の『間』を大切にする感覚なの」
「間?」
「そう、言葉と言葉の間、人と人の間、行動と行動の間...その『間』に日本人は美しさや深みを見出してきた。その感性が『おくゆかしさ』につながっているのかもしれないね」
敏子は続けた。「だけど、和子。それは自分を消すことじゃないよ。自分の本当の気持ちに耳を傾けることも大切。私の世代は我慢することが美徳だと教えられてきたけど、それが正しいとは限らない」
和子は意外な母の言葉に驚いた。
「あなたのやりたいことは何?」敏子がまっすぐ娘の目を見つめた。
「...わからない。それがわからなくなったの」
翌日、和子は京都の哲学の道を歩いていた。紅葉が美しく、外国人観光客も多い。ふと、ベンチに座っている外国人女性に目が留まった。彼女は一人で、閉じた目で日差しを浴びながら深呼吸をしていた。なぜか和子はその姿に引き寄せられるように近づき、隣に座った。
「美しい場所ですね」英語で話しかけた和子に、その女性は微笑んで応えた。「ええ、魂が洗われるようです」
彼女はマリアといい、アメリカからの旅行者だと自己紹介した。心理学者で、特にアドラー心理学を研究しているとのこと。和子はその偶然に驚いた。
「私も最近アドラー心理学について学び始めたところです」
話は弾み、二人は近くの茶店に移動した。
「日本の文化には深い敬意を抱いています」マリアは抹茶を前に言った。「特に『間』の概念や、自然との調和の取り方は素晴らしい」
「でも、日本では個人の幸せより集団の調和を優先する傾向があります。アドラー心理学とは相容れないのでは?」和子は率直に尋ねた。
マリアは少し考えてから答えた。「私はそうは思いません。アドラー心理学の本質は、個人が社会の中で意味を見出し、貢献することで幸せを感じるという考え方です。これは日本の『和』の精神と矛盾するものではありません」
「でも、アドラーは個人の幸福追求を重視していますよね?」
「アドラーが言う『幸せになる権利』は、利己的な快楽主義とは違います。他者との関係性の中で、自分の存在意義を見出すこと。それは日本の『おくゆかしさ』にも通じるものがあるのではないでしょうか」
二人の会話は夕暮れまで続いた。マリアはアドラーの「共同体感覚」について熱心に語った。それは個人が社会の一部として貢献し、つながりを感じることの重要性を説く概念だった。
「実は、アドラー心理学と日本の伝統的価値観は、表現は違えど根底に共通点があると私は考えています」マリアは言った。「西洋的な『個人の幸福追求』と日本的な『おくゆかしさ』は、一見対立するように見えて、実は同じ人間の幸福への異なるアプローチなのかもしれません」
その夜、和子は旅館の部屋で思索にふけった。マリアとの会話、母との対話、そして健太郎のカウンセリングの言葉が頭の中で交錯していた。
翌朝、和子は早起きして旅館の庭を散歩していた。朝露に濡れた苔の上を歩きながら、彼女は自分の内側と向き合っていた。
「おはようございます」突然、耳慣れた声がした。驚いて振り返ると、健太郎が立っていた。
「先生!どうしてここに?」
「京都で学会があったんです。和子さんが実家に帰ると聞いていたので、偶然かもしれないと思いながらも、この旅館に泊まってみました」健太郎は少し照れくさそうに笑った。「でも、これは『偶然の必然』かもしれませんね」
二人は朝の庭を歩きながら、和子はこの数日間の出来事について話した。
「昨日、アメリカ人の心理学者と話しました。アドラー心理学の研究者で...」
「マリア・ジョンソン教授ですか?」健太郎が食い入るように尋ねた。
「ええ、そうですが...知り合いなんですか?」
「彼女は私の恩師です。この学会の基調講演者でもあります」健太郎は驚きを隠せない様子だった。「本当に不思議な縁ですね」
「先生、私、少し考えが整理できてきました」和子は立ち止まり、目の前の小さな池を見つめながら言った。「アドラー心理学と日本の『おくゆかしさ』は、対立するものではないと思うんです」
健太郎は黙って聞いていた。
「『おくゆかしさ』は単なる自己犠牲や我慢ではなく、他者や自然との調和の中に自分の居場所を見出す感性。アドラーの言う『共同体感覚』にも通じる部分があると思います」
「そう考えると、自分の幸せと周りとの調和は両立できるはずです。問題は、その『間』のバランスをどう取るか...」
健太郎は静かに頷いた。「和子さん、その通りです。アドラーの教えも、自分だけの幸せを追求するのではなく、社会の中で自分の役割を果たしながら幸せを見つけることを説いています」
「問題は、日本の文化が時に『おくゆかしさ』の名の下に、自己犠牲や過剰な我慢を美化してしまうことかもしれません。それはアドラーが批判する『誤った目標』になり得ます」
二人は池に映る朝日を見つめながら、しばらく黙っていた。
「私が夫について海外に行くべきかどうか、まだ決められていません」和子が静かに言った。「でも、それを考えるとき、もう『わがまま』だとか『犠牲』だとか、そういう言葉で自分を縛りたくないんです」
「それが大切なことです」健太郎は優しく言った。「アドラーは『人生の課題』を自分で設定し、選択することの重要性を説きました。たとえその選択が何であれ、他者からの評価や期待ではなく、自分自身の価値観に基づいて決めることが大事なのです」
学会最終日、和子はマリアの基調講演を聴きに行った。講演のテーマは「アドラー心理学のグローバル化と文化適応」。マリアは様々な文化圏でアドラー心理学がどのように受け入れられ、適応されているかについて語った。
そして講演の最後に、マリアは和子との対話について触れた。
「昨日、日本の方との対話で私は多くを学びました。『おくゆかしさ』という日本の美徳は、一見、西洋的な自己実現の概念と対立するように見えます。しかし、その本質は『間』—関係性の中で自分を位置づける感覚—にあると教えていただきました」
「アドラー心理学の『共同体感覚』も、個人と社会の『間』のバランスを探る試みだと言えるでしょう。私たちが追求すべきは、文化的背景を超えた『人間の幸福』の普遍的な理解なのかもしれません」
講演後、和子はマリアと健太郎と三人で食事をした。会話は深夜まで続いた。
「私が思うに、幸福の定義は文化によって異なっても、幸福を追求する権利は普遍的です」マリアが言った。「ただ、その表現方法が違うだけなのではないでしょうか」
健太郎は続けた。「日本では『おくゆかしさ』の美徳の下、自己主張を控えることが美しいとされてきました。しかし、それは本来、他者との調和の中に自分を見出す感性であって、自己否定ではないはずです」
「私の母はそう言っていました」和子は懐かしそうに笑った。「彼女は伝統的な価値観を持ちながらも、『自分の本当の気持ちに耳を傾けることも大切』だと言ったんです」
帰京前日、和子は再び母の家を訪れた。二人は再び縁側に座り、今度は夕暮れの庭を眺めていた。
「お母さん、私、決めました」和子が言った。「夫の海外赴任には同行せず、私は私の道を歩むことにします」
敏子は静かに娘を見つめた。
「夫とは話し合いました。彼も私の決断を尊重してくれています。週末婚になりますが、それもひとつの形だと思います」
「そう」敏子は優しく微笑んだ。「あなたらしい決断ね」
「これが『おくゆかしさ』に反する選択だとしても?」和子は少し不安そうに母を見た。
敏子は首を横に振った。「違うよ、和子。『おくゆかしさ』とは、自分を見失うことではない。自分の内側にある真実の声に、静かに耳を傾けること。それこそが本当の『おくゆかしさ』だと私は思うの」
「この数日間、たくさんの人と話して気づいたの。アドラー心理学が説く『幸せになる権利』と、日本の『おくゆかしさ』は、対立するものじゃないって」和子は庭の石灯篭を見つめながら言った。
「どちらも、自分と他者との『間』のバランスを大切にしている。表現は違っても、目指すものは同じなのかもしれない」
夕暮れの光が二人を優しく包み込んだ。
「和子、あなたは『幸せ』を何だと思う?」今度は敏子が問いかけた。
和子は少し考えてから答えた。「私にとっての幸せは、自分の選択に誇りを持ち、同時に大切な人たちとの絆を感じること」
「それは素晴らしい『間』のバランスね」敏子は微笑んだ。
一ヶ月後、和子は健太郎のカウンセリングルームを再び訪れていた。同じ窓から差し込む光、同じコーヒーカップ。しかし、和子の表情は以前とは違っていた。
「先生、アドラーが言う『課題の分離』について、もっと教えてください」和子は真剣な眼差しで言った。「私は自分の人生の課題と向き合いたいんです」
健太郎は微笑みながら頷いた。「和子さんは既に、その道を歩み始めていますよ」
窓の外では、桜の蕾が膨らみ始めていた。新しい季節の訪れを告げるように。
「『おくゆかしさ』と『幸せになる権利』の間で、私は自分だけの『間』を見つけたいと思います」和子は静かに、しかし確かな声で言った。
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