『千年の春』

小川敦人

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『春はあけぼの』が導く、千年の時を越えて感性を取り戻す物語

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『千年の春』

1

「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」

野村隆介は目を覚ました。頭の中で、この平安時代の一節がリフレインしていた。デジタル時計を見ると、午前四時三十六分。日曜日の早朝だった。

「なぜこんなに早く目が覚めてしまったんだろう」

彼は枕元のスマートフォンを手に取り、画面をつけた。目に染みる光。日曜日の予定は特になかった。珍しく、時間がたっぷりある休日だった。

窓の外はまだ暗い。しかし、東の空には微かに明るさが広がり始めていた。野村は突然、高校の頃に国語の授業で習った「枕草子」のことを思い出した。あの有名な出だし。「春はあけぼの」。

「今日は何月だっけ?」と、スマホの日付を再確認する。4月13日、日曜日。

「そうか、ちょうど今が清少納言の言う『春』の時期なんだ」

野村は布団から抜け出し、窓辺へと向かった。カーテンを開け、東の方向を見る。そこには竜爪山のシルエットが薄暗い空に浮かんでいた。

「竜爪その名に山に近く」

母校の校歌の一節が頭をよぎる。静岡市内のマンションから見える竜爪山。野村が通っていた高校からも見えていたその山は、今、彼の前に静かにそびえていた。

「やうやう白くなりゆく山際」

確かに、山の稜線はゆっくりと白みはじめていた。野村は急に、『枕草子』全文を読みたくなった。本棚を漁ると、大学時代の古典文学のテキストが出てきた。しかし、『枕草子』の全文は載っていない。

彼はスマホを手に取り、『枕草子』を検索した。「春はあけぼの」から始まる冒頭部分が画面に表示される。

「夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし」

「秋は夕暮れ」

「冬はつとめて」

野村は四季それぞれの美しさを描写した文章に見入った。そして、千年前の清少納言が感じた「春の夜明け」が、今、目の前に広がっていることに気づいた。

彼は急に思い立ち、コーヒーを淹れ、窓際に椅子を引き寄せた。これから昇る朝日と、清少納言が描いた世界を静かに眺めることにしたのだ。

2

野村隆介は三十一歳、IT企業の営業部で働いていた。毎日の業務に追われ、最近は自分の時間をほとんど持てずにいた。休日さえも仕事の準備やメールの対応に時間を費やすことが多かった。

しかし今日は違った。先週末に大きなプロジェクトが無事に終了し、次のプロジェクトが始まるまでの束の間の休息が与えられていた。珍しく、何の予定も入れていない自分だけの時間。

「久しぶりだな、こんな風に朝日を眺めるのは」

淹れたてのコーヒーの香りが部屋に広がる。野村はスマホを手に、「枕草子 現代語訳」と検索した。画面をスクロールすると、『枕草子』の冒頭部分の現代語訳が出てきた。

「春は明け方が美しい。だんだんと白んでくる山の端が、ほのかに明るくなり、紫がかった雲が細くたなびいている様子がなんとも趣深い。」

彼は視線を上げ、窓の外を見た。確かに、竜爪山の稜線は徐々に白みを増していた。そして、空には薄い雲が浮かんでいる。朝焼けの光を受けて、雲はオレンジ色に染まり始めていた。そのうち、紫がかった色合いも見えるかもしれない。

「千年前も、こんな風景だったんだろうか」

野村は思いをめぐらせた。平安時代の人々が見上げた空と、今自分が見ている空は、本質的には変わらないのではないだろうか。テクノロジーは進化し、生活様式は変わっても、空の美しさや自然の移ろいは千年の時を超えて人々の心を動かす。

コーヒーを一口飲み、野村は再び『枕草子』の現代語訳を読み進めた。春、夏、秋、冬。四季それぞれの美しさを、清少納言は繊細な感性で捉えていた。特に「春はあけぼの」という表現には、彼女の審美眼が凝縮されているように思えた。

「この文章、高校の時は単なる古典の教材だと思っていたけど、実際に早朝に読むと、こんなにリアルに感じられるなんて」

隆介の目の前で、竜爪山の稜線がさらに鮮明になってきた。雲は薄紫色を帯び始め、「紫だちたる雲」という表現がぴったりだと感じた。

「清少納言も、こんな風に窓辺に座って、朝の移ろいを眺めていたのかな」

そう考えると、千年の時を超えて、彼女と同じ光景を共有しているような不思議な感覚に包まれた。野村は古典文学に特別な興味を持っていたわけではなかったが、この瞬間、古典の言葉が現代に生き続けている理由を肌で感じた。

3

隆介が高校生だった頃、「竜爪その名に山に近く」と歌う校歌を口ずさみながら、毎朝その山を見上げていた。しかし当時の彼は、目の前の山と『枕草子』に描かれた風景が、これほど重なり合うとは思ってもいなかった。

大学に進学してからは東京で暮らし、地元・静岡の景色からは遠ざかっていた。就職も東京の企業だったが、三年前に静岡支社への転勤を願い出て、故郷に戻ってきたのだ。

東京での慌ただしい生活に疲れていたというのもあったが、父の体調が優れなくなったことが最大の理由だった。一人息子の隆介は、少しでも親の近くにいたいと思ったのだ。

「父さんも、若い頃はこんな朝を見ていたのかな」

隆介の父、野村誠一は国語教師だった。今は退職して、静岡市内の実家で母と二人で暮らしている。父から受け継いだ本棚には、古典文学の本が並んでいた。隆介自身は理系の道を選んだが、父の影響で文学に対する基礎的な教養は身についていたように思う。

「そういえば、久しぶりに実家に顔を出さなきゃな」

コーヒーをもう一口飲み、隆介は考え始めた。最近、仕事に追われて両親の顔を見に行く機会が減っていた。今日は何の予定もない。実家に行って、父と母の顔を見てくるのも良いかもしれない。

そうしているうちに、竜爪山の稜線はさらに鮮明になり、空は徐々に明るくなっていった。薄紫の雲は、今やオレンジと黄金色が混ざった複雑な色合いを呈している。

「これが『紫だちたる雲』か……」

隆介はぼんやりと思った。清少納言の時代とは、空の見え方も少し違うのかもしれない。当時は大気汚染もなく、人工的な光もなかっただろう。きっと今よりも澄んだ、鮮やかな朝焼けだったに違いない。

それでも、この瞬間に感じる美しさは、千年前の人々も同じように感じていたはずだ。そう思うと、遠い昔の文学作品がまるで生き物のように感じられた。時代を超えて、人々の感性に働きかける言葉の力。

隆介はスマホを置き、窓辺に立って深呼吸した。新鮮な朝の空気が肺に広がる。久しぶりに、心が落ち着くのを感じた。

4

「春はあけぼの」

その言葉を口に出してみる。千年前の言葉なのに、今の自分の感覚と見事に重なり合う。

隆介はふと、高校時代の国語の授業を思い出した。森田先生という女性教師が、熱心に『枕草子』について教えてくれたことがある。

「清少納言は、宮中に仕える女房だった。彼女の生きた時代、女性は表立って自己表現する機会が限られていた。しかし彼女は、細やかな観察眼と洗練された言葉で、自分の感性を見事に表現した。『春はあけぼの』という言葉には、彼女の美意識が凝縮されているのです」

当時の隆介は、そのような話を聞きながらも、試験のために暗記すべき教材としか捉えていなかった。しかし今、実際に「あけぼの」の瞬間を目の当たりにして、清少納言の言葉が単なる文学的表現ではなく、リアルな感覚の記録だったことを実感した。

「今日は、『枕草子』をもっと詳しく読んでみようかな」

隆介はそう決心し、再びスマホを手に取った。電子書籍で『枕草子』の全訳版を購入。読み始めると、季節の美しさや宮中の生活、人間関係の機微など、さまざまな話題が随筆形式で綴られていた。

「あ、これはブログの原型みたいなものか」

現代の感覚で捉えると、『枕草子』は個人の観察や感想を断片的に記したブログのようにも思える。千年前の女性が綴った日常の記録が、今も多くの人に読まれている。その事実に、隆介は改めて言葉の持つ力を感じた。

時刻は午前五時半を過ぎていた。竜爪山の稜線はすっかり明るくなり、空は青みを増していく。「あけぼの」の瞬間は、次第に朝へと移り変わっていった。

隆介は立ち上がり、ストレッチをした。この後どうするか。実家に行くにはまだ早い時間だ。しかし、せっかくの休日を無駄にしたくない。

「そうだ、竜爪山に行ってみよう」

突然の思いつきだったが、なぜか心が躍った。竜爪山はさほど高い山ではない。気軽に散策できる山道もある。少し身体を動かすのも悪くないだろう。

隆介は簡単な朝食を摂り、ハイキングにふさわしい格好に着替えた。バックパックに水筒と携帯食、そして購入したばかりの電子書籍『枕草子』が入ったスマホを入れる。

「よし、行こう」

玄関を出る前に、もう一度窓から外を眺めた。すっかり明るくなった朝の空。「春はあけぼの」の時間は過ぎ去ったが、これから一日の始まりを山の上から見るのも悪くない。

隆介は玄関のドアを開け、アパートを後にした。心は既に、竜爪山の山頂へと向かっていた。

5

自家用車で三十分ほど走ると、竜爪山のハイキングコースの入り口に到着した。日曜日の朝だというのに、駐車場にはまだ数台の車しかなかった。

「やっぱり早朝は人が少ないな」

山道の入り口には案内図が立っていた。竜爪山は標高501メートル。静岡市内から見える身近な山だが、山頂からの眺めは素晴らしいと言われている。特に晴れた日には富士山や駿河湾を一望できる。

隆介は軽快な足取りで山道を歩き始めた。早朝の森は静けさに包まれ、時折小鳥のさえずりが聞こえてくる。木々の間から差し込む朝日が、道を黄金色に染めていた。

「清少納言も、こんな山道を歩いたりしたのかな」

歩きながら、隆介は再び千年前の世界に思いを馳せた。平安時代の貴族たちは、自然の中を歩くことがあったのだろうか。おそらく、宮中の生活が中心だったに違いない。しかし、『枕草子』の文章からは、自然の移ろいを鋭く観察する清少納言の姿が浮かび上がってくる。

「彼女は、きっと窓辺から見える景色を、細やかな感性で捉えていたんだろうな」

息が少し上がってきた。隆介は足を止め、水筒から水を飲んだ。振り返ると、徐々に高度を上げてきたことがわかる。遠くに静岡市の街並みが見えはじめていた。

一休みした後、再び山道を歩き始める。途中で出会うハイカーとは軽く会釈を交わす程度で、ほとんど言葉を交わさなかった。皆、それぞれの思いで山を楽しんでいるようだった。

およそ一時間半の登山の後、隆介は山頂に到着した。ベンチが設置され、展望台になっている場所がある。そこに座り、眼下に広がる景色を眺めた。

「うわぁ、すごい」

晴れ渡った空の下、静岡市の街並み、そして遠くに駿河湾の青い海が広がっている。天気が良いおかげで、富士山のシルエットも見えた。

隆介はバックパックからスマホを取り出し、『枕草子』を開いた。清少納言が「をかし(趣がある、素晴らしい)」と表現した景色の数々。彼女が生きた時代と現代では、見える風景は大きく変わっているはずだ。しかし、その美しさに心動かされる感覚は、千年を超えて共通しているのではないだろうか。

「ここで『枕草子』を読むのも、なかなか乙なものだな」

隆介は笑みを浮かべた。「乙」という表現は、平安時代の「をかし」に通じるものがあるかもしれない。時代は変わっても、人間の感性は意外と普遍的なのかもしれない。

時刻は午前八時を過ぎていた。山頂には他のハイカーも徐々に増えてきたが、まだ比較的静かな雰囲気を保っていた。隆介は心地よい疲労感と、澄んだ空気の中で、『枕草子』を読み進めた。

6

竜爪山の山頂で一時間ほど過ごした後、隆介は下山を始めた。山を降りながら、実家に立ち寄る計画を立てていた。

「久しぶりに父さんと母さんの顔を見て、それからゆっくり自分の時間を過ごそう」

下山道は登りよりも楽だが、膝への負担は大きい。慎重に一歩一歩を踏みしめながら、隆介は今朝の体験について考えていた。

「春はあけぼの」という言葉が、ここまで自分の心に響くとは思ってもみなかった。普段は忙しさに追われ、美しい瞬間を見逃していることが多い。しかし、たまにはこうして足を止め、目の前の景色に目を凝らすことも大切なのではないだろうか。

麓に近づくにつれ、他のハイカーとすれ違う機会が増えた。家族連れや、高齢の夫婦、そして若いカップルなど、さまざまな人々が休日の山を楽しんでいた。

隆介は駐車場に到着し、車に乗り込んだ。次の目的地は実家だ。実家は静岡市の郊外、車で二十分ほどの住宅街にある。

実家の前に車を停め、インターホンを押した。すぐに母の声が聞こえ、門が開いた。

「隆介!どうしたの、珍しいわね」

野村麻子(五十八歳)は息子の突然の訪問に驚きながらも、嬉しそうに迎え入れた。

「たまには顔を見に来ようと思って」と隆介は答え、靴を脱いで家に上がった。

「お父さん、隆介が来たわよ」

麻子の声に応えて、居間から野村誠一(六十二歳)が現れた。白髪が増えたものの、以前と変わらぬ温和な表情を浮かべている。

「おや、隆介か。珍しいな、こんな朝早くから」

「うん、今日は休みで。実は今朝、早起きして竜爪山に登ってきたんだ」

「竜爪山?」父は少し驚いた様子だった。「何かあったのか?」

「いや、特には。ただ、今朝目が覚めた時に、『春はあけぼの』という言葉が頭に浮かんで……」

誠一の目が輝いた。「ほう、『枕草子』か!」

「そうなんだ。窓から見える竜爪山の夜明けが、ちょうど清少納言が書いた風景と重なって見えたんだよ」

「なるほどね」と誠一は頷いた。「今の時期はちょうど『春はあけぼの』のシーズンだからな。隆介が文学に興味を持つなんて、珍しいじゃないか」

「そう、久しぶりに古典の授業を思い出したのよ」と麻子が茶を入れながら言った。「あなたが『枕草子』の授業で覚醒するなんて、私も驚いたわ」

三人は居間のテーブルを囲み、麻子が入れてくれた緑茶を飲みながら談笑した。隆介は今朝見た景色や、山登りの様子を両親に話した。

「お父さん、実は一つ聞きたいことがあるんだ」と隆介は言った。「『枕草子』の原本って、今でも残っているの?」

誠一は考え込むように腕を組んだ。「原本そのものは残っていないんだ。現存する『枕草子』は後世の写本で、それも複数の系統がある。能因本、三巻本、前田家本など、いくつかの伝本があってね」

「へえ、そうなんだ」

「それぞれの伝本で内容や順序が少し異なるんだよ。『春はあけぼの』で始まる冒頭部分は共通しているが、後半部分の構成は異なっている」

教師だった父は、詳しく説明してくれた。隆介は改めて、『枕草子』が千年もの時を超えて伝えられてきた奇跡のような作品だと感じた。

「ところで、お前はどういうきっかけで『枕草子』を思い出したんだ?」と誠一が尋ねた。

「実は、今朝四時半頃に目が覚めて、なぜか『春はあけぼの』という言葉が頭に浮かんだんだ。窓から見えた竜爪山の夜明けが、清少納言の描写にそっくりで……」

「なるほど」と誠一は目を細めた。「時々そういうことがあるよな。古典の言葉が突然蘇ってくることが。それだけ、その言葉に力があるということなんだろう」

隆介は頷いた。「そうかもしれないね。今まで古典なんて、学校の授業で習うだけのものだと思っていたけど、実は今の自分の感覚とも繋がっているんだって実感したよ」

「そうそう、古典っていうのはね、単なる過去の遺物じゃないんだ」と誠一は熱っぽく語り始めた。「人間の感性や思考は、千年前も今も、本質的にはそう変わらない。だからこそ、古典の言葉が今を生きる私たちの心に響くんだよ」

三人はその後も、文学や自然、そして家族の近況について語り合った。隆介は久しぶりに、両親と過ごす時間の温かさを感じていた。

7

実家を後にした隆介は、そのまま市内の書店に向かった。『枕草子』の現代語訳版を購入したいと思ったのだ。電子書籍ではなく、紙の本が欲しいと感じた。

「Newエース」という地元の大型書店に入り、古典文学のコーナーを探す。すぐに『枕草子』のさまざまな版が並んでいる棚を見つけた。現代語訳だけでなく、原文付きの研究書やマンガ版まであった。

隆介は悩んだ末、石田穣二・清水好子訳注の角川ソフィア文庫版を手に取った。原文と現代語訳、そして詳細な注釈が付いている本だ。

レジで支払いを済ませ、書店を出た隆介は、近くのカフェに入ることにした。「RATIO COFFEE」という落ち着いた雰囲気の店だ。窓際の席に座り、購入したばかりの『枕草子』を開いた。

ラテを一口飲みながら、現代語訳をじっくりと読み進める。自分が朝に見た光景が、千年前の言葉でこれほど鮮やかに表現されていることに、改めて感動した。

「清少納言は、すごい観察眼を持っていたんだな」

随筆のさまざまな章段を読みながら、隆介は彼女の文章力に感心した。感覚的なものを言葉で表現することの難しさを、日頃の仕事で経験している。プレゼンテーションや企画書で伝えたいことを正確に伝えるのに苦労することが多い。しかし清少納言は、微妙な感覚や景色の移ろいを、これほど的確に言葉にしていたのだ。

隆介は頭の中で、自分が見た竜爪山の夜明けを文章で表現してみようと試みた。

「春の明け方、竜爪山の稜線が徐々に白みを帯びていく。薄紫の雲が空にたなびき、静寂の中に新しい一日の始まりを告げている……」

不満足な表現だった。清少納言の簡潔で的確な言葉には遠く及ばない。

「やっぱり、千年前の彼女のほうが、言葉の使い手として上手いな」

隆介は自嘲気味に笑いながら、ラテを飲み干した。

カフェを出た後、彼は川沿いの遊歩道を散歩することにした。静岡市を流れる安倍川の清流と、周囲の山々の緑が心地よかった。

ふと空を見上げると、昼過ぎの空は深い青色に変わっていた。「春はあけぼの」の時間は過ぎたが、それでも美しい春の一日だった。

隆介は川のせせらぎを聞きながら、『枕草子』の一節を思い出した。

「をかし」

平安時代の美意識を表す言葉。趣がある、味わい深い、美しい、といった意味だろう。今日一日の体験は、まさに「をかし」という言葉がぴったりだと感じた。

川沿いを歩きながら、隆介は自分の日々の生活について考えた。毎日の忙しさに追われ、こうして自然や文学に触れる時間を持てていなかった。しかし今日の経験は、忘れていた何かを思い出させてくれた気がする。

日常の中にある美しさに気づく感性。それは清少納言のような天才的な文学者だけのものではない。誰もが持っている、しかし忙しさの中でしばしば忘れがちになる感覚だ。

「もっと『をかし』を感じる時間を大切にしよう」

隆介はそう心に決めた。仕事も大切だが、こうして心を澄ませる時間も必要だ。それが自分を豊かにし、結果的には仕事にも良い影響を与えるのではないだろうか。

安倍川の流れを眺めながら、隆介は新たな決意を胸に抱いた。

8

夕方、隆介は自宅マンションに戻っていた。一日の充実感と、適度な疲労感で体が心地よく重かった。シャワーを浴びた後、ベランダに出て夕暮れの空を眺めた。

「秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり」

『枕草子』の一節が頭に浮かぶ。春はあけぼのに対して、秋は夕暮れが美しいと清少納言は書いた。今は春だが、夕暮れの空も確かに美しい。

空は茜色に染まり始め、雲が金色に縁取られていた。朝に見た「紫だちたる雲」とはまた違った美しさだ。

「春の夕暮れも、なかなか『をかし』だな」

隆介は空を見上げながらつぶやいた。『枕草子』を読んだことで、風景の見方が少し変わったように感じる。今までは気にも留めなかった空の色や雲の形に、新たな美しさを見出すようになった。

部屋に戻り、購入したばかりの『枕草子』をテーブルに置く。続けて読みたい気持ちはあったが、疲れた体は休息を求めていた。明日からはまた仕事だ。少し早めに眠ることにした。

布団に入りながら、隆介は今日一日を振り返った。早朝に目覚め、竜爪山の夜明けを眺め、実際に山に登り、両親と会話し、そして『枕草子』に触れた。久しぶりに充実した一日だった。

「よく考えたら、月曜の朝のプレゼン資料、まだ確認してなかった」

仕事のことを思い出し、一瞬不安になる。しかし、今日の体験を通して得た新鮮な感覚は、明日からの仕事にも良い影響をもたらすかもしれない。

「明日もちょっと早起きして、夜明けを見てから出社しようかな」

そう考えながら、隆介はゆっくりと目を閉じた。

9

目を覚ますと、窓の外はまだ暗かった。デジタル時計は午前四時四十五分を示している。昨日と同じく、早朝に目が覚めた。

「昨日と同じ時間帯だな」

隆介は布団から抜け出し、窓辺に立った。東の空に目をやると、竜爪山の稜線が薄っすらと浮かび上がり始めていた。

「やうやう白くなりゆく山際」

昨日と同じ光景だが、今日はそれを形容する言葉を持っている。清少納言の言葉が、千年の時を超えて、今目の前にある風景を的確に表現している。

隆介は心静かに、夜明けの移ろいを眺めた。空が徐々に明るくなり、雲が淡い紫色に染まっていく。昨日と同じ現象なのに、『枕草子』を読んだ後では、見え方が少し変わっていた。より繊細に、より深く風景を感じ取ることができるようになった気がする。

「こんな風に、毎朝を始められたら素敵だな」

隆介はコーヒーを入れ、窓辺に座った。これから始まる一週間を考える。大きなプロジェクトの提案があり、チームを率いて新しいクライアントへのプレゼンテーションを行う予定だ。

「そういえば、プレゼン資料の冒頭、もう少し工夫できるかもしれない」

プレゼンテーションでは、聞き手の関心を引きつける出だしが重要だ。隆介は『枕草子』の簡潔で的確な表現を思い出した。無駄のない言葉で、聴衆の想像力を刺激するような導入ができないだろうか。

「『春はあけぼの』のような、印象的な一文から始めてみるか」

新たなアイデアが浮かび、隆介は急いでスマホのメモアプリを開いた。プレゼンのための新しい導入文を書き留める。

「変化は夜明けのように訪れる。最初はかすかな光が、やがて世界を変えていく——」

IT業界の変化の速さと、自社のサービスが持つ可能性を表現する言葉として悪くない。清少納言から着想を得たとは言え、現代のビジネスシーンにも通用する言葉になったと思う。

時刻は五時半を過ぎていた。そろそろ準備を始める時間だ。隆介はシャワーを浴び、仕事の準備を整えた。出勤するのはまだ早いので、朝食を取りながら『枕草子』を少し読むことにした。

「うつくしきもの」の段を読み進めると、清少納言が美しいと感じたものが列挙されていた。「瓜に描きたる稚児の顔」「白き扇に、赤き楝の細長に散りかかりたる」など、現代人には少し理解しづらい表現もあったが、それでも彼女の繊細な感性が伝わってくる。

「昔の人も、こうして美しいものに心を動かしていたんだな」

それは何か安心感を与えてくれた。時代は変わり、価値観は変わっても、美しいものに心を動かす感性は変わらない。そう考えると、千年前の人々がより身近に感じられた。

七時、隆介は家を出た。通勤電車に乗り込みながら、今日のプレゼンについて考える。『枕草子』から得たインスピレーションを活かし、簡潔で印象的なプレゼンにしようと決意した。

電車の窓から外を見ると、空はすっかり明るくなり、新しい一日が始まっていた。「春はあけぼの」の時間は過ぎたが、その余韻は隆介の心に残っていた。

10

会社に到着すると、隆介はまず会議室を予約した。プレゼン前に最終確認をしておきたかったのだ。プロジェクトのチームメンバーである佐藤と山田を呼び出し、改良したプレゼン資料を見せた。

「おはよう。ちょっと冒頭部分を変えてみたんだけど、どう思う?」

隆介はプロジェクターに映し出されたスライドを指差した。

「変化は夜明けのように訪れる。最初はかすかな光が、やがて世界を変えていく——」

二人は少し驚いた様子で資料を見つめた。

「野村さん、いつもより詩的ですね」と佐藤が言った。「でも、いい感じだと思います。印象に残りそう」

「うん、私も良いと思う」と山田も頷いた。「何かインスピレーションでもあったの?」

「実は昨日、『枕草子』を読んでね」と隆介は少し照れくさそうに答えた。「『春はあけぼの』って文章から着想を得たんだ」

「枕草子?」と佐藤が首をかしげた。「高校の古典の授業以来ですね」

「そうなんだよ。でも読んでみると、千年前の文章なのに、今の感覚とも通じるものがあって。それで、プレゼンにも活かせるかなと思ったんだ」

三人は資料の確認を進め、細かな修正点を話し合った。最終的なプレゼンテーションは、予想以上に良いものになった。

「これなら大丈夫そうだね」と隆介は安心した様子で言った。「午後のプレゼン、よろしく頼むよ」

デスクに戻った隆介は、メールチェックと資料の最終調整に取り掛かった。しかし、時折思考が『枕草子』に戻ることがあった。

千年前の女性が書いた文章が、今を生きる自分の心に響くのは不思議な感覚だ。そこには時代を超えた何かがある。人間の根本的な感性や、美を見出す眼差しは、時代が変わっても変わらないのかもしれない。

午後、隆介たちはクライアント企業を訪問した。大手製造業の新しいデジタルトランスフォーメーションプロジェクトの提案だ。会議室に案内され、十数名の相手企業の役員やマネージャーを前に、隆介はプレゼンテーションを始めた。

「変化は夜明けのように訪れる。最初はかすかな光が、やがて世界を変えていく——」

冒頭の言葉を述べた瞬間、部屋の空気が少し変わったのを感じた。皆、興味深そうに耳を傾けている。『枕草子』から着想を得た導入は、確かに効果があったようだ。

プレゼンテーションは予想以上に好評だった。提案内容についての質問も多く出て、クライアント側の関心の高さがうかがえた。

「野村さん、素晴らしい提案をありがとうございました」と、クライアント企業のデジタル戦略部長が握手を求めてきた。「特に冒頭の言葉が印象的でした。変化は確かに夜明けのようなものかもしれませんね」

「ありがとうございます。実は千年前の古典文学からインスピレーションを得たんです」

「へえ、それは興味深い」と部長は目を輝かせた。「古典と最新技術の融合、素晴らしいアプローチです」

会社に戻る電車の中で、隆介は窓の外を眺めていた。夕暮れ時の空が、オレンジ色に染まっていく。

「春はあけぼの」と「秋は夕暮れ」。清少納言の言葉が頭をよぎる。彼女の言葉は、千年の時を超えて現代にも通用する力を持っていた。それは単なる美しい表現ではなく、人間の感性の普遍性を示すものだったのかもしれない。

隆介は改めて、昨日の早朝に目が覚め、窓から竜爪山の夜明けを眺めたことに感謝した。あの瞬間がなければ、千年前の言葉と出会い直すこともなかっただろう。

「春はあけぼの」

その言葉は、これからも隆介の中で生き続けるだろう。そして彼は、忙しい日常の中でも、美しい瞬間に気づく感性を大切にしていこうと心に決めた。

窓の外では、夕日に照らされた雲が、金色に輝いていた。

11

それから数週間が過ぎた。隆介のプレゼンテーションが功を奏し、プロジェクトは正式に始動した。忙しい日々が続いたが、隆介は可能な限り早起きして、窓から竜爪山の夜明けを眺める習慣を続けていた。

五月に入り、季節は初夏へと移りつつあった。朝の空の色も、少しずつ変化している。

「季節によって、空の表情も変わるんだな」

隆介は『枕草子』に書かれた四季の美しさを思い出した。清少納言は、春は夜明け、夏は夜、秋は夕暮れ、冬は早朝が美しいと書いた。今は春から夏へと移る時期。夏の夜の美しさも、まもなく楽しめるだろう。

仕事の合間に、隆介は時折『枕草子』を開いていた。初めは「春はあけぼの」の部分だけに関心があったが、次第に他の章段にも興味を持つようになった。特に、「をかし」と感じるものや、「あはれ」と感じるものの描写に、清少納言の繊細な感性を見出した。

ある週末、隆介は以前から計画していたことを実行に移した。京都への小旅行だ。『枕草子』を読んだ影響で、平安時代の文化や風景に触れたいと思ったのだ。

新幹線で京都へ。到着したのは昼過ぎだった。宿泊先のホテルにチェックインした後、隆介は早速、平安神宮へと向かった。平安時代の建築様式を模した神宮の朱色の社殿が、今にも清少納言が現れそうな雰囲気を醸し出していた。

「清少納言が生きていた頃は、こんな風景だったのかな」

隆介は神宮の庭園を歩きながら考えた。現代の京都は、当時の平安京とは大きく異なるはずだ。しかし、古都の空気には何か特別なものが感じられた。

翌朝、隆介は早起きして、ホテルの窓から東山の夜明けを眺めた。京都の山々も、静岡の竜爪山と同じように、朝日に照らされて美しかった。

「春はあけぼの」

千年前、清少納言も似たような景色を眺めていたのかもしれない。そう思うと、時空を超えたつながりを感じた。

京都での二日間は、あっという間に過ぎた。平安神宮、清水寺、嵐山など、いくつかの名所を巡った。どの場所も独特の美しさを持ち、清少納言の言う「をかし」を感じさせるものだった。

静岡に戻った隆介は、旅の余韻を感じながら、いつものように竜爪山の夜明けを眺めていた。五月も半ばを過ぎ、夜明けの訪れはさらに早くなっていた。午前四時過ぎには、すでに空が白み始める。

「もうすぐ夏だな」

『枕草子』によれば、夏は夜が美しいという。特に蛍が飛ぶ様子や、雨の夜の趣深さを清少納言は書き記していた。

「そろそろ、蛍を見に行く季節かもしれない」

隆介は安倍川の上流、蛍が見られる場所があることを思い出した。週末になったら行ってみようと決めた。

季節が移ろう中で、隆介の日常にも小さな変化が生まれていた。以前なら見過ごしていたような瞬間の美しさに気づくようになった。朝の露が草に輝く様子、雨上がりの澄んだ空気、夕暮れの茜色に染まる雲。それらすべてが、清少納言の言う「をかし」の感覚と重なり合う。

会社でも、隆介の変化は周囲に影響を与えていた。プレゼンテーションのスタイルが洗練され、簡潔で印象的な表現が増えた。クライアントからの評価も高く、新たなプロジェクトの話も舞い込むようになった。

「野村さん、最近変わったよね」と同僚の佐藤が言った。「なんか、物事の見方が深くなったというか」

「そう?」と隆介は笑った。「たぶん、千年前の言葉に影響されたんだと思うよ」

「千年前の言葉、ね」と佐藤は首をかしげた。「でも、確かに効果があるみたいだね」

隆介は頷きながら、窓の外を見た。オフィスの窓からは竜爪山は見えないが、空の青さは同じだ。その空の下で、清少納言も生き、感じ、言葉を紡いだ。時代は変わっても、人間の感性の根本は変わらない。その事実が、隆介に安心感を与えた。

12

五月の最後の週末、隆介は実家を訪れた。前回の突然の訪問から一カ月余り、両親の顔を見ていなかった。

「久しぶり」と麻子が笑顔で迎えてくれた。「元気にしてた?」

「うん、おかげさまで」と隆介は答え、靴を脱いで家に上がった。

居間では、誠一がテレビの前で新聞を読んでいた。隆介を見ると、嬉しそうに立ち上がった。

「隆介、来たか。元気そうだな」

「うん、仕事も順調だよ」

「そうか。前回、『枕草子』の話をしていたが、あれからどうなった?」

隆介は、この一ヶ月あまりの間に『枕草子』との関わりがむしろ深まったことを話した。早朝に竜爪山の夜明けを眺める習慣や、京都へ旅行したことも伝えた。

「へえ、隆介が古典に興味を持つなんて」と誠一は嬉しそうに目を細めた。「やはり、文学の力は侮れないな」

「そうね」と麻子も加わった。「あなたのお父さんも、いつも言ってたものね。古典の言葉には力があるって」

三人は食卓を囲み、食事をしながら話を続けた。隆介は仕事のこと、両親は近況を語り合う。穏やかな時間が流れていく。

食後、誠一は書斎から一冊の本を持ってきた。表紙には「枕草子 新訳」とある。

「これは最近出版された『枕草子』の新しい訳なんだ」と誠一は言った。「現代の感覚に合わせつつも、原文の持つリズムや響きを大切にした訳だよ。良かったら読んでみてくれ」

「ありがとう、父さん」隆介は本を受け取った。「大切に読むよ」

帰り際、麻子が隆介を玄関まで送ってきた。

「隆介、最近表情が柔らかくなったわね」と母は言った。「前は、いつも仕事のことばかり考えて、少し硬い感じだったけど」

「そう?」隆介は少し照れくさそうに笑った。「たぶん、『春はあけぼの』のおかげかな。毎朝、窓の外を見るようになったから」

「それはいいことね」と麻子は優しく微笑んだ。「忙しい毎日でも、少し立ち止まって、周りの美しさに気づくことは大切よ」

隆介は頷き、母に別れを告げた。

自宅に戻った隆介は、父から贈られた『枕草子 新訳』を開いた。印象的な現代語訳に目を通しながら、感心した。確かに、現代の感覚に合わせつつも、原文の持つ魅力を損なわない訳だった。

その夜、隆介は久しぶりに早く眠った。明日も早起きして、夜明けを眺めようと思った。

朝、目が覚めると、窓の外はまだ暗かった。時計を見ると、午前三時五十分。少し早い起床だ。

隆介は窓辺に立ち、東の空を見た。まだ夜明け前だが、わずかに空が明るくなり始めている気がした。

「夏が近づくと、夜明けも早くなるんだな」

『枕草子』では、夏は夜が美しいとされていた。蛍の光や、月夜の美しさ、そして雨の夜の趣深さを、清少納言は繊細に描写している。

「そうか、季節が変わっていくんだ」

隆介は思った。「春はあけぼの」の季節から、「夏は夜」の季節へ。清少納言の言葉に導かれるように、隆介も季節の移ろいを敏感に感じるようになっていた。

空が少しずつ白み始め、竜爪山の稜線が浮かび上がってきた。五月末の早朝の空気は、清々しいものだった。

「『春はあけぼの』から始まった日々が、これからどこへ続いていくのだろう」

隆介はそう考えながら、コーヒーを淹れた。一日の始まりを静かに迎える習慣は、すっかり彼の生活の一部になっていた。

竜爪山が朝日を浴びて顔を出し始めた。新しい一日の始まりだ。隆介は深呼吸し、新鮮な朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「今日も、良い一日になりますように」

そう願いながら、隆介は窓辺を離れ、新しい一日の準備を始めた。

13

梅雨の季節が訪れた。毎朝の夜明けも、雨や曇り空のことが多くなった。それでも隆介は早起きの習慣を続け、窓から景色を眺めていた。

ある雨の朝、隆介は『枕草子』の一節を思い出した。

「雨など降るもをかし」

清少納言は、夏の夜の雨もまた趣があると書いている。隆介は窓から降り注ぐ雨を見つめた。雨粒が窓ガラスを伝い落ち、街灯の光に照らされて輝いている。これもまた、「をかし」と言える風景だろうか。

梅雨の合間の晴れ間に、隆介は安倍川上流の蛍の名所を訪れた。夕暮れ時に到着し、暗くなるのを待った。

「夏は夜」

清少納言の言葉を思い出しながら、隆介は夜の訪れを待った。周囲が暗くなり始めると、水辺に小さな光が見え始めた。一つ、また一つと、蛍の光が増えていく。

「蛍の多く飛びちがひたる」

『枕草子』そのままの光景だった。小さな光が水面の上を飛び交う様子は、まさに清少納言が千年前に見て、「をかし」と感じた光景そのものだろう。

隆介はしばらく蛍の舞を眺めていた。他の観光客も何人かいたが、皆静かに蛍の光に見入っている。人間は古来より、この小さな光の舞に心を奪われてきたのだ。

会社では、プロジェクトの進行が佳境を迎えていた。クライアントとのミーティングが増え、残業することも多くなった。それでも隆介は、朝の時間だけは確保するようにしていた。たとえ十分でも、竜爪山の夜明けを眺める時間が、一日の活力になっていた。

ある日の午後、重要なクライアントとのミーティングが終わった後、相手企業の部長が隆介に声をかけた。

「野村さん、前回のプレゼンの冒頭、『変化は夜明けのように訪れる』という言葉が印象に残っていました」

「ありがとうございます」と隆介は答えた。

「あれは、どこかの引用なのですか?」と部長は尋ねた。

「直接の引用ではないのですが、平安時代の『枕草子』という随筆から着想を得ました」と隆介は説明した。「『春はあけぼの』という有名な一節があって、それに影響されたんです」

「へえ、古典文学からビジネスのインスピレーションを得るとは、面白いアプローチですね」

部長の言葉に、隆介は嬉しさを感じた。自分の中での変化が、仕事にも良い影響を与えていることを実感した。

梅雨が明け、本格的な夏が訪れた。朝の日の出は更に早くなり、隆介が目覚める頃には、すでに空が明るくなっていることが多くなった。

「もう『春はあけぼの』の季節ではなくなってきたな」

彼は少し寂しく思った。しかし、季節の移ろいもまた自然の摂理だ。清少納言も、四季それぞれの美しさを捉えている。

夏の暑い夜、隆介は久しぶりにベランダで涼んでいた。星空を見上げると、天の川がかすかに見えた。

「都会でも、こうして星が見えるんだな」

夏の夜空の美しさに気づいたのは、『枕草子』の影響だろうか。以前の自分なら、暑さにばかり意識が向いて、夜空の美しさに気づかなかったかもしれない。

スマホを手に取り、『枕草子』の「夏は夜」の部分を読み返す。確かに清少納言の言う通り、夏は夜の静けさや、星々の輝き、蛍の光が美しい。日中の暑さから解放され、涼しさを感じる夜の瞬間には、独特の魅力がある。

「季節ごとに、美しいと感じる瞬間が違うんだな」

隆介は星空を見上げながら考えた。春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬は早朝。四季それぞれに、最も美しいと感じる時間がある。そして、その感覚は千年前も今も変わらない。

彼は深呼吸した。
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