『運命の証』

小川敦人

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「紅葉の縁側で紡ぐ45年の愛 〜平凡の中に宿る運命の絆〜」

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『運命の証』 
夕暮れの縁側で、七十二歳の康夫は妻の美代子の手を優しく握った。
二人で庭に咲く紅葉を眺めながら、これまでの人生を振り返っていた。
「美代子、覚えてるかい?俺たちが出会った時のこと」
美代子は微笑んで頷いた。「ええ、もちろんよ。あの頃のあなたは、随分とはしゃいでたわね」
「はしゃいでなんかいなかったよ」康夫は照れ臭そうに否定したが、目は優しく輝いていた。
四十五年前、二人が出会ったのは平凡な縁だった。取引先の会社の経理部で働いていた美代子と、新規事業の打ち合わせで顔を合わせただけ。
特別な運命を感じるような出会いではなかった。ただ、なぜか二人とも自然と惹かれあっていた。
最初のデートは映画館。その後、何度か食事に行き、休日には近所の公園を散歩した。
派手な恋愛ではなかったが、二人とも相手といると心が落ち着くのを感じていた。
美代子は決して美人というわけではなかった。丸顔に平凡な目鼻立ち、背丈も低めで、どこにでもいるような女性だった。
学生時代は目立つ存在ではなく、勉強も運動も中程度。特別な才能があるわけでもなく、ただ真面目に日々を過ごすような女性だった。
康夫も同じように、特筆すべき特徴のない男性だった。学校の成績は中の中、運動も得意ではなく、どちらかというと目立たない存在だった。
大学も地方の無名校を卒業し、普通のサラリーマンとして働いていた。
「あの頃を思い返すと、私たち、本当に普通の男女だったわね」と美代子。
康夫は「そうだな。俺なんて、お前と付き合う前は、合コンでもいつも空気みたいな存在だったよ」と笑う。
だが、そんな二人だからこそ、互いの欠点も長所も自然と受け入れることができた。
美代子は康夫の少し不器用な優しさに心を惹かれ、康夫は美代子の飾らない笑顔に安らぎを覚えた。
「でも、あなたと話していると、自分らしくいられたの」と美代子は当時を振り返る。
「他の人と話す時は、どこか背伸びしているような気がしてたけど」
康夫も頷いた。「俺もだよ。お前となら、格好つけなくていい。ただの自分でいられる」
世間の目から見れば、二人の出会いも、外見も、経歴も、すべてが平凡そのものだった。
しかし、互いにとっては、その「普通」こそが最も心地よかった。
派手な恋愛も、華やかな経歴も、際立つ美貌もなかったが、二人は確かな絆で結ばれていった。

結婚して一年後、美代子は第一子を妊娠した。
しかし、つわりが重く、入院を余儀なくされた。康夫は毎日仕事帰りに病院に寄り、美代子の体調を気遣った。
「あの時は本当に心配したよ」康夫は当時を思い出して言った。
「ええ。でも、あなたが毎日顔を見せてくれたから、私、頑張れたの」
その後、無事に長女の香織が生まれ、三年後には長男の一也も誕生した。
二人は子供たちに対して、何よりも「元気で平凡な人生を歩んでほしい」と願っていた。
康夫も美代子も、自分たちが特別な才能や成功を持っていたわけではなく、それでも普通の幸せを感じながら生きてこられたことに感謝していたからだ。
だからこそ、子供たちに対しても、「無理に背伸びをせず、自分らしく生きてほしい」と願い、その思いを育児方針にも反映させていった。
二人は、子供たちが自然と触れ合う機会を大切にしていた。康夫が休日のたびに連れて行ったのは、公園や川原、時には山や海だった。
香織が三歳になったばかりの頃、近所の川原にピクニックに行った日がある。
そこでは、康夫が川で小魚をすくう網を見せながら、「香織、これで魚を捕まえるんだぞ」と教えた。
香織は真剣な表情で小さな網を握りしめ、一匹の魚を捕まえるまで何度も挑戦を続けた。
その姿に美代子は「この子は負けず嫌いなのかもしれないわね」と笑い、康夫は「そうだな。でも、楽しむことを忘れないでほしいな」と目を細めた。
一也が生まれて家族が四人になると、遊び場の選択肢はさらに広がった。
山道で落ち葉を集めたり、庭に集めたどんぐりで香織と一也が「どんぐり屋さん」を開いたりするのが定番だった。
康夫はそのどんぐり屋の「お客さん」となり、真剣な顔で「この大きいどんぐりをください」と買い物ごっこをした。
美代子はその様子を縁側から見ながら「いいお父さんね」と呟き、微笑んでいた。
家族旅行は、いつも自然の豊かな場所を選んだ。香織が小学校に上がった頃には、家族でキャンプに行くようになった。
テントの張り方や火起こしは、康夫の得意分野だった。
子供たちは火を囲んで歌を歌ったり、星空を眺めて「お星様がこんなにたくさんあるなんて知らなかった」と目を輝かせたりしていた。
美代子はその時間を通じて「自然の中で過ごすと、心が豊かになるわね」と何度も感じた。
特に思い出深いのは、一家で行った高原での夏休みだ。香織が小学三年生、一也が幼稚園に通っていた頃だ。
高原の広大な牧場で、二人は思いっきり走り回り、牛を間近で見たり、羊に触れたりした。
一也が「この牛、僕より大きい!」と驚いた顔をすると、香織が「当たり前よ!牛だもん!」と笑いながら突っ込む姿に、美代子は「二人とも元気に育ってくれている」と幸せを噛みしめた。
「自然に触れることで、子供たちが元気にのびのびと育ってくれたら、それだけで十分だよ」と康夫はいつも言っていた。
美代子もそれに深く同意していた。「勉強ができなくても、運動が得意でなくても、心が優しくて健康でいられたらそれでいい」と。
だからこそ、二人は子供たちに対して厳しく何かを強要することはなく、どちらかというと自由に育てることを心掛けていた。
そんな育て方が功を奏したのか、香織も一也も素直で明るい性格に育った。
学校でも友達に恵まれ、特にトラブルを起こすこともなく、いつも家族に笑顔を運んでくれた。
康夫と美代子にとって、そんな子供たちの姿は何よりの喜びであり、平凡ながらも豊かな幸せの象徴だった。

子育ての日々は忙しく、時には夫婦喧嘩もした。
ある日のこと、夕飯の支度中に些細なことから夫婦の間に火花が散った。
きっかけは、美代子が作ったカレーの具材の切り方だった。
「美代子、この人参、いつもより大きくないか?子供たち、食べづらそうだぞ」
康夫が指摘したその一言が、美代子の琴線に触れた。
「何よ、それくらい自分で切ればいいでしょ!文句を言うなら手伝いなさいよ!」
「そんなこと言ったって、俺は仕事で疲れて帰ってきたんだぞ!家に帰ったら、少しはリラックスさせてくれよ!」
そこから言い合いはエスカレートし、今度は互いの「家事の分担」が議題になった。
美代子は、子供たちの世話や家事の負担がどれほど重いかを訴えたが、康夫も「自分だって残業や休日出勤が多い」と反論した。
「じゃあ、一体誰が子供たちの世話をするのよ!?夕方から子供たちと宿題を見て、寝かしつけるまで休む暇なんてないのよ!」
「俺だって、こんなに働いてるのに、感謝の一言もないじゃないか!」
その日は結局、お互いに怒りながら眠りについた。翌朝、普段なら美代子が準備する康夫の弁当が、キッチンには見当たらなかった。
代わりに、「自分でどうぞ」と書かれたメモが置かれていた。康夫は苦笑しながら、仕方なく冷蔵庫から適当なものを詰め込んで出勤した。
仕事中もお互いの言葉が頭を離れず、なんとも言えない後味の悪さを感じていた。
昼休み、ふと康夫が弁当箱を開けると、適当に詰めたはずのご飯の上に小さな海苔で作られたハートマークが載っているのを見つけた。
それを見た瞬間、康夫は思わず吹き出し、電話を手に取った。
「美代子、今朝の弁当のハートマーク、あれお前がやったのか?」
電話の向こうで、少し照れたような美代子の声が返ってきた。
「別に…、ただ放っておけないだけよ。」
その夜、康夫は花屋で小さなブーケを買って帰った。
夕飯の席でそれを美代子に差し出し、「悪かったよ。俺も手伝うから」と一言。
美代子は少し驚いた顔をして、それから静かに頷いた。
「まったく、本当に手間のかかる人なんだから…」
「お互い様だろ?」
こうして、犬も食わないような喧嘩も二人の絆を少しずつ強くしていったのだった。

特に、康夫が転職を考えていた時期は二人の意見が大きく分かれた。
「あの時、随分と意見が合わなかったね」康夫は懐かしむように言った。
「そうね。でも、あなたの決断を信じることにしたの。それが正しかったわ」
康夫の転職は成功し、家族の生活は徐々に安定していった。
しかし、五十代に入ると今度は美代子が乳がんを患った。診断を受けた日、美代子は康夫の前で涙を流した。
「死ぬのが怖いわ」と告白した時、康夫は強く妻を抱きしめた。
「大丈夫だ。俺がついている」
手術、抗がん剤治療と、つらい日々が続いた。美代子の髪が抜け、体重が激減していく姿を見るのは辛かった。
でも康夫は、妻の通院に付き添い、家事を引き受け、必死で支え続けた。
「あの時のあなた、本当に頼もしかったわ」美代子は今でも感謝の気持ちを込めて言う。
「当たり前だよ。俺の大切な人なんだから」
二人の娘たちも成長し、それぞれ自分の家庭を持った。今では孫も五人いる。
若い頃とは違い、二人とも体力は衰え、しわも増えた。でも、お互いを見る目は、むしろ若い頃より愛情深い。
「康夫さん」美代子が静かに呼びかけた。「私たち、運命の人だったのね」
康夫は黙ってうなずいた。若い頃は、運命の人とは劇的な出会いをする相手だと思っていた。でも今なら分かる。
運命の人とは、一緒にいて心が落ち着く人。言葉がなくても分かり合える人。困った時に支え合える人。
そして何より、時が経っても愛おしさが増していく人なのだと。
「美代子」康夫は妻の手をさらに強く握った。「これからも、よろしく頼むよ」
美代子は夫の肩に頭を寄せた。「ええ。私も、あなたと一緒に歳を重ねていきたいわ」
夕陽が二人の影を長く伸ばし、やがて庭の紅葉を赤く染めていった。
静かな時間が流れる中、二人は昔と変わらぬ愛情を確かめ合っていた。
運命の人は、出会った瞬間に分かるものではない。
長い時間をかけて、お互いを理解し、支え合い、成長していく中で、自然と気付くものなのだ。
康夫と美代子は、四十五年という歳月をかけて、それを実感として理解していた。
その日も、二人は寄り添いながら、穏やかな夕暮れのひとときを過ごしていた。
明日も、明後日も、そしてその先も、二人で一緒に過ごしていく。それが、彼らにとっての幸せだった。

夕陽が沈み、夜の帳が降りる頃、康夫と美代子は縁側でしばし静寂を楽しんだ。
月の光が庭の紅葉を薄らと照らし、二人の顔にも柔らかな陰影を描き出していた。
「美代子、俺たち、ずっとこうしていられたらいいな。」
康夫が静かに呟くと、美代子は微笑みながら頷いた。
その瞬間、彼らの心には言葉にならない感謝と愛情が溢れていた。
康夫はポケットから一枚の紙を取り出した。そこには、彼が何日もかけて書き上げた詩が綴られていた。
彼は少し照れたようにそれを声に出して読み始めた。

「運命の人は、ある日突然現れるとは限らない、
出会いより、その後の関係が運命を決める。
居心地の良さは、何よりのサイン。
一緒にいると、自分らしくいられる人。
特別な瞬間より、何気ない日常が愛おしい人。
心が通じ合うとは、沈黙すら心地よい。
運命の人は探すものではなく、気づくもの。
価値観がすべて同じ人ではなく、違いを受け入れ合う人。
どんな時も、味方でいてくれる人が本物。
あなたにとって、"本物の運命の人"とは。」

康夫が詩を読み終えた時、美代子の目には涙が浮かんでいた。
「康夫さん、その詩、とても素敵ね。まるで、私たちのことを言っているみたい。」
康夫は少し恥ずかしそうに笑った。「そうだな。でも、それはお前が俺にとっての本物の運命の人だからだよ。」
二人はお互いに微笑み合い、再び庭の紅葉に目を向けた。その夜、彼らの心には確かな絆と穏やかな幸せが満ちていた。

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