群青の夏

黒飛蝗

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意志の強さ

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 社会科は、義秀の担当教科でもある分、特に厳しく指導されただけに、誠にとって、最も得意な教科だ。だが今日は、塾の授業が始まっても、誠はやはり集中できなかった。いつもの習慣で板書だけは怠らなかったが、授業の内容は今一つ耳に入ってこない。板書を終え、ふと窓の外に目をやると、もう陽はすっかり暮れていた。

 帰宅ラッシュの時間のせいか、午後の駅前は、この時間帯がもっとも賑やかだ。スーツを着た会社帰りのビジネスマン。自転車の籠を一杯にした買い物帰りの主婦。塾帰りの小学生。高齢者は比較的少ない気がする。

 五階という高さから、俯瞰気味に街の風景を見下ろしてみると、街を行き交う人々の姿はとても小さくて、地上ですれ違う時に比べ生命感を感じない。それでも彼らは確かに生きていて、一人ひとりにそれぞれの人生があり、家族や友人もいて、そして彼らにもまた、それぞれの人生がある。

 人類が誕生してから、今までにいくつの人生があったのだろう。これから先、いくつの人生が始まり、終わってゆくのだろう。その時間を全て足したら、どれくらいの時間になるのだろう。そして自分の人生は、その全体の何分の一くらいになるのだろう。

 地球全体と、砂浜の砂ひと粒くらい? いや、もっと小さいかもしれない。
 それでも、自分にとってはこの人生だけが全てなのだ。この人生を、どれだけ実りあるものに出来るか、それが何より大切なのだ。そのためにも、今は強い気持ちで戦わなければならない。父のものではない、自分自身の人生の為に。

「……か、井岡」
「えっ」
 早川の声に、はっとして振り返る。
「どうした井岡。上の空で外の景色なんか見て。いつも熱心に聞いてるお前が珍しいな。部活で疲れてるのか?」
「いや、大丈夫です。すいません」
「そうか。それならいいけど、具合が悪いようなら、すぐに言うんだぞ」
「あ、はい」
 一応、そう答えた誠だったが、結局最後まで、授業には集中できなかった。

 憂鬱な気分のまま帰り支度をしている所へ、亮平が声を掛けてきた。
「井岡、ちょっとコンビニ寄ってこうぜ」
 誠と亮平は、塾があるビルの隣にあるコンビニでアイスを買い、それを店先で食べることにした。

「お前さ、今日ずーっと、ぼけっとしてたけど、どうしたんだよ?」
 店先の地べたに座り込んでアイスを齧りながら、亮平が尋ねる。
「いや……、ちょっと考え事しててさ」
 誠も、ビルの壁に背中を預けながら、そう答えた。
「東商に行こうか、どうしようかって?」
「うん……」
「そういや、お前ん家って、親父さんが結構厳しいんだっけ?」
「うん。まぁ、教師なんかやってるぐらいだから。俺が野球続けるの、反対なんだよ」
「それで、野球部無いとこが第一志望なんだ。なるほどねぇ」

「阿部だったら、どうする?」
「んー、わかんねぇな。まぁ、俺は東商からスカウトされるほどの野球の実力も、進学校に合格できそうなほどの成績も無いからさ。俺からすりゃ、贅沢な悩みにも思えるけど、でもさ……」
 そこまで言って亮平は、食べ終わったアイスの棒を加えたまま、俯いて口をつぐんだ。誠は、その横顔を、無言で見つめた。

 そういえば、亮平の家は父子家庭だという事を、以前聞いたことがあった。母親は、幼少の頃に亡くなったのだという。さっきは塾へ来る理由を、家で一人じゃつまらないから、などと冗談交じりに言っていたが、実はそれは亮平の本音で、もしかしたら、こう見えて案外寂しがりなのかもしれない。

「……あのよ、俺や翔太がいたのチームの三コ上の先輩でピッチャーやってた人でさ、って言っても、翔太が入ってくる前の年に卒業しちゃったから、あいつとは面識ないんだけど。で、その人も野球推薦で長浜実業に行ったんだよ。木田君って人なんだけど」
「長実か。名門じゃん」

 長浜実業は、甲子園出場回数で言えば、東商よりやや少ないが、二十年ほど前に春の甲子園で準優勝した事が一度ある。輩出したプロ野球選手の人数も、東商より多い。

「その人の親父も長実の元エースでさ、ガキの頃から親父さんにしごかれまくってて、その分上手かったよ。とにかくコントロールが良くてさ。フォアボールなんかほとんど出さなかったし。でも親父さんほんとに厳しかったみたいで、本人は、もう勘弁してって感じだったみたいなんだよね。本人的には、野球自体は嫌いじゃないけど、あくまで楽しむレベルでやりたかった的な感じで。だから長実行くのも、あんまり乗り気じゃなかったんだって。で、嫌々行かされた長実ですぐに肘壊して、1年の途中で結局転校しちゃったんだよ。でも高校の転校って、結構難しいらしくてさ、結局通信制のとこしか入れなかったみたい」

 他人事とは、思えなかった。父の身勝手で、自分の進路が決まってしまった時、どれほど悔しかっただろう、どれほど自分を情けないと思っただろう。

「でさ、こないだ久しぶりに木田君に偶然会って、色々しゃべったりしたんだけどさ、昔はいつも優しくて、誰かの悪口なんか絶対言わないような人だったのに、親父さんのこととか、今の学校のこと愚痴ってばっかで、なんか見ててかわいそうになっちゃってさ。だから、その……、おせっかいかも知れないんだけど、お前にも同じような事で後悔して欲しくないんだよ。お前も後悔したくなかったら、ほんとに東商で野球したかったら、絶対諦めんなよ。最後はお前の意志の強さ次第だぜ」

 そう言って亮平は、誠の目を真っ直ぐに見た。誠も、その視線を正面から受け止めた。それでも二人の視線が重なっていたのは、ほんの一、二秒だった。亮平のほうが、照れくさくなって視線を外してしまったのだ。

「悪ィ、なんか熱く語っちゃってさ。ほんとに大きなお世話だよな、お前だって、自分なりに悩んでるんだろうし」
「そんな事無いよ。聞いてよかった。ありがとな、阿部」

 普段はお調子者で、ふざけてばかりいる亮平の、不器用な優しさが嬉しかった。
「そんなら、いいんだけどさ」
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