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小児病棟
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虹色のモールがかわいい。
もうすぐクリスマス。毎年この時期になると、みんなそわそわし始める。
小さな呼吸器をつけたまさみちゃんが、絵本を見ながら抱きしめている象のぬいぐるみに話しかける。きっと、絵本のお話をしてあげているのだ。
殺風景にならないよう、窓には雪の結晶をかたどったシールが張られ、冬空と重なるように外の光は病室に柔らかく届いている。
「佐藤さん、洋子ちゃんの点滴、そろそろ終わるころだから見てあげて」
「はい」
婦長の飯沼さんはいつもそつなく指示してくる。20年以上のベテランだ。わたしはまだ2年目の、看護師としてはまだ新米だから、そんなあたしをいつもフォローしてくれる。
1年前に一般病棟からここに移ってきたときは正直辛かった。小さい子供が病気とたたかっているのを見ると、胸が締め付けられる。それは今もかわらない。元気に退院していった子もいれば、また、そうでない子もいる。神様はどこで分け隔てするのだろう、と思う時がある。
「洋子ちゃんごはん美味しかった?」
点滴の交換をしながら聞いた。いつも赤い手袋をしている。お母さんがくれた、洋子ちゃんのお守り。
「きょうはねー、おやさいのこしちゃったの。でもねー、ちーちゃんがたべなさいって」
ちーちゃんは洋子ちゃんの隣に置いてあるウサギのぬいぐるみ。お姉ちゃんだそうだ。薬の影響でいろいろな音や声、ものが見えることがあると岡崎ドクターが言っていた。
でも、洋子ちゃんの場合は、きっとメルヘンの世界にいて、そういうものたちとお話ができる、とわたしは思っている。
「さっきまで、あおちゃんがきてくれてたの。あおちゃん、ツリーをもっていっちゃたよ」
あおちゃんか。また新しいキャラクターができたんだ。あれ?朝まで窓の側にあった、小さなクリスマスツリーがなくなってる?
「ママがねー、あの子とはあそんじゃダメだって。でも、いい子なんだよー」
洋子ちゃんのママは去年、癌でなくなっている。洋子ちゃんと同じ病気だ。
「そうかー。ママの言うことは聞かなきゃならないしー、洋子ちゃん、困ったねー」
「うーん、でも、またよるに、くるって、あおちゃん」
「きたらお姉さんがよろしくって言ってたって、伝えてね」
「わかった。でもあおちゃん、きっと」
「佐藤さん。たかし君、急変。急いで」
同僚の松岡さんが慌てている。
「ごめんね、洋子ちゃん。また後で来るね」
「うん、バイバイ」
たかし君は呼吸器系の病気でかなり重いのだ。岡崎ドクターが走っているのが見えた。
「喘息の強い発作です」
「ドクター、SPO2下がってます。チアノーゼでました」
「リリーバーもってきて」
「プレドニンですね」
「そう。早く。酸素、濃度上げて」
発作の治療薬だ。
処置が終わったのは夕方近くだ。たかし君の容体は安定した。週に何回かこれを繰り返す。
小さい体で頑張っている。だから見ると余計辛い。でも、そんなことを言っていると、頑張っている子たちに申し訳ないと、いつも気を引き締める。
ラウンジを通りかかると、見慣れない子がいた。ひとりで折り紙を折っている。8歳くらいの女の子だ。
「どうしたの?お食事は終わったの」
女の子は無言でこちらをじっと見ている。何か変だな、と思ったが、疲れているせいもあって、そのまま通り過ぎる。洋子ちゃんの点滴を交換しなければ。本当に忙しいのだ。そして気が抜けない。
「お野菜、食べられた?」
血色があまりよくない幼い顔に、赤い手袋が痛々しい。
「うん、すこしだけど、たべた。ちーちゃんがほめてくれたよ」
「すごーい。がんばったねー」
「でも、あおちゃんはよろこばなかったよ」
「まあー、それは残念ねー」
共感と共存、ぺプロウの書いた看護理論だ。段階的なプロセスで患者の心的な治癒をアプローチする。などと習ったが、よくわからない。まだ未熟ですいません。
「カーテン閉めようっか」
「ううん。お月様がきれいだから、いい」
月は見えなかったが、きっと洋子ちゃんには見えるんだね。
窓から夕暮れの街が見える。高層ビルの窓の明かりが星のようだ。
「あっ」
「どうしたの?」
洋子ちゃんが怪訝そうに私を見る。
「ううん、なんでもないよー」
わたしはラウンジに戻った。誰もいなかった。さっき見た子はいない。記憶の隅の違和感。さっきここに、窓に映っていたのはわたしだけじゃなかったか?
ラウンジのゴミ箱に小さなクリスマスツリーが突っ込まれていた。
引継ぎを終え、家へ帰るとかなり遅い時間になっていた。母が夕飯を温め直してくれている。お風呂で体と心を温めた。疲れたな。今日一日のことはなるべく思い出さないようにした。
中華の素を使った簡単な料理だが、美味しかった。テレビを見たかったが、もう歯磨きをして寝ることしかできない気がする。眠かった。
「かあさん、もう寝るー」
「頭ちゃんと乾かしなさいよ」
「うへーい」
ドライヤーを持って部屋に向かう。あたしの部屋のドアの前に、何か落ちている。
「折り紙?なんで?」
折り紙らしきものだ。なんのカタチかわからないが、折り紙で折られている。
「かあさーん、折り紙落ちてるわよー」
「知らないわよー。あんたんじゃないのー?」
「え、だって」
知ってる。赤い折り紙。さっきあの子が、折っていた。
翌朝、病棟に行くと、たかし君が亡くなっていた。昨夜、発作が起き、そのまま逝ってしまったそうだ。
たかし君のお母さんとお父さんがいる。見ていられないほど辛くなる。
病室の前に来ると、微笑むように努力する。少しでも不安を感じさせてはいけないのだ。笑って、わたし。
「おはよう、洋子ちゃん。お熱計りましょうねー」
洋子ちゃんは赤い手袋を、胸の前でぱしぱししながら、じっと見ている。
「どうしたのー」
「あのね、あのね」
体温計を細い腕のあいだに差し込む。透きとおるくらい白い肌。
「なんかあったのー?」
「あおちゃんがきたよ」
「へー、いつー?」
「ゆうべ。おともだちをつれてきたって」
「へー、あおちゃん、お友達、いたんだ」
「うん。たかしくんって、いうんだって」
わたしは体温計を落としてしまった。
「ミッチー、顔色悪いよー」
同僚の松岡さん。わたしをミッチーと呼ぶ。美知恵だからミッチー。わかりやすいっちゃわかりやすい。
「それがさ」
わたしは昨日までのことを話した。
「それって、病院によくある怪談ってやつじゃん。超うける。全然怖くないんですけど」
「まあ、あたしも疲れてんのかなーって」
「そうよ。8歳くらいの女の子だって、いま洋子ちゃんしかいないしね」
それからしばらくは、何も起きなかった。
いよいよクリスマスだ。看護師たちはいろいろなプレゼントを用意した。絵をかいたり器用な人はぬいぐるみを作ったりしている。わたしは超不器用なので、百均で適当なのを買った。
宿直の引継ぎが終わると、次の日の服薬を準備する。薬の変更はない。
岡崎ドクターが当直だ。心強い。松岡さんもいっしょだ。
ナースセンターから出ると、岡崎ドクターがいた。最終の巡回の時間だ。
洋子ちゃんのところに来た。四人部屋だがいまは洋子ちゃんしかいない。ドクターが帰ろうとすると、洋子ちゃんが心細そうな声をだした。
「せんせい、ようこね、おかあさんにおこられたの」
岡崎ドクターは心配そうに洋子ちゃんに向かうと、優しい声で声をかけた。
「なんでおかあさんに怒られちゃったかな?先生も一緒にあやまってあげるよ」
「ううん。ようこが、わるいの。だってあおちゃんとあそんでるから」
「そうかー。それは辛いねー」
「ちーちゃんもダメだっていうの。でも、そしたらあおちゃん、ちーちゃんころすって」
「怖いねー。そういう子とはもう遊ばないほうがいいんじゃない?」
「そうしたら、みんなあおちゃんに、ころされちゃうよ」
「大丈夫だよ。先生が守ってあげるから」
「せんせいも、ころされちゃうよ」
「はっはっは。先生、こう見えて柔道2段なんだよ。強いんだから」
「そーかなーあ」
ゴトっ
窓の側から何か落ちた。あの、小さなクリスマスツリーだった。わたしが拾っておいた。
雨になったようだ。雪になったらホワイトクリスマスだ。帰り、ちょーたいへん、と岡崎さんがぼやいてる。どうしよう。靴がヤバイ。
雨脚が強くなり、ちょっとした嵐のようになっている。窓に打ち付ける雨が滝のように見える。雪にはならないな。
消灯してまわり、ナースセンターに戻ると、松岡さんが寝ていた。もう、しょうがないなあ。夜勤中のスケジュールを確認していると、ひたひたと足音がする。
チラっと、子供の後ろ姿が通路を横切ったような気がした。こんな時間に誰が?
追いかけてみると、誰もいない。そっちはエレべーターとラウンジ。行ってみたが誰もいない。エレベーターも動いてはなかった。
ナースセンターに戻ると松岡さんがいない。トイレかな。
しばらくナースセンターで書類に目を通していた。隣のICU(集中治療室)は誰も入っていないので気は楽だ。ごとっと、隣から音がした。
「さっちゃん?」
松岡さんの名前を呼んだ。誰もいない。
ちょっと気味が悪くなった。静かで、咳の声も、誰の泣き声もしない。いつもならうるさいのに。この嵐に怯えてるのかしら。みんなも、わたしも。
「佐藤さん」
「ひっ」
後ろに松岡さんが立っていた。
「ちょっと上に行ってくる。呼ばれたの」
「え?医局?院長室?」
「呼ばれたの」
スタスタと行ってしまう。
「まって、ちょっと。どこへ」
非常階段のドアを開けて出て行ってしまった。どこへ行くんだろう。誰に呼ばれたんだろう。いろんな疑問が沸き起こるが、何一つ思い当たらない。
「もー、まったく」
そういう言葉でごまかした。自分の気持ちを。
雷が鳴っている。いよいよ本格的な嵐だ。ゴトンとラウンジから音がした。誰かが自販機のジュースを買ったのだろうか。いま入院している子供たちの家族は誰も付き添っていないはずだ。誰だろう?岡崎ドクターかな。
こわいけど、見に行かなきゃ。
ラウンジには誰もいなかった。ブーンという自販機のモーター音が響いている。雷が光った。どれくらいの時間が経ったのか、数秒?あるいは数十秒で大きな音が鳴った。
「きゃっ」
つい声をあげてしまった。だって怖いもん。
また光った。
また音がする。そう身構えていると、窓の外をなにかが墜ちていった。人だ。目が合った。大きな口を開けながら、岡崎ドクターが墜ちていったのだ。いや、そう見えた。窓に駆け寄り開けようとしたが、ここは窓は開かない。大きな音が鳴った。
「なに?なに?なに?」
パニックになった。脈拍上昇、呼吸数上昇、血圧、低下。どうでもいいことが頭に浮かんだ。何で?何が起きたの?座り込んでいた。また光った。今度はすぐに音がした。窓ガラスに映っている。わたしと、後ろに誰か立っている?
振り向くと誰もいない。とにかく松岡さんを探さなきゃ。いや、外に行ってドクターかどうか確認しなきゃ。でも誰もいなくなっちゃったらまずいし。とりあえず誰か呼ばなきゃ。
階下の内科のナースセンターがある。そこに電話を。
誰も出ない。誰も電話に出ない。何があったの?どうしたの?どうしよう?
ぎい
非常階段のドアの開く音。帰って来たんだ。松岡さん、帰ってきた?
行ってみると、床が濡れている。誰もいない。いや、今まで誰かいた。床はずっと向こうまで濡れている。たどっていくとラウンジの隅に誰か座ってる。看護服を着ている。松岡さんかな?なんでそんなにずぶ濡れに?もしかして岡崎ドクターとなにか?
変なことまで考えながら近づいていくと、おかしなことに気がついた。
「さっちゃん?」
声をかけても返事しない。
また雷が光る。今度はわかった。さっちゃんだ。顔をこっちに向けているからわかる。だけど体はむこうを向いて座ってる。
「いやーーーっ」
とめどない恐怖がわたしを襲う。遠慮などしていられない。叫びたいのだ。こわいのだ。
とにかく逃げよう。でもどこへ。助けを呼ばなきゃ。そうよ。助けを呼ぶのよ。
エレベーターでどこでも行って、そこには誰かいるから。誰かしらいるから。
エレベーターは動いていない。パネルの明かりがついていないのだ。いくらボタンを押しても何も起こらない。エレベーターのドアを思い切り叩いた。誰か来て。誰か。
非常階段だ。そうだ、非常階段で下に行けばいい。バカだ。なんで気がつかない。
濡れている非常階段の前に立つ。ラウンジの方は見ないようにした。みんな待っててね。助けを呼んでくるからね。置いて行ってしまう罪悪感を、助けに行くという行為に置き換える。そうしなければここから逃げ出せない。
ドアが開かない?なにかが向こうにある。重い。少しだけ開いた。だが出られそうにない。何だろう?さっきはさっちゃんが入ってきたはずだ。いや、考えちゃダメ。さっちゃんは忘れなきゃ、今はとにかく。
隙間を、もう少し開かないか。ぐっと力を入れる。が、もう無理のようだ。何があるんだろう?隙間から覗く。
顔があった。婦長の飯沼さんだ。顔色は死んだ人の色だ。ドアの前に横たわっている。
「いやーーーーっ」
ナースセンターに戻り、電話をとった。
「はいこちら警察です。事件ですか?落ち着いて話してください」
「あのあの、ひ、ひとが死んでるんです、あのあの、なんかえとひとです」
「おちつい――」
電話が切れた。
「え?」
少女が立っていた。わたしを見ている。ウサギのぬいぐるみを持っている、いや、ウサギだったぬいぐるみ、だ。首はもう取れているから。
「何なのよ、もう」
泣いていた。わたしは泣いていた。もう勘弁して。ゆるして。
オマエガシネバイイ
「は?なんで。なんなの」
わたしはよくわからないものに、叫んだ。
オマエハサンザン、コロシテキタロ ムクイヲ、ウケロ
「何言ってんの。なにバカなこと言ってんの。しらないわよ、しらない」
逃げなきゃ。とにかく逃げなきゃ。洋子ちゃん?そうだ、洋子ちゃんと一緒に。
なぜだか洋子ちゃんのことが気になっていた。おいては絶対いけないような気がした。
病室に行くと、洋子ちゃんはきれいな寝顔で寝ていた。寝ているときも手袋をはめている。ウサギはいない。
窓にさっき直したクリスマスツリーがある。赤い手袋が下がっている。あれ?洋子ちゃんのお母さんの手袋?じゃあいまはめているのは?
洋子ちゃんの手は真っ赤だった。それは間違いなく血液だった。
病院での出来事は、嵐による事故、として片づけられたらしい。あたしはあの日から病院には出勤していない。だからその後、どうなったかはわからない。テレビのニュースで、断片が伝わってくるだけだったが、あたしはテレビを見るのもいやだった。そんなあたしを母は心配してくれて、看護師の仕事なんか、元気になってからでいいよと言ってくれる。あたしはそれがとてもありがたかった。
「今日は少し顔色がいいみたいね」
「うん、食欲出てきたみたい。まあ、前ほどがっつりとは食べられないけど」
「鮭焼いたの食べる?」
「うん、ねえいま何時?」
「八時よ。夜のほうのね」
「やだあたしそんなに寝ちゃった?」
「美知恵ったら、いやだわね」
うーん、さすがに呆けてきたか?そろそろ社会復帰しなくちゃね。
「ねえ、こっち来てご飯食べて」
「うん、今行く」
気分はまあ悪くない。もうめまいもしない。あんなことがあったことも、もう夢だと思い込むようにしたから、その分体調が少しいいのかもしれない。
「ちょっと新聞どかして」
「もー、ちゃんとかたづけて…」
赤い折り紙が、見えた
もうすぐクリスマス。毎年この時期になると、みんなそわそわし始める。
小さな呼吸器をつけたまさみちゃんが、絵本を見ながら抱きしめている象のぬいぐるみに話しかける。きっと、絵本のお話をしてあげているのだ。
殺風景にならないよう、窓には雪の結晶をかたどったシールが張られ、冬空と重なるように外の光は病室に柔らかく届いている。
「佐藤さん、洋子ちゃんの点滴、そろそろ終わるころだから見てあげて」
「はい」
婦長の飯沼さんはいつもそつなく指示してくる。20年以上のベテランだ。わたしはまだ2年目の、看護師としてはまだ新米だから、そんなあたしをいつもフォローしてくれる。
1年前に一般病棟からここに移ってきたときは正直辛かった。小さい子供が病気とたたかっているのを見ると、胸が締め付けられる。それは今もかわらない。元気に退院していった子もいれば、また、そうでない子もいる。神様はどこで分け隔てするのだろう、と思う時がある。
「洋子ちゃんごはん美味しかった?」
点滴の交換をしながら聞いた。いつも赤い手袋をしている。お母さんがくれた、洋子ちゃんのお守り。
「きょうはねー、おやさいのこしちゃったの。でもねー、ちーちゃんがたべなさいって」
ちーちゃんは洋子ちゃんの隣に置いてあるウサギのぬいぐるみ。お姉ちゃんだそうだ。薬の影響でいろいろな音や声、ものが見えることがあると岡崎ドクターが言っていた。
でも、洋子ちゃんの場合は、きっとメルヘンの世界にいて、そういうものたちとお話ができる、とわたしは思っている。
「さっきまで、あおちゃんがきてくれてたの。あおちゃん、ツリーをもっていっちゃたよ」
あおちゃんか。また新しいキャラクターができたんだ。あれ?朝まで窓の側にあった、小さなクリスマスツリーがなくなってる?
「ママがねー、あの子とはあそんじゃダメだって。でも、いい子なんだよー」
洋子ちゃんのママは去年、癌でなくなっている。洋子ちゃんと同じ病気だ。
「そうかー。ママの言うことは聞かなきゃならないしー、洋子ちゃん、困ったねー」
「うーん、でも、またよるに、くるって、あおちゃん」
「きたらお姉さんがよろしくって言ってたって、伝えてね」
「わかった。でもあおちゃん、きっと」
「佐藤さん。たかし君、急変。急いで」
同僚の松岡さんが慌てている。
「ごめんね、洋子ちゃん。また後で来るね」
「うん、バイバイ」
たかし君は呼吸器系の病気でかなり重いのだ。岡崎ドクターが走っているのが見えた。
「喘息の強い発作です」
「ドクター、SPO2下がってます。チアノーゼでました」
「リリーバーもってきて」
「プレドニンですね」
「そう。早く。酸素、濃度上げて」
発作の治療薬だ。
処置が終わったのは夕方近くだ。たかし君の容体は安定した。週に何回かこれを繰り返す。
小さい体で頑張っている。だから見ると余計辛い。でも、そんなことを言っていると、頑張っている子たちに申し訳ないと、いつも気を引き締める。
ラウンジを通りかかると、見慣れない子がいた。ひとりで折り紙を折っている。8歳くらいの女の子だ。
「どうしたの?お食事は終わったの」
女の子は無言でこちらをじっと見ている。何か変だな、と思ったが、疲れているせいもあって、そのまま通り過ぎる。洋子ちゃんの点滴を交換しなければ。本当に忙しいのだ。そして気が抜けない。
「お野菜、食べられた?」
血色があまりよくない幼い顔に、赤い手袋が痛々しい。
「うん、すこしだけど、たべた。ちーちゃんがほめてくれたよ」
「すごーい。がんばったねー」
「でも、あおちゃんはよろこばなかったよ」
「まあー、それは残念ねー」
共感と共存、ぺプロウの書いた看護理論だ。段階的なプロセスで患者の心的な治癒をアプローチする。などと習ったが、よくわからない。まだ未熟ですいません。
「カーテン閉めようっか」
「ううん。お月様がきれいだから、いい」
月は見えなかったが、きっと洋子ちゃんには見えるんだね。
窓から夕暮れの街が見える。高層ビルの窓の明かりが星のようだ。
「あっ」
「どうしたの?」
洋子ちゃんが怪訝そうに私を見る。
「ううん、なんでもないよー」
わたしはラウンジに戻った。誰もいなかった。さっき見た子はいない。記憶の隅の違和感。さっきここに、窓に映っていたのはわたしだけじゃなかったか?
ラウンジのゴミ箱に小さなクリスマスツリーが突っ込まれていた。
引継ぎを終え、家へ帰るとかなり遅い時間になっていた。母が夕飯を温め直してくれている。お風呂で体と心を温めた。疲れたな。今日一日のことはなるべく思い出さないようにした。
中華の素を使った簡単な料理だが、美味しかった。テレビを見たかったが、もう歯磨きをして寝ることしかできない気がする。眠かった。
「かあさん、もう寝るー」
「頭ちゃんと乾かしなさいよ」
「うへーい」
ドライヤーを持って部屋に向かう。あたしの部屋のドアの前に、何か落ちている。
「折り紙?なんで?」
折り紙らしきものだ。なんのカタチかわからないが、折り紙で折られている。
「かあさーん、折り紙落ちてるわよー」
「知らないわよー。あんたんじゃないのー?」
「え、だって」
知ってる。赤い折り紙。さっきあの子が、折っていた。
翌朝、病棟に行くと、たかし君が亡くなっていた。昨夜、発作が起き、そのまま逝ってしまったそうだ。
たかし君のお母さんとお父さんがいる。見ていられないほど辛くなる。
病室の前に来ると、微笑むように努力する。少しでも不安を感じさせてはいけないのだ。笑って、わたし。
「おはよう、洋子ちゃん。お熱計りましょうねー」
洋子ちゃんは赤い手袋を、胸の前でぱしぱししながら、じっと見ている。
「どうしたのー」
「あのね、あのね」
体温計を細い腕のあいだに差し込む。透きとおるくらい白い肌。
「なんかあったのー?」
「あおちゃんがきたよ」
「へー、いつー?」
「ゆうべ。おともだちをつれてきたって」
「へー、あおちゃん、お友達、いたんだ」
「うん。たかしくんって、いうんだって」
わたしは体温計を落としてしまった。
「ミッチー、顔色悪いよー」
同僚の松岡さん。わたしをミッチーと呼ぶ。美知恵だからミッチー。わかりやすいっちゃわかりやすい。
「それがさ」
わたしは昨日までのことを話した。
「それって、病院によくある怪談ってやつじゃん。超うける。全然怖くないんですけど」
「まあ、あたしも疲れてんのかなーって」
「そうよ。8歳くらいの女の子だって、いま洋子ちゃんしかいないしね」
それからしばらくは、何も起きなかった。
いよいよクリスマスだ。看護師たちはいろいろなプレゼントを用意した。絵をかいたり器用な人はぬいぐるみを作ったりしている。わたしは超不器用なので、百均で適当なのを買った。
宿直の引継ぎが終わると、次の日の服薬を準備する。薬の変更はない。
岡崎ドクターが当直だ。心強い。松岡さんもいっしょだ。
ナースセンターから出ると、岡崎ドクターがいた。最終の巡回の時間だ。
洋子ちゃんのところに来た。四人部屋だがいまは洋子ちゃんしかいない。ドクターが帰ろうとすると、洋子ちゃんが心細そうな声をだした。
「せんせい、ようこね、おかあさんにおこられたの」
岡崎ドクターは心配そうに洋子ちゃんに向かうと、優しい声で声をかけた。
「なんでおかあさんに怒られちゃったかな?先生も一緒にあやまってあげるよ」
「ううん。ようこが、わるいの。だってあおちゃんとあそんでるから」
「そうかー。それは辛いねー」
「ちーちゃんもダメだっていうの。でも、そしたらあおちゃん、ちーちゃんころすって」
「怖いねー。そういう子とはもう遊ばないほうがいいんじゃない?」
「そうしたら、みんなあおちゃんに、ころされちゃうよ」
「大丈夫だよ。先生が守ってあげるから」
「せんせいも、ころされちゃうよ」
「はっはっは。先生、こう見えて柔道2段なんだよ。強いんだから」
「そーかなーあ」
ゴトっ
窓の側から何か落ちた。あの、小さなクリスマスツリーだった。わたしが拾っておいた。
雨になったようだ。雪になったらホワイトクリスマスだ。帰り、ちょーたいへん、と岡崎さんがぼやいてる。どうしよう。靴がヤバイ。
雨脚が強くなり、ちょっとした嵐のようになっている。窓に打ち付ける雨が滝のように見える。雪にはならないな。
消灯してまわり、ナースセンターに戻ると、松岡さんが寝ていた。もう、しょうがないなあ。夜勤中のスケジュールを確認していると、ひたひたと足音がする。
チラっと、子供の後ろ姿が通路を横切ったような気がした。こんな時間に誰が?
追いかけてみると、誰もいない。そっちはエレべーターとラウンジ。行ってみたが誰もいない。エレベーターも動いてはなかった。
ナースセンターに戻ると松岡さんがいない。トイレかな。
しばらくナースセンターで書類に目を通していた。隣のICU(集中治療室)は誰も入っていないので気は楽だ。ごとっと、隣から音がした。
「さっちゃん?」
松岡さんの名前を呼んだ。誰もいない。
ちょっと気味が悪くなった。静かで、咳の声も、誰の泣き声もしない。いつもならうるさいのに。この嵐に怯えてるのかしら。みんなも、わたしも。
「佐藤さん」
「ひっ」
後ろに松岡さんが立っていた。
「ちょっと上に行ってくる。呼ばれたの」
「え?医局?院長室?」
「呼ばれたの」
スタスタと行ってしまう。
「まって、ちょっと。どこへ」
非常階段のドアを開けて出て行ってしまった。どこへ行くんだろう。誰に呼ばれたんだろう。いろんな疑問が沸き起こるが、何一つ思い当たらない。
「もー、まったく」
そういう言葉でごまかした。自分の気持ちを。
雷が鳴っている。いよいよ本格的な嵐だ。ゴトンとラウンジから音がした。誰かが自販機のジュースを買ったのだろうか。いま入院している子供たちの家族は誰も付き添っていないはずだ。誰だろう?岡崎ドクターかな。
こわいけど、見に行かなきゃ。
ラウンジには誰もいなかった。ブーンという自販機のモーター音が響いている。雷が光った。どれくらいの時間が経ったのか、数秒?あるいは数十秒で大きな音が鳴った。
「きゃっ」
つい声をあげてしまった。だって怖いもん。
また光った。
また音がする。そう身構えていると、窓の外をなにかが墜ちていった。人だ。目が合った。大きな口を開けながら、岡崎ドクターが墜ちていったのだ。いや、そう見えた。窓に駆け寄り開けようとしたが、ここは窓は開かない。大きな音が鳴った。
「なに?なに?なに?」
パニックになった。脈拍上昇、呼吸数上昇、血圧、低下。どうでもいいことが頭に浮かんだ。何で?何が起きたの?座り込んでいた。また光った。今度はすぐに音がした。窓ガラスに映っている。わたしと、後ろに誰か立っている?
振り向くと誰もいない。とにかく松岡さんを探さなきゃ。いや、外に行ってドクターかどうか確認しなきゃ。でも誰もいなくなっちゃったらまずいし。とりあえず誰か呼ばなきゃ。
階下の内科のナースセンターがある。そこに電話を。
誰も出ない。誰も電話に出ない。何があったの?どうしたの?どうしよう?
ぎい
非常階段のドアの開く音。帰って来たんだ。松岡さん、帰ってきた?
行ってみると、床が濡れている。誰もいない。いや、今まで誰かいた。床はずっと向こうまで濡れている。たどっていくとラウンジの隅に誰か座ってる。看護服を着ている。松岡さんかな?なんでそんなにずぶ濡れに?もしかして岡崎ドクターとなにか?
変なことまで考えながら近づいていくと、おかしなことに気がついた。
「さっちゃん?」
声をかけても返事しない。
また雷が光る。今度はわかった。さっちゃんだ。顔をこっちに向けているからわかる。だけど体はむこうを向いて座ってる。
「いやーーーっ」
とめどない恐怖がわたしを襲う。遠慮などしていられない。叫びたいのだ。こわいのだ。
とにかく逃げよう。でもどこへ。助けを呼ばなきゃ。そうよ。助けを呼ぶのよ。
エレベーターでどこでも行って、そこには誰かいるから。誰かしらいるから。
エレベーターは動いていない。パネルの明かりがついていないのだ。いくらボタンを押しても何も起こらない。エレベーターのドアを思い切り叩いた。誰か来て。誰か。
非常階段だ。そうだ、非常階段で下に行けばいい。バカだ。なんで気がつかない。
濡れている非常階段の前に立つ。ラウンジの方は見ないようにした。みんな待っててね。助けを呼んでくるからね。置いて行ってしまう罪悪感を、助けに行くという行為に置き換える。そうしなければここから逃げ出せない。
ドアが開かない?なにかが向こうにある。重い。少しだけ開いた。だが出られそうにない。何だろう?さっきはさっちゃんが入ってきたはずだ。いや、考えちゃダメ。さっちゃんは忘れなきゃ、今はとにかく。
隙間を、もう少し開かないか。ぐっと力を入れる。が、もう無理のようだ。何があるんだろう?隙間から覗く。
顔があった。婦長の飯沼さんだ。顔色は死んだ人の色だ。ドアの前に横たわっている。
「いやーーーーっ」
ナースセンターに戻り、電話をとった。
「はいこちら警察です。事件ですか?落ち着いて話してください」
「あのあの、ひ、ひとが死んでるんです、あのあの、なんかえとひとです」
「おちつい――」
電話が切れた。
「え?」
少女が立っていた。わたしを見ている。ウサギのぬいぐるみを持っている、いや、ウサギだったぬいぐるみ、だ。首はもう取れているから。
「何なのよ、もう」
泣いていた。わたしは泣いていた。もう勘弁して。ゆるして。
オマエガシネバイイ
「は?なんで。なんなの」
わたしはよくわからないものに、叫んだ。
オマエハサンザン、コロシテキタロ ムクイヲ、ウケロ
「何言ってんの。なにバカなこと言ってんの。しらないわよ、しらない」
逃げなきゃ。とにかく逃げなきゃ。洋子ちゃん?そうだ、洋子ちゃんと一緒に。
なぜだか洋子ちゃんのことが気になっていた。おいては絶対いけないような気がした。
病室に行くと、洋子ちゃんはきれいな寝顔で寝ていた。寝ているときも手袋をはめている。ウサギはいない。
窓にさっき直したクリスマスツリーがある。赤い手袋が下がっている。あれ?洋子ちゃんのお母さんの手袋?じゃあいまはめているのは?
洋子ちゃんの手は真っ赤だった。それは間違いなく血液だった。
病院での出来事は、嵐による事故、として片づけられたらしい。あたしはあの日から病院には出勤していない。だからその後、どうなったかはわからない。テレビのニュースで、断片が伝わってくるだけだったが、あたしはテレビを見るのもいやだった。そんなあたしを母は心配してくれて、看護師の仕事なんか、元気になってからでいいよと言ってくれる。あたしはそれがとてもありがたかった。
「今日は少し顔色がいいみたいね」
「うん、食欲出てきたみたい。まあ、前ほどがっつりとは食べられないけど」
「鮭焼いたの食べる?」
「うん、ねえいま何時?」
「八時よ。夜のほうのね」
「やだあたしそんなに寝ちゃった?」
「美知恵ったら、いやだわね」
うーん、さすがに呆けてきたか?そろそろ社会復帰しなくちゃね。
「ねえ、こっち来てご飯食べて」
「うん、今行く」
気分はまあ悪くない。もうめまいもしない。あんなことがあったことも、もう夢だと思い込むようにしたから、その分体調が少しいいのかもしれない。
「ちょっと新聞どかして」
「もー、ちゃんとかたづけて…」
赤い折り紙が、見えた
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ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
痩せたがりの姫言(ひめごと)
エフ=宝泉薫
青春
ヒロインは痩せ姫。
姫自身、あるいは周囲の人たちが密かな本音をつぶやきます。
だから「姫言」と書いてひめごと。
別サイト(カクヨム)で書いている「隠し部屋のシルフィーたち」もテイストが似ているので、混ぜることにしました。
語り手も、語られる対象も、作品ごとに異なります。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
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少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
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しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
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