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それは誰でも知っている

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「アレキシシミア?なんですかそれ」
「研修で聞いたことないですか?失感情症のことです。子供の心身症のひとつで、病んでいるにもかかわらず、本人も他人もまるでそれに気がつかない」

大田めぐみは何人もの心の問題を抱えている生徒を見てきた。教師として、人間として、それらの生徒の力になり、支えてきたつもりだ。それでも何人かは、そんなめぐみの手から、こぼれた。こんなはずじゃなかった。常に自問自答しながら教師を続けてきた。それでもやっぱり自分の力のなさを、思い知らされていくのだ。

「それって駄目なんじゃないですか?おかしくなっているのに自分もまわりも気がつかないなんて」

教師三年目の小西未由美はきょろんとした目でめぐみに言った。

「っていうか、自分もまわりも気がつかないふりをしているの。だっておかしいってわかったらいろいろ大変でしょ?」
「大変っていうか、それ大変なことになっちゃうでしょ?」
「そうね。でもたいがいはそれで大人になってしまって、そして気がつかないうちに年を取ってしまう」
「まさかー」
「あなたもじつはそうなのかも知れないわ?可能性は誰にもあるってこと」
「ないわー。そんなのにかかったらショックですよ」
「そうなる前に心療内科を受診すること。迷わずね」
「おどかさないでください、めぐみ先生」
「おどしてないの。これが事実なの」
「ちなみに、最悪それはどうなっちゃうんですか?」
「うつ病と同じ。最悪は、自殺」
「マジか」

そう。そうしてわたしの教え子たちは、わたしの指から、こぼれていった…。





キンコンカンコン 真鍮の杭
ここに、ここに刺してと
音はするけれど 誰も聞こえない
キンコンカンコン 罰を受けろ


ああうるさい。あたしうるさい。あたしの脳が勝手に歌っている。あたしの脳が勝手に笑っている。他人の気も知らないで。いつから他人の声が聞こえなくなった?いつから自分の声しか聞こえない?

「日にち?お母さん明日来れないの?」
「はい。仕事になっちゃったそうです。正確には、三者面談の日にちを忘れちゃったってことですけど」

クスクスとめぐみ先生は笑った。あたしは人生で一番恥をかいた。

「それじゃあ仕方ないか。面談は来週でって。月曜は…何かと忙しいし、えと、ちょっと用事もあるから、そうね、水曜日」
「火曜じゃないんですか?」
「研究会でね。水曜日の放課後。いかが?」
「そう伝えておきます。でも先生、命日じゃないのかな?」
「命日?誰の?」
「いえ、いいんです」

先生、それはあなたの、と言ったって先生が気を悪くするだけ。でも、ああ、それまであたしは気の遠くなるような時間を過ごさなくちゃならないじゃない。でも…。

もうすぐあの日なんだ。






ぼくは木洩れ日の中で、空っぽの鳥の巣を見あげていた。春はまだ遠いくせに、日差しだけは刺すように熱く、皮膚がそれこそヒリヒリするような感覚だ。

駅までの広い水たまりは、その空を映し出して、まるで地面にも空があるみたいだ。ピチャピチャとぼくの布の靴が、面白いように跳ねていく。

電車のけっして来ない駅。人がけっして来ない駅。それはぼくの想像通りの、見事に現実に構成されたものだった。

粗末な壁も錆びた鉄骨の梁も、そして破れかかったポスターまで、しっかりとぼくの現実を汚染し続けている。ああ、そうだ、いつか君にも見せてやりたい。この現実離れした現実を。それは千年か、もっと先か。ありふれた時間は、貴重で短い。すぐにやってくるさ。大丈夫。

「電車は来た?」

振り向くと、膝までしかない和服の女の子が立っていた。ぼくの姉だ。

「いいや、まだだよ」

ぼくは帽子を脱いでそう言った。まだだよ。心の中でもう一度言った。

「まるで来ないことを願っているみたい」

そうじゃない。来ないことを願ってなどいない。願って来ることがないように、願っているだけだ。

「どこへ行くのかな?この線路は」
「どこから来るのか、じゃなくて?」
「あたしは行く方がいいな。ここにはいたくない。そうじゃない?末来みらい


ぼくは言葉を失ったまま、ただ姉の言葉にうなずいていた。





あたしは坂を駆けあがる。見よ人を。背中に悲しみ、苦しみを背負う。そんな中にあたしはいない。いない幸福にひたっている。ああよかった。これで今日も生きていける。

「先生なんだって?」

夜遅く帰ってきた母が聞いてきた。少しは気にしてたんだろうか?気にしていた?気に病んでいた?あたしは気に病むっていう言葉が好きだ。それはまるであたしだからだ。

「水曜日の放課後来てくれって」
「水曜日ね。わかったわ」
「来る気?」
「何言ってんの。当たり前でしょ。それに、この際だから学校でのあんたの生活態度も聞いておかないと」
「あら?品行方正のこのあたしに打ちどころの無い非を?やめてよ。それこそ無駄よ」
「無駄かどうかはすぐにわかるわね」
「はいはい。どうぞどうぞ」

どうせ先生は死ぬ。そうよ、あたしが殺すんだからね。






次の朝、庭に封筒が落ちていた。宛名も、差出人の名前も書いていなかった。ただ、表に、『さま』と書いてあっただけ。

「ちょっと、寒いからサッシ閉めてよ!」
「お母さん、これ」
「なに?葉っぱ?」
「ちがうよ、手紙。庭に落ちてた」

あたしは手紙をひらひらさせて母に言った。

「いいから朝ご飯早く食べちゃって。今日は早出なんだから」
「だーかーら、てがみー」
「何言ってんの?なんにも持ってないじゃない」
「あれ?」

いまヒラヒラさせてたよね?たしかにあたし、手紙を持って…落としたかな?いや、ない。あれ?あれれ?

「バカなこと言ってないで急いで。もう、寒いって」

それでもあたしは手紙を探した。でもそれはどこにも見当たらなかった。どこを探してもなかった。あたしはあきらめるように朝ごはんを食べ、そしてカバンを持って靴を履いた。そしてもう一度振り向いて、やっぱりあきらめて、ため息をつきながら玄関を出た。



冬空はあいかわらず、あたしだけを押しつぶそうとしていた。



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