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第4話 秘密の特訓
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「じゃ、まずは歩き方から。背筋を伸ばして」
エルマーが楽しそうにぴしっと背を伸ばすとベルもそれに倣って背を伸ばす。縫製工場で長い間ミシンで背を丸めて縫物をしていた為、彼女は猫背気味でなのであった。
「歩くときは、白鳥のように軽やかに」
白鳥のようにって一体どんな風かしら、と思いながらエルマーがすらりと歩く様を見て、ベルも真似をする。
「そうそう。いい感じ!」
「次はお辞儀だな」
「お辞儀?」
シリルの言葉にベルは動きを止める。
「お辞儀は敬意の表れだ。基本中の基本だな」
「そうそう。女性ならこう、かな」
再びエルマーが見本を見せるように、左足を右足の後ろに交差させるように下げ、膝を曲げる。
「ドレスを着ているときは裾をもって膝を曲げるのと同時に少し頭を下げるんだ。やってみて」
そう促され、ベルが見よう見真似でやってみるが、ぎこちなく足がふらついた。
「うーん。ま、練習すれば何とかなるよ。花のように優雅に、ね」
「花のように……」
それってどんな感じかしら?
「が、頑張ります」
そんなこんなで、ベルの淑女としての振る舞いから訓練が始まった。日々、歩き方やお辞儀の他に、食事の作法なども教えられていた。
「そんなに急いで食べてはいけない。大口を開けて食べるのも上品とは言えない。肉を切るのもそんなに目一杯力を入れなくても良い。」
「は、はい。すみません」
ブライトン邸のダイニングテーブルに向かい合ってシリルとベルが食事を取っている。シリルに注意されベルは顔を赤くして俯く。
縫製工場で働いていたときは常に急かされ掻きこむように食べなければならなかったので、その癖が抜けないのだ。
ベルは何だか急に自分が意地汚い人間なんだと思えてくる。
「いや。上手く出来なくても自分を責めることはない。何回もやっているうちに自然に身につく」
「……はい」
恥じ入っているベルを見て、シリルが慰めの言葉を掛ける。
「ベル、辛いなら無理にとは……」
その言葉にベルははっと顔を上げた。
「いいえ、やります。私も自分のことや家族のこと思い出したいですから」
「……分かった。続けよう」
そうは言ったが、シリルは気遣うようにベルを見つめる。
後日、ベルが部屋で一人歩き方の練習をしていると、誰かが扉を叩いた。
「ベル。少し良いか?」
「は、はい。どうぞ」
部屋に入って来たのはシリルで、左手には白い四角い紙箱を持っている。ベルは足早に彼に近づいた。
「子爵、どうかしました?」
「いや。少し息抜きが必要だと思って」
そう言って彼は持ってきた、白い箱をベルに渡す。
「開けてみても良いですか?」
シリルが頷いたので、ベルは興味津々で箱を開けると中にはブルーベリーが沢山盛られたホールのタルトが入っていた。
「わぁっ……」
それを見たベルの顔に喜色が広がる。
「作法のことはとりあえず忘れて、気にせず食べると良い」
「ありがとうございます! 早速頂きますね。子爵も一緒に召し上がるでしょう?」
「え……」
「こんなに美味しそうなんですから。それに一人ではとても食べきれませんし。駄目ですか?」
「そんなことはないが」
「じゃ、決まりですね。今、お茶用意して来ます」
ベルは嬉しそうにタルトの入った箱を抱えて、厨房へ向かう。メイド達に手伝ってもらい、ブルーベリータルトを切り分け、紅茶を用意し部屋へ戻る。
「うーん、美味しい」
ベルはタルトを一口頬張り感嘆の声を上げる。クリームの甘み、ブルーベリーの酸味に、クッキー生地のさくっとした食感の良さ。思わず顔が綻ぶ。
そんな様子のベルを見ながら、シリルは知らず知らずの内に笑みを浮かべていた。それはとても柔らかく美しいものであった。向かい合うベルが食べるのを忘れ見惚れるほどに。
どうして子爵を置いてロスリンさんは出て行って仕舞われたのかしら? 私ならずっと……。
「ベル、どうした?」
シリルの言葉にベルは我に返った。
「な、何でもありませんっ。その美味しくてっ……ぼーっとなっちゃって」
焦りながらベルが答える。
私ったら何考えてるの!
「そうか。喜んでくれたなら買ってきた甲斐があったな」
「はいっ。とっても嬉しいです!」
ベルの赤い顔を見て、シリルは内心複雑であった。
ロスリンの話をし始めれば、いずれ何故彼女が消えたのか知ることになる。そうなれば、このような無邪気な姿も見られなくなるだろうな。軽蔑されて、最悪計画を降りると言い出すかもしれない。
……いっそ、その方が良いのかもしれないな。
そう思いながらも、シリルはベルに自分の愚かで残酷な過去を知られるのを嫌だと思うようになっていた。
「覚えられそうにない気がします……」
淑女らしい振る舞いを教えられた後は、ロスリンに関する情報を詰め込まれるとこになって、ベルは弱音を吐いた。
「まぁ、ゆっくり覚えていけば良い。それに嫌になったらいつでも言ってくれ」
正直なところ、シリルにはまだ迷いがあった。
何も知らないベルをこんなことに巻き込んで良いものか……。
「いいえ。何とかやってみます。それにしても子爵は奥様のことよくご存知なんですね」
不仲だったとは思えないくらい。もしかしたら、子爵は奥様のことを……。
上手くいってなかったと聞いたけれど、愛してなかったとは一言も仰っていないもの。何かの理由で拗れてしまったのかもしれない。
ベルの言葉にシリルは傷ついたように目を伏せる。
それもこれも、全てはロスリンを篭絡させる為に調べたことだった。彼女の生い立ち、好きな食べ物、花、色、お気に入りの場所……。
彼が妻のことをよく知っている理由は、ベルが考えているようなロマンチックなものでは全くなかった。
「子爵?」
「いや、妻の行方を探すのに調べただけだよ」
シリルの自らを蔑むような笑みを見て、ベルはそれ以上何か追及することは出来なかった。
「君も疲れたろう。今日はもうこの辺にしよう」
「はい……」
ベルは夜、ベッドの中でこの数日教わったことを反芻していた。
奥様のお父様はお医者さんで、貧しい人々の為に有志と一緒に無料の診療所をスラムに開いていた。お母様もそこのお手伝いをしていた。
”だが、そのことが皮肉にもカーライル氏と奥方の命を奪ったのだ”
頭の中でシリルの声が響く。その診療所からの帰りに2人は強盗に襲われて殺されてしまった。
一人娘のロスリンさんはどんなに辛い思いをなされたのでしょう。胸が痛むわ。
それから半年後にロスリンさんはブライトン子爵と出会ったのよね。
確かあれは……。
そう考えながらベルは眠りに落ちて行った。
暗がりの中で俯いて椅子に座っている、喪服を着た赤毛の少女が見える。
”貴女は誰?”
その少女がおもむろに顔を上げてこちらを向き問い質す。少女の顔だけがぼんやりとにじんでいてはっきり分からない。
「私は……」
”貴女は私なの?”
「えっ……」
ベルが戸惑っていると、その少女は再び自らの膝に視線を落とす。
そこへ、ほんのり光り輝いているシリルが現れる。その姿は今よりも若く、ずっと自信に溢れ、ともすれば傲慢にさえ映る。
そう。ブライトン子爵からロスリンさんに会いに行ったと仰っていたわ。ご両親のお悔やみを言いに。
そのシリルは俯く少女を見下ろしながら、微笑んでいる。手には青い花を束ねたブーケを持って。
綺麗な色……あれは、確か……待って。そもそも子爵は花束なんて持って会いに行ったなんて仰ってたかしら?
そこでベルは目を覚ました。
「奇妙な夢だったわ」
夢の中にブライトン子爵とロスリンさんらしき人が出てきた気がしたけれど、昨日寝る間際までロスリンさんのこと考えていた所為かしら?
ベルは体を起こし、上体を伸ばす。カーテンから漏れる朝の光に包まれると夢の内容はすぐに薄れていった。
でも、一体どんな人だったんだろう、ロスリンさん。
エルマーが楽しそうにぴしっと背を伸ばすとベルもそれに倣って背を伸ばす。縫製工場で長い間ミシンで背を丸めて縫物をしていた為、彼女は猫背気味でなのであった。
「歩くときは、白鳥のように軽やかに」
白鳥のようにって一体どんな風かしら、と思いながらエルマーがすらりと歩く様を見て、ベルも真似をする。
「そうそう。いい感じ!」
「次はお辞儀だな」
「お辞儀?」
シリルの言葉にベルは動きを止める。
「お辞儀は敬意の表れだ。基本中の基本だな」
「そうそう。女性ならこう、かな」
再びエルマーが見本を見せるように、左足を右足の後ろに交差させるように下げ、膝を曲げる。
「ドレスを着ているときは裾をもって膝を曲げるのと同時に少し頭を下げるんだ。やってみて」
そう促され、ベルが見よう見真似でやってみるが、ぎこちなく足がふらついた。
「うーん。ま、練習すれば何とかなるよ。花のように優雅に、ね」
「花のように……」
それってどんな感じかしら?
「が、頑張ります」
そんなこんなで、ベルの淑女としての振る舞いから訓練が始まった。日々、歩き方やお辞儀の他に、食事の作法なども教えられていた。
「そんなに急いで食べてはいけない。大口を開けて食べるのも上品とは言えない。肉を切るのもそんなに目一杯力を入れなくても良い。」
「は、はい。すみません」
ブライトン邸のダイニングテーブルに向かい合ってシリルとベルが食事を取っている。シリルに注意されベルは顔を赤くして俯く。
縫製工場で働いていたときは常に急かされ掻きこむように食べなければならなかったので、その癖が抜けないのだ。
ベルは何だか急に自分が意地汚い人間なんだと思えてくる。
「いや。上手く出来なくても自分を責めることはない。何回もやっているうちに自然に身につく」
「……はい」
恥じ入っているベルを見て、シリルが慰めの言葉を掛ける。
「ベル、辛いなら無理にとは……」
その言葉にベルははっと顔を上げた。
「いいえ、やります。私も自分のことや家族のこと思い出したいですから」
「……分かった。続けよう」
そうは言ったが、シリルは気遣うようにベルを見つめる。
後日、ベルが部屋で一人歩き方の練習をしていると、誰かが扉を叩いた。
「ベル。少し良いか?」
「は、はい。どうぞ」
部屋に入って来たのはシリルで、左手には白い四角い紙箱を持っている。ベルは足早に彼に近づいた。
「子爵、どうかしました?」
「いや。少し息抜きが必要だと思って」
そう言って彼は持ってきた、白い箱をベルに渡す。
「開けてみても良いですか?」
シリルが頷いたので、ベルは興味津々で箱を開けると中にはブルーベリーが沢山盛られたホールのタルトが入っていた。
「わぁっ……」
それを見たベルの顔に喜色が広がる。
「作法のことはとりあえず忘れて、気にせず食べると良い」
「ありがとうございます! 早速頂きますね。子爵も一緒に召し上がるでしょう?」
「え……」
「こんなに美味しそうなんですから。それに一人ではとても食べきれませんし。駄目ですか?」
「そんなことはないが」
「じゃ、決まりですね。今、お茶用意して来ます」
ベルは嬉しそうにタルトの入った箱を抱えて、厨房へ向かう。メイド達に手伝ってもらい、ブルーベリータルトを切り分け、紅茶を用意し部屋へ戻る。
「うーん、美味しい」
ベルはタルトを一口頬張り感嘆の声を上げる。クリームの甘み、ブルーベリーの酸味に、クッキー生地のさくっとした食感の良さ。思わず顔が綻ぶ。
そんな様子のベルを見ながら、シリルは知らず知らずの内に笑みを浮かべていた。それはとても柔らかく美しいものであった。向かい合うベルが食べるのを忘れ見惚れるほどに。
どうして子爵を置いてロスリンさんは出て行って仕舞われたのかしら? 私ならずっと……。
「ベル、どうした?」
シリルの言葉にベルは我に返った。
「な、何でもありませんっ。その美味しくてっ……ぼーっとなっちゃって」
焦りながらベルが答える。
私ったら何考えてるの!
「そうか。喜んでくれたなら買ってきた甲斐があったな」
「はいっ。とっても嬉しいです!」
ベルの赤い顔を見て、シリルは内心複雑であった。
ロスリンの話をし始めれば、いずれ何故彼女が消えたのか知ることになる。そうなれば、このような無邪気な姿も見られなくなるだろうな。軽蔑されて、最悪計画を降りると言い出すかもしれない。
……いっそ、その方が良いのかもしれないな。
そう思いながらも、シリルはベルに自分の愚かで残酷な過去を知られるのを嫌だと思うようになっていた。
「覚えられそうにない気がします……」
淑女らしい振る舞いを教えられた後は、ロスリンに関する情報を詰め込まれるとこになって、ベルは弱音を吐いた。
「まぁ、ゆっくり覚えていけば良い。それに嫌になったらいつでも言ってくれ」
正直なところ、シリルにはまだ迷いがあった。
何も知らないベルをこんなことに巻き込んで良いものか……。
「いいえ。何とかやってみます。それにしても子爵は奥様のことよくご存知なんですね」
不仲だったとは思えないくらい。もしかしたら、子爵は奥様のことを……。
上手くいってなかったと聞いたけれど、愛してなかったとは一言も仰っていないもの。何かの理由で拗れてしまったのかもしれない。
ベルの言葉にシリルは傷ついたように目を伏せる。
それもこれも、全てはロスリンを篭絡させる為に調べたことだった。彼女の生い立ち、好きな食べ物、花、色、お気に入りの場所……。
彼が妻のことをよく知っている理由は、ベルが考えているようなロマンチックなものでは全くなかった。
「子爵?」
「いや、妻の行方を探すのに調べただけだよ」
シリルの自らを蔑むような笑みを見て、ベルはそれ以上何か追及することは出来なかった。
「君も疲れたろう。今日はもうこの辺にしよう」
「はい……」
ベルは夜、ベッドの中でこの数日教わったことを反芻していた。
奥様のお父様はお医者さんで、貧しい人々の為に有志と一緒に無料の診療所をスラムに開いていた。お母様もそこのお手伝いをしていた。
”だが、そのことが皮肉にもカーライル氏と奥方の命を奪ったのだ”
頭の中でシリルの声が響く。その診療所からの帰りに2人は強盗に襲われて殺されてしまった。
一人娘のロスリンさんはどんなに辛い思いをなされたのでしょう。胸が痛むわ。
それから半年後にロスリンさんはブライトン子爵と出会ったのよね。
確かあれは……。
そう考えながらベルは眠りに落ちて行った。
暗がりの中で俯いて椅子に座っている、喪服を着た赤毛の少女が見える。
”貴女は誰?”
その少女がおもむろに顔を上げてこちらを向き問い質す。少女の顔だけがぼんやりとにじんでいてはっきり分からない。
「私は……」
”貴女は私なの?”
「えっ……」
ベルが戸惑っていると、その少女は再び自らの膝に視線を落とす。
そこへ、ほんのり光り輝いているシリルが現れる。その姿は今よりも若く、ずっと自信に溢れ、ともすれば傲慢にさえ映る。
そう。ブライトン子爵からロスリンさんに会いに行ったと仰っていたわ。ご両親のお悔やみを言いに。
そのシリルは俯く少女を見下ろしながら、微笑んでいる。手には青い花を束ねたブーケを持って。
綺麗な色……あれは、確か……待って。そもそも子爵は花束なんて持って会いに行ったなんて仰ってたかしら?
そこでベルは目を覚ました。
「奇妙な夢だったわ」
夢の中にブライトン子爵とロスリンさんらしき人が出てきた気がしたけれど、昨日寝る間際までロスリンさんのこと考えていた所為かしら?
ベルは体を起こし、上体を伸ばす。カーテンから漏れる朝の光に包まれると夢の内容はすぐに薄れていった。
でも、一体どんな人だったんだろう、ロスリンさん。
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