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[-00:11:56]創作

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 数学の難解な問題は少しだけ考えて、結局、答案用紙を見てから勉強した。
 ミステリー小説は、犯人が気になって、最後の数ページを確認してから戻って読んでいた。
 いつだって、正解があることに安心していた。先に答えを知りたがった。いざ選択を迫られたとき、逃げてばかりだった。
 だって、答えの分からない問いに向き合う覚悟がなかったから。

(ねえ、神様。教えてよ)

『お前は俺に───死ねっていうのか?』

(わたしはあの時、なんて答えるのが、正解だったの?)





「よ。久しぶり、透花」

 ドアの向こう側に立っていたのは、一人の青年だった。透花は、目の前にある現実を理解できなくて何度も目を瞬かせながら、恐る恐る問うた。

「……り、つくん」
「うん」

 律は、軽く頷いた。明かり一つない廊下に立つその出で立ちは輪郭が曖昧だ。ひょっとして、幽霊なのかもしれない。もしくは、幽体離脱した律かもしれない。

「律くん、なの?」
「そうだよ」

 寝ぼけてる? と律は、透花の頬を軽く引っ張った。ふに、と引っ張られる感覚は確かにある。輪郭がぼやけていたのは、透花の瞳に溜まった涙のせいだ。

「ごめん、纏から来たメッセージは全部嘘。纏に協力してもらった」
「うそ」
「そうしないと、透花はドアを開けてくれないと思ったから」

 律の言葉がコンマ一秒ほど脳内を駆け巡り、今のこの状況を透花は、すべて理解した。瞳にためていた涙がぽろぽろ溢れ出すのと同時に、安心と、怒りがやってくる。手の中にあるUSBを強く握りしめて、透花は頬に触れる手を強く振り払った。乾いた破裂音が鳴る。

「───帰って」
「透花、」
「いいから、帰ってよ」

 律の胸を両手で強く押し返す。見た目に反して、透花の非力な力では律の身体はびくともしなかった。顔すら見たくない。早く、この場から消えてくれと、透花はそれでも両手に力を込めた。

「少しでいいから、話そう」
「話すことなんて何にもない!」
「俺にはあるよ」
「聞きたくない、これ以上何も!」
「透花、」
「全部、全部、もう、どうでもいいよ!! 『ITSUKA』のことも! 盗作のことも! MVのことも、創作のことも、律くんも、纏くんも、佐都子も、にちかちゃんも、全部、どうでもいい! だから、帰って、帰ってよ! これ以上、踏み入ってこないで! わたしに何も望まないで! 自分の都合ばっか押し付けないでよ……! わたしはもう、」
「───逃げんな」

 静かな怒りを纏った声に、透花は息を呑む。律の胸を押し返していた手が、握られた。不快になるような熱さが伝わってくる。見上げた先にあったのは、透花を見下ろす二つの眼だ。心臓が止まるほど、迷いのないまっすぐな瞳。

「逃げて、一体何になる? 今更、そんな無責任が通ると本気で思ってんなら、俺は透花に心の底から軽蔑する。それとも、透花にとっての『ITSUKA』は結局その程度で、お遊びだったってことか?」

 その言葉を耳にした瞬間、透花は律の胸を突き飛ばす勢いで手を振り払った。今にも逃げ出してしまいたかった。前に進むための退路が塞がれているのなら、透花は後ろへ引き下がるしかない。

「逃げるの、やめるって決めたんじゃないのかよ」
「……」

 一歩、律との距離が縮まるたび、透花は後ろへ。

「過去の自分と決別するんじゃなかったのかよ」
「……い、」

 ついに、部屋の窓まで透花は追い詰められた。中途半端に開かれていたドアが部屋から吹き込む風できい、きい、と錆ついた音を響かせる。
 いつの間にか、部屋の中は夜の闇に呑まれていた。窓から差し込む頼りない月明りによって伸びた透花の影の先に、律は立っている。彼だけに照らされたスポットライトが、当てられたら、瞬きをするうちに蒸発でもしてしまうような気がした。
 なあ、透花。掠れた声が、透花の名前を呼ぶ。

「俺の曲は、透花の心を動かすに足らない、雑音だった?」
「───うるさい!」

 鼓膜を震わせるほどの悲痛な叫びは、自分の声だとは思えないほど息苦しい声だった。
 視界を曇らす雫は頬を伝って、顎の先まで流れ着いて、重力に耐え切れず落ちていく。透花の足元に散らばる、3分13秒の物語たちを濡らした。

「うるさい、みんな、みんな、みんなうるっさいんだよッ! 逃げんな、逃げんな、逃げんな、逃げんな、逃げんなってさ……何様? じゃあ、律くんは逃げたことがないの? 今まで生きてきて、逃げ出したこと、目を背けたこと、一回も無いの? 一度決めたこと、途中で諦めたことないの!? そんなの嘘っ、誰だって逃げてんじゃん! 都合の悪いこと、知りたくないこと、見たくないこと、忘れたいこと、全部受け止めて全部向き合う人間なんかいない! みんな騙し騙し生きてる! ……だったら、いいじゃん、わたしだって逃げても。逃げるのが、そんなにいけないこと? こんな辛くて、しんどくて、死んじゃいそうなのに、それでも律くんは逃げんなって、そう言うの? 自分だって過去から目逸らしてる癖に、偉そうにわたしに説教しないでよ……! 律くんだって、わたしの気持ち分かるでしょ? 知らないひとからあることないこと書かれて、二度と見たくないですとか、一生描くなとか、勝手に評価されて比較されて、必死に描いたもの全否定されてさ! 匿名だったらなんでも言っていいって勘違いしてる人間に立ち向かったって、そんなの、もっと傷つくだけに決まってんじゃん! お願いだから分かってよ、わたしの気持ち! もう傷つきなくないの。苦しいの、痛いの全部もう、嫌なの! どうせ、何を言ったところで誰も信じてくれない。だって、わたしは悪者だから! なら、律くんだけは嘘でもいいから、逃げていいって、言ってよ。わたしの気持ち、分かってよ。言ってくれないなら、わたしの前から消えて! すぐに、今すぐに!」

 燃え上がるような怒りの感情をぶつけるように振り下ろした右手から、それは放物線を描いて律の足元へと叩きつけられた。
 転がり落ちたUSBを、律は何も言わずに拾う。掌に収まるってしまうくらいの、ちっぽけな勇気を再び握りしめて、律は静かに口を開く。

「……全部、透花の言う通りだ。向き合うの怖くて堪らないの、俺にも分かる。現実はいつだって、見たくないもの、知りたくないこと、痛くなることばっかだし。俺も、散々逃げてきた。だから、透花に偉そうなこと言える立場じゃないって、分かってる」
「だったら、なんで!」
「───嫌なんだ」

 それは、水がいっぱい入ったコップの淵から、表面張力の外側へ漏れ出してしまうみたいに。透明な雫が、白い頬を滑っていく。泣きたいのはこっちだって、罵声の一つでも浴びせたかったのに、透花は言葉を詰まらせた。

「俺が、嫌なんだ」

 やめてくれ、と透花の心が叫んでいる。そんな目で見ないでくれと、心臓の裏側まで響く声で。

「……なにそれ」
「透花の絵が好きだから、透花がいい。他の誰がどう言おうが関係あるかクソッタレ! 代わりとか絶対に居ない断言できる何なら神に誓ってもいい! 俺は、お前がいいんだよ!!」

 律の瞳が、流れ星が瞬く間に消えるくらいのスピードで、煌めく。

「───だって、俺を一番最初に見つけてくれたのは、透花だったから!」

 透花の脳裏に浮かぶのは、夕暮れの、誰もいない電車の中で揺れる自分と、その手に持ったスマホの画面。イヤホンから聴こえてくる音楽は、無機質な機械音だったのにどこか息苦しそうに藻掻いていた。
 たった、3分19秒だ。それでも透花は、魅了された。心奪われずにはいられなかった。
『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』、だなんてコメントを残してしまうくらいに。

「……そ、んな、子どもみたいな言い訳でどうにかなるわけないじゃん」
「どうにかする」
「できないよ」
「できる!」
「どうやって? ネット見てみなよ、罵詈雑言の嵐だよ? みんな、わたしの絵なんかもう見たくもないって! 消えろって! だったら、わたしさえいなくなれば万事解決じゃん。だって、誰も求めてないもん。望まれてない創作に存在価値なんてない!」
「顔も知らねえ奴らの言葉なんか鵜呑みにすんなよ! 透花の創作を待ってる人間は、もっと大勢いる!」
「大勢って、どれくらい? 数人? 数十人? どんなにいっぱいいてもさ、無駄だよ。その人たちもきっと、すぐ忘れちゃうから」
「そんなの、分かんないだろ」
「分かるよ! お兄ちゃんがそうだったんだから!!」

 時の流れは、誰にでも平等に残酷だ。
『創作』はこの世界に無数に存在している。そのひとつが無くなったところで、世界は何も困らない。 
 それが、『創作』。『創作』ほど報われない恋は、この世界のどこにも存在しない。

「再開されるまでいつまでも待ち続けますとか、この先もずっと一番大好きな漫画です、とかさ! お兄ちゃんの漫画が打ち切りになった時、みんな雰囲気に押し流されて耳障りの良いことばっか言ってたくせに、数週間経ったら、綺麗さっぱり忘れちゃってるの! もう、逆に笑えるでしょ」
「……」
「けどさ、『創作』って、そういうものだよ。そりゃそうだよね。だって、形がないものは誰かの記憶にしか留まれないもの。でも、記憶なんて時間が経てばいつか全部忘れられちゃう。そんなもののために、命削ってまで必死になって、辛くても頑張って、意味ないのに! 本当馬ッ鹿みたい! わたしも! お兄ちゃんも! 律くんも!」
「……」
「……もう、疲れたの」
 
 だから。

「全部、終わりにしたい」

 それが、合図だった。

 こんな気持ちだったのだろうか、と透花はかつての兄の姿を夢想する。
 透花の後ろから、冷たい風が吹き込む。素足で踏み付けたままだった『創作』の一部が、風で吹かれて翼の折られて地上に落下した鳥みたいにバタバタと喚く。それを拾い上げて、胸の前へ。力を入れずとも、ぴり、と音を立てて真ん中に切れ込みが入る。ぴり、ぴり、と紙の繊維が離れていく。一思いに、すべてを断ち切って、そうしたら。

(これで、ようやく、楽に──)

 その刹那、だった。


「───そんな身勝手な終わり方で、自分が救われるだなんて、思い上がるな!!」
『───そんな身勝手な終わり方で、自分が救われるだなんて、思いあがるな!!』


 透花の瞳に鮮烈に飛び込んだそれは、青だ。直視するには、あまり痛くて、脆い、青。


「断言する! お前は一生後悔する! 死ぬまで一生後悔する! 誰かに押し付けられて受け入れた結末に、お前の意志なんてこれっぽっちもないから!! ふざけんな!」
『断言する! お兄ちゃんは一生後悔する! 死ぬまで一生後悔する! 誰かに押し付けられて受け入れた結末に、お兄ちゃんの意志なんてこれっぽっちもないから!! ふざけるな!』


 その言葉を、透花は知っている。


「透花の創作は、透花だけのものだろうが!!」
『お兄ちゃんの創作は、お兄ちゃんだけのものでしょ!!』


 何故なら、その台詞を透花は同じように兄へ向って吐き出したから。もし、神様に仕組まれた運命だと言われたら、馬鹿な自分は信じてしまったかもしれない。
 そして、兄がその言葉を聞いた瞬間、怪物へと成り果てたのか、透花は今になってようやく理解する。
 律に掴まれた腕がぎりりと軋む。あれほど泣き喚いた後だというのに、透花の瞳はまた揺れる。
 透花の口から、勝手に言葉が滑り落ちた。

「じゃあ、」『なあ』

「律くんはわたしに───死ねっていうの?」
『お前は俺に───死ねっていうのか?』




「そうだよ」

 透花の頬を温かな掌が包む。揺らぐことのない青が、佇んでいた。その青は、雨上がりの空のようにどこまでも澄んでいる。だというのに、透花の頬に冷たい雫が降りかかって止まない。

「死んで。俺のために、死んで」

 透花は、その雨に溺れて、呼吸すら儘ならない。

「全部俺のせいにして。死ぬほど恨んでいいよ。ひとりが怖いなら、俺も一緒に死んであげる。でもそれは、今じゃない。透花が描き終わる、その時まで俺は死んでも死にきれない!」

 これは、呪いの言葉だ。一生沁みついてとれない呪いの言葉。

「だから、まだ終わりになんてしないで」

 傲慢で、身勝手で、自己犠牲に塗れた、最低で、最悪な、愛の告白だ。

「……、最低」
「最低で、いいよ」

 透花は、手を伸ばす。
 それは、片翼の折れた天使が二度と戻れない夜空を求めるように。伸ばさずにはいられなかった。指の腹で彼から零れる雨の雫を掬うと、澄んだ青が柔く細められ、また雨を降らせるのだ。

「馬鹿みたい」
「知ってる」
「わたしにそこまでの価値は、ないよ」
「価値とかそんなん、どうでもいい。俺がそうしたいだけ」
「…………本当に、そばにいてくれるの?」
「いるよ」
「……そっか」
「うん」
「なら、もう、それだけでいいや」
「透花、」
「わたしのために死ななくていいから、かわりにそばにいて。わたしよりわたしの創作を好きでいて。それだけで、いい」
「……分かった」
「…………ああ、悔しいなぁ」
 
 透花は、律の胸に置いた手を握りしめて、声を押し殺す。

「本当は、ずっと、誰かにそう言って欲しかったの」

 ずっと、透花が探し求めていた答えは、案外単純だった。
 たった一つの言葉で救われる世界は、ちゃんとあったのだ。それを伝える覚悟さえあれば、透花は兄を救えたかもしれない。
 透花が、今、救われたように。
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