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[-00:08:43]ミッドナイトブルー
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ツルミ荘にやってきて、2週間が経つ。
2週間ずっと右頬を覆っていた白いガーゼを外して、律は鏡に映る自分を見た。隠れていた部分を指先で触れても、痛みはなく、殴られた形跡なんて元々無かったのではないかと思うほど、元通りだった。
ゆっくりと深呼吸をする。気合を入れるように、両手で思いっきり頬を叩いた。
「……よし」
鏡越しに映る自分の顔は、幾らか大人になったように見えた。
*
「透花、ちょっといい?」
いつの間にか、律と透花の定位置になっていた縁側に顔を出すと、案の定、透花が鉛筆を走らせているところだった。呼びかけられた透花が、こちらを見上げた。顔にかかった黒髪を耳にかけながら透花は、律のスペースを開けるように少し横にずれる。遠慮なくそこに腰を下ろす。
「透花に一番に、伝えようと思って」
「うん」
「俺の答えを」
勝手に手が震える。寒さではなく、緊張で。生まれてきて初めて、こんなにも心臓を握りられるような緊張感を味わう。心いっぱいに溜まった不安を振り払うように、律は顔を上げ、透花を見る。僅か数十センチ先で、透花の深く青の瞳が煌めく。
「俺は───」
プルルルル、プルルルル。
今まさに律の口から答えが出かかったその瞬間、鳴り響いたのは、電話の着信音だった。絶望的なタイミングだった。口から出かかった言葉を仕舞うべきなのか分からず硬直していた律に、透花は苦笑しながら、律のポケットをちょこんと指さす。
出ていいよ、の合図だ。
「……ごめん、すぐ終わらせるから」
舌打ちしたい気持ちをぐっと堪え、乱暴にポケットからスマホを取り出して、表示を見る。通話の相手は、『和久叔父さん』だった。律が家出してから一度も掛けてこなかった叔父からの電話に、律は一抹の違和感を覚える。親指で通話アイコンをタップして、スマホを耳に当てた。
「もしも、」
『律か!?』
律の言葉を遮って、珍しく焦りを語尾に滲ませた叔父の声がする。後ろから、カチカチ、とウィンカーが一定のリズムを刻んでいる。どうやら、車でどこかに向かっている最中のようだ。
『いいか、落ち着いて聞いてくれ』
「……なに?」
『晴彦義兄さんが倒れた』
呼吸が、止まった。頭のてっぺんから足のつま先まで体中の血が抜けたみたいに、力が抜ける。スマホの重さすら耐えれずに、次第に腕が落ちる。
『職場近くの大学病院に運ばれたらしい。それ以外の詳しいことは分からん! お前もすぐに来れるか!? ……律? オイ、律!?』
電話口から叔父の怒号にすら近い剣幕が聞こえてくるが、律は呆然としたまま思うように体が動かせない。だというのに、頭の中では曖昧な記憶の中に残る母の顔がコマ送りで流れていく。律は知っている。人間というのは、あまりに呆気なく死ぬのだと。
視界が掠れて何も見えなくなる寸前、誰かが律の右手を握りしめた。
その手の先を辿るように律は顔を上げる。
「───すいません、電話代わりました! 透花です!」
透花が、いつの間にか律のスマホを手に持ち、電話口の叔父と話し合っている。
「はい、はい、分かりました! すぐ、向かいます!」
すぐさま電話を切った透花が、律の腕を引っ張り上げる勢いで立ち上がった。地獄の底で、目の前に足らされた蜘蛛の糸に縋る人間は、果たしてこんな気持ちだったのだろうか、と律は繋がれた手に力を込める。
「なんだ!? どうした!?」
ただならない騒ぎを聞きつけた夕爾が、足音を立てながらリビングにやってくる。透花が矢継ぎ早に事情を話す。すると、夕爾は表情を硬くして神妙に頷いた。
「分かった、店前に社用車回す! すぐ乗り込め!」
「律くん、行こう!」
繋がれた手に引かれるように、ツルミ荘を出て、透花とともに律は車の後部座席に乗り込んだ。病院に向かう道中、隣に座る透花の手から伝わる体温だけが、唯一、律を現実に繋ぎとめる糸だった。
*
「……はい?」
「ですから、雨宮晴彦さんなら、先ほど検査が終わって会計済まされたようですよ?」
「きゅ、急に倒れたって聞いたんですが」
「過労と軽い栄養失調だそうです。雨宮さんから連絡はなかったですか?」
言葉を失ったまま立ち尽くす律たちを横目に、受付の女性は次の方、と後ろの客を呼び寄せる。律と透花は、押し出されるような形で受付の列から離れた。
エントランスホールから病院の外に出ると、容赦なく冷たい風が吹きつける。未だ顔を伏せたまま、無言の律から感情はなに一つ読み取れない。何か声をかけなければ、と切迫感に追い詰められて、上擦った声で透花は話しかける。
「ええと……大事にならなくて、よ、かったね?」
「……ああ」
「あああ、あれかな? 律くんのお父さん、連絡するの忘れちゃったんだよ。きっと!」
「……ああ」
「おおお、叔父さんもそろそろ来る頃かなぁ?」
「透花」
「ひゃい!」
透花は裏返った声と共に肩を跳ねさせた。恐る恐る隣を見やると、律が人差し指で透花の額を弾く。そして、空気よりも軽くふっと笑った。
「いいよ、気遣わなくて」
「……ご、ごめん」
「なんで透花が謝んの。俺の方こそ、付き合わせてごめんな」
「そんなの、全然」
「ここに居たら風邪ひくし、もう、帰ろうか」
「……うん」
「夕爾さんにもさ、お礼言っとかないとな。ジュースくらい買ってくか。あのひと、苦いの大丈夫? コーヒーとかでもいいかな? あ、ちょうどいいとこに自販機あるな」
透花と繋いだ手を引いて、自販機の方へ踏み出した足は、一歩目で止まってしまった。何故なら、その自販機の前に立つ人影に、律の方が先に気付いたからだ。咄嗟に背を向けようとしたが、もう遅かった。
「律、か?」
無事を知るまでは、会わなければと切に願っていたのに、いざその姿を目の前にして、律は心の底から後悔する。2週間ぶりに再会した父の姿は、玉手箱でも開けたのかと思うほど、やつれ切った姿で立っていた。
「お前、どうしてここに……、いや、今はそんなことどうでもいい」
額に手を当て、疲労を込めたため息を父は一つ付いた。ゆるりと顔を上げ、律を見やる。あの夜と同じ、律を強く詰責する目だった。
「今までどこにいた」
「……言わない」
「なんだと? ふざけてるのか?」
「ふざけてんのはどっちだよ」
「どういう意味だ」
は、と律は乾いた笑いを零した。
「今まで散々放置してたくせに、今更父親面すんなって言ってんの」
吐き捨てるように呟いた言葉で、父は分かりやすく狼狽した。これ以上同じ空気を吸っているのも苦痛だった。今、口を開けば一体どんな残酷な言葉が飛び出してくるか分からない。辛うじて堰き止めていた感情にブレーキの掛けられなくなるのが、怖かった。
律は、握った手に少し力を込める。
「もう、行こう。透花」
「う、うん」
律と父の顔を伺い、透花は躊躇いがちに頷く。少し痛くなるくらいの力で透花の手を引き、律は再び歩み始めた、その時。
「───待て、律ッ!」
咄嗟に律の腕を、角ばった手が掴む。一瞬にして背中を嫌悪感が走り抜け反射的に腕を振り払うが、不快な熱は律の腕に纏わりついたまま離れない。
「いい加減、目を覚ませ! 音楽なんてやって何になる!」
「……」
「約束しただろう!? 忘れたのか!?」
忘れるわけがない、忘れられるものか、と律は吐き出したい言葉を堪え、歯嚙みする。
「音楽のせいで、奏は死んだ。たかだか、音楽なんぞのために! 奏は俺たちを捨てて、音楽を選んだんだ。それをお前は、許せるのか!?」
その叫びは、ほとんど泣いているようにすら、聴こえた。
「いいから……もう戻ってこい、律。今なら、許してやるから」
律は、かさついた父の手をもう一度、振り払う。今度は、簡単に解けた。肺には痛いほどの冷たい空気を吸い込んで、律は静かに答える。
「戻らないよ」
父の表情が、次第に怒りを滲ませていく。
「まだ、曲を完成させてないから」
ぱあん、と乾いた音が響いた。どうやらまた右頬を叩かれたらしい、ということだけは理解した。あの夜と同じ痛みが、口の中まで広がっていく。
あの時と違うのは、状況を把握できるくらいには律が冷静だったことだ。顔を上げると、興奮で肩を上下させた父と目が合う。殴られたのは律の方なのに、一瞬父は苦しそうに顔を歪ませた。けれど、すぐ怒りに満ちた表情へと変わる。
「これ以上俺を失望させるな! つまらん感情で自分の将来を棒に振る気か! いいか、お前はまだ子供だ! 子供は、親の言うことには黙って従ってればいいん───がッ!」
それは、突然起こった。
瞬きをすれば見逃すほどの短い一瞬、父は文字通り吹き飛んだ。横から飛んできた拳で。
短い断末魔とともに、よろめいた父の身体は自販機に激突して、地面に沈み込む。状況を飲み込めない。それは父も同じようで、何度も目を瞬かせながら、律ではなく───その横へ視線を向けた。つられて律も横目で確認する。
「と、透花?」
そこには、拳を振り下げた格好のまま、荒く呼吸を繰り返す少女がいた。
「……だかだか?」
「え? ちょ、と、透花!?」
「そんなもの、って言ったか? 今」
律の静止を振り切り、透花は父の襟首に勢いよく掴みかかった。そして、大きく胸を上下させて擦り切れるほどの大声で叫んだ。
「ごちゃごちゃごちゃごちゃ、うるッさいわ!!」
「ぁ、」
「いいから黙って曲を聴け!! たかだか音楽だなんて決めつけんのは、その後にしろぉ!!」
静寂が3秒ほど続いた。
頭に血が上っていた透花は、ようやく我に返った。そして自分がとんでもないことをしでかしたことを理解する。慌てて掴みかかった手を放して、後ろに数歩下がる。地面に尻餅ついた父がよろめきながら、自販機を支えに立ち上がろうとしている。顔は見えないが、空気で分かる。怒髪冠を衝く程の怒りをひしひしと感じる。
そして、修羅の顔が表を上げる瞬間、咄嗟に律が声を上げた。
「逃げるぞ!」
「へっ?」
戸惑う透花の腕を強く引っ張り、律は一目散に走り出す。
駆け出した律たちを追いかける足音は、しなかった。
*
どれほど、走ったのだろうか。
当てもなくただがむしゃらに律たちは走り続けた。追いかける足音もないのに。すでに病院の建物すら見えなくなるほど遠くまでやってきた。透花はいよいよ、息が続かなくなって、背中越しに呼びかける。
「はあ、はあ、り、律く……も、もう限界! す、ストップぅ!」
透花のギブアップ宣言で、ようやくスピードが緩み、律の足が止まった。ずっと繋ぎっぱなしだった手と手が離れる。透花は手を膝について、ぜーぜーと呼吸を繰り返した。酸欠だった脳に酸素を送り込んで、冷静さを取り戻した。ついでに先ほどの犯した失態の記憶も蘇ってくる。
「……あのう、律くん」
恐る恐る、透花は律の袖を引っ張った。律は腕を組んで、俯いたまま何やら深刻そうな雰囲気を纏わせている。透花は、上がった体温が急激に下がるのを感じた。勢いよく頭を下げる。
「ご、ごめんなさい!!」
「ふ、」
「わたしが出しゃばったばっかりに! どどどどうしよう!?」
「っく、」
いよいよ肩を震わせ始めた律を見て、透花はさらに顔を青くする。
「今からでも、戻って───」
「ふっく、く……あっはははっはっはははははははははっははは!!」
「……え?」
それは大爆笑だった。腹を抱えて、何なら目に涙まで浮かべて。
「ははっは、なあ見た? あの、間抜けな面! はーやば、涙出てきた」
「……怒ってないの?」
「へ? なんで?」
「な、なんで!? だって、わたし、律くんのお父さんにいきなり殴りかかったんだよ!?」
「ふはっ、やめて。また思い出して笑っちゃうから!」
目尻に溜まった涙を拭いながら、律は溌剌とした様子で胸を張る。
「あの瞬間、すっげえスカッとした!」
それは、遥か頭上にある青天井を背景にしても遜色ないほどの、晴れやかな笑みだった。
「いいから黙って聴け、かぁ。ふふ、うん。うん、そうだった! 俺、ずっとそう言ってやりたかったんだ。いざ父さんを前にすると、声が出なかったけど」
「律くん、」
「ありがとう、俺の代わりに言ってくれて」
「……お礼言われるようなことじゃないよ。殴っちゃったし」
「いいよ、俺だって殴られたし。しかも二回も! なんならあともう一発殴ってくれたらおあいこだったのに」
透花は、自然な動作で指先で律の頬に触れる。触れた瞬間、いて、と律は呻き声を挙げながら眉を顰めた。
「また、赤くなってる。帰って冷やさないと。待ってね、今お兄ちゃんに連絡、」
「透花」
スマホを取り出すために離れそうになった透花の手を、律は縋るように手を重ね合わせ、そのまま頬に寄せた。触れたところがやけに熱くて、その熱が伝染していくように透花の顔が徐々に赤く染まる。声も紡げないのか、口をパクパクさせている。
律は、逃がすつもりはない、と意志を伝えるように強く、手を握りしめて言った。
「今から、駆け落ちしよう」
え、と小さく漏らした透花の言葉は、乾いた風によって跡形もなく消えてしまった。
2週間ずっと右頬を覆っていた白いガーゼを外して、律は鏡に映る自分を見た。隠れていた部分を指先で触れても、痛みはなく、殴られた形跡なんて元々無かったのではないかと思うほど、元通りだった。
ゆっくりと深呼吸をする。気合を入れるように、両手で思いっきり頬を叩いた。
「……よし」
鏡越しに映る自分の顔は、幾らか大人になったように見えた。
*
「透花、ちょっといい?」
いつの間にか、律と透花の定位置になっていた縁側に顔を出すと、案の定、透花が鉛筆を走らせているところだった。呼びかけられた透花が、こちらを見上げた。顔にかかった黒髪を耳にかけながら透花は、律のスペースを開けるように少し横にずれる。遠慮なくそこに腰を下ろす。
「透花に一番に、伝えようと思って」
「うん」
「俺の答えを」
勝手に手が震える。寒さではなく、緊張で。生まれてきて初めて、こんなにも心臓を握りられるような緊張感を味わう。心いっぱいに溜まった不安を振り払うように、律は顔を上げ、透花を見る。僅か数十センチ先で、透花の深く青の瞳が煌めく。
「俺は───」
プルルルル、プルルルル。
今まさに律の口から答えが出かかったその瞬間、鳴り響いたのは、電話の着信音だった。絶望的なタイミングだった。口から出かかった言葉を仕舞うべきなのか分からず硬直していた律に、透花は苦笑しながら、律のポケットをちょこんと指さす。
出ていいよ、の合図だ。
「……ごめん、すぐ終わらせるから」
舌打ちしたい気持ちをぐっと堪え、乱暴にポケットからスマホを取り出して、表示を見る。通話の相手は、『和久叔父さん』だった。律が家出してから一度も掛けてこなかった叔父からの電話に、律は一抹の違和感を覚える。親指で通話アイコンをタップして、スマホを耳に当てた。
「もしも、」
『律か!?』
律の言葉を遮って、珍しく焦りを語尾に滲ませた叔父の声がする。後ろから、カチカチ、とウィンカーが一定のリズムを刻んでいる。どうやら、車でどこかに向かっている最中のようだ。
『いいか、落ち着いて聞いてくれ』
「……なに?」
『晴彦義兄さんが倒れた』
呼吸が、止まった。頭のてっぺんから足のつま先まで体中の血が抜けたみたいに、力が抜ける。スマホの重さすら耐えれずに、次第に腕が落ちる。
『職場近くの大学病院に運ばれたらしい。それ以外の詳しいことは分からん! お前もすぐに来れるか!? ……律? オイ、律!?』
電話口から叔父の怒号にすら近い剣幕が聞こえてくるが、律は呆然としたまま思うように体が動かせない。だというのに、頭の中では曖昧な記憶の中に残る母の顔がコマ送りで流れていく。律は知っている。人間というのは、あまりに呆気なく死ぬのだと。
視界が掠れて何も見えなくなる寸前、誰かが律の右手を握りしめた。
その手の先を辿るように律は顔を上げる。
「───すいません、電話代わりました! 透花です!」
透花が、いつの間にか律のスマホを手に持ち、電話口の叔父と話し合っている。
「はい、はい、分かりました! すぐ、向かいます!」
すぐさま電話を切った透花が、律の腕を引っ張り上げる勢いで立ち上がった。地獄の底で、目の前に足らされた蜘蛛の糸に縋る人間は、果たしてこんな気持ちだったのだろうか、と律は繋がれた手に力を込める。
「なんだ!? どうした!?」
ただならない騒ぎを聞きつけた夕爾が、足音を立てながらリビングにやってくる。透花が矢継ぎ早に事情を話す。すると、夕爾は表情を硬くして神妙に頷いた。
「分かった、店前に社用車回す! すぐ乗り込め!」
「律くん、行こう!」
繋がれた手に引かれるように、ツルミ荘を出て、透花とともに律は車の後部座席に乗り込んだ。病院に向かう道中、隣に座る透花の手から伝わる体温だけが、唯一、律を現実に繋ぎとめる糸だった。
*
「……はい?」
「ですから、雨宮晴彦さんなら、先ほど検査が終わって会計済まされたようですよ?」
「きゅ、急に倒れたって聞いたんですが」
「過労と軽い栄養失調だそうです。雨宮さんから連絡はなかったですか?」
言葉を失ったまま立ち尽くす律たちを横目に、受付の女性は次の方、と後ろの客を呼び寄せる。律と透花は、押し出されるような形で受付の列から離れた。
エントランスホールから病院の外に出ると、容赦なく冷たい風が吹きつける。未だ顔を伏せたまま、無言の律から感情はなに一つ読み取れない。何か声をかけなければ、と切迫感に追い詰められて、上擦った声で透花は話しかける。
「ええと……大事にならなくて、よ、かったね?」
「……ああ」
「あああ、あれかな? 律くんのお父さん、連絡するの忘れちゃったんだよ。きっと!」
「……ああ」
「おおお、叔父さんもそろそろ来る頃かなぁ?」
「透花」
「ひゃい!」
透花は裏返った声と共に肩を跳ねさせた。恐る恐る隣を見やると、律が人差し指で透花の額を弾く。そして、空気よりも軽くふっと笑った。
「いいよ、気遣わなくて」
「……ご、ごめん」
「なんで透花が謝んの。俺の方こそ、付き合わせてごめんな」
「そんなの、全然」
「ここに居たら風邪ひくし、もう、帰ろうか」
「……うん」
「夕爾さんにもさ、お礼言っとかないとな。ジュースくらい買ってくか。あのひと、苦いの大丈夫? コーヒーとかでもいいかな? あ、ちょうどいいとこに自販機あるな」
透花と繋いだ手を引いて、自販機の方へ踏み出した足は、一歩目で止まってしまった。何故なら、その自販機の前に立つ人影に、律の方が先に気付いたからだ。咄嗟に背を向けようとしたが、もう遅かった。
「律、か?」
無事を知るまでは、会わなければと切に願っていたのに、いざその姿を目の前にして、律は心の底から後悔する。2週間ぶりに再会した父の姿は、玉手箱でも開けたのかと思うほど、やつれ切った姿で立っていた。
「お前、どうしてここに……、いや、今はそんなことどうでもいい」
額に手を当て、疲労を込めたため息を父は一つ付いた。ゆるりと顔を上げ、律を見やる。あの夜と同じ、律を強く詰責する目だった。
「今までどこにいた」
「……言わない」
「なんだと? ふざけてるのか?」
「ふざけてんのはどっちだよ」
「どういう意味だ」
は、と律は乾いた笑いを零した。
「今まで散々放置してたくせに、今更父親面すんなって言ってんの」
吐き捨てるように呟いた言葉で、父は分かりやすく狼狽した。これ以上同じ空気を吸っているのも苦痛だった。今、口を開けば一体どんな残酷な言葉が飛び出してくるか分からない。辛うじて堰き止めていた感情にブレーキの掛けられなくなるのが、怖かった。
律は、握った手に少し力を込める。
「もう、行こう。透花」
「う、うん」
律と父の顔を伺い、透花は躊躇いがちに頷く。少し痛くなるくらいの力で透花の手を引き、律は再び歩み始めた、その時。
「───待て、律ッ!」
咄嗟に律の腕を、角ばった手が掴む。一瞬にして背中を嫌悪感が走り抜け反射的に腕を振り払うが、不快な熱は律の腕に纏わりついたまま離れない。
「いい加減、目を覚ませ! 音楽なんてやって何になる!」
「……」
「約束しただろう!? 忘れたのか!?」
忘れるわけがない、忘れられるものか、と律は吐き出したい言葉を堪え、歯嚙みする。
「音楽のせいで、奏は死んだ。たかだか、音楽なんぞのために! 奏は俺たちを捨てて、音楽を選んだんだ。それをお前は、許せるのか!?」
その叫びは、ほとんど泣いているようにすら、聴こえた。
「いいから……もう戻ってこい、律。今なら、許してやるから」
律は、かさついた父の手をもう一度、振り払う。今度は、簡単に解けた。肺には痛いほどの冷たい空気を吸い込んで、律は静かに答える。
「戻らないよ」
父の表情が、次第に怒りを滲ませていく。
「まだ、曲を完成させてないから」
ぱあん、と乾いた音が響いた。どうやらまた右頬を叩かれたらしい、ということだけは理解した。あの夜と同じ痛みが、口の中まで広がっていく。
あの時と違うのは、状況を把握できるくらいには律が冷静だったことだ。顔を上げると、興奮で肩を上下させた父と目が合う。殴られたのは律の方なのに、一瞬父は苦しそうに顔を歪ませた。けれど、すぐ怒りに満ちた表情へと変わる。
「これ以上俺を失望させるな! つまらん感情で自分の将来を棒に振る気か! いいか、お前はまだ子供だ! 子供は、親の言うことには黙って従ってればいいん───がッ!」
それは、突然起こった。
瞬きをすれば見逃すほどの短い一瞬、父は文字通り吹き飛んだ。横から飛んできた拳で。
短い断末魔とともに、よろめいた父の身体は自販機に激突して、地面に沈み込む。状況を飲み込めない。それは父も同じようで、何度も目を瞬かせながら、律ではなく───その横へ視線を向けた。つられて律も横目で確認する。
「と、透花?」
そこには、拳を振り下げた格好のまま、荒く呼吸を繰り返す少女がいた。
「……だかだか?」
「え? ちょ、と、透花!?」
「そんなもの、って言ったか? 今」
律の静止を振り切り、透花は父の襟首に勢いよく掴みかかった。そして、大きく胸を上下させて擦り切れるほどの大声で叫んだ。
「ごちゃごちゃごちゃごちゃ、うるッさいわ!!」
「ぁ、」
「いいから黙って曲を聴け!! たかだか音楽だなんて決めつけんのは、その後にしろぉ!!」
静寂が3秒ほど続いた。
頭に血が上っていた透花は、ようやく我に返った。そして自分がとんでもないことをしでかしたことを理解する。慌てて掴みかかった手を放して、後ろに数歩下がる。地面に尻餅ついた父がよろめきながら、自販機を支えに立ち上がろうとしている。顔は見えないが、空気で分かる。怒髪冠を衝く程の怒りをひしひしと感じる。
そして、修羅の顔が表を上げる瞬間、咄嗟に律が声を上げた。
「逃げるぞ!」
「へっ?」
戸惑う透花の腕を強く引っ張り、律は一目散に走り出す。
駆け出した律たちを追いかける足音は、しなかった。
*
どれほど、走ったのだろうか。
当てもなくただがむしゃらに律たちは走り続けた。追いかける足音もないのに。すでに病院の建物すら見えなくなるほど遠くまでやってきた。透花はいよいよ、息が続かなくなって、背中越しに呼びかける。
「はあ、はあ、り、律く……も、もう限界! す、ストップぅ!」
透花のギブアップ宣言で、ようやくスピードが緩み、律の足が止まった。ずっと繋ぎっぱなしだった手と手が離れる。透花は手を膝について、ぜーぜーと呼吸を繰り返した。酸欠だった脳に酸素を送り込んで、冷静さを取り戻した。ついでに先ほどの犯した失態の記憶も蘇ってくる。
「……あのう、律くん」
恐る恐る、透花は律の袖を引っ張った。律は腕を組んで、俯いたまま何やら深刻そうな雰囲気を纏わせている。透花は、上がった体温が急激に下がるのを感じた。勢いよく頭を下げる。
「ご、ごめんなさい!!」
「ふ、」
「わたしが出しゃばったばっかりに! どどどどうしよう!?」
「っく、」
いよいよ肩を震わせ始めた律を見て、透花はさらに顔を青くする。
「今からでも、戻って───」
「ふっく、く……あっはははっはっはははははははははっははは!!」
「……え?」
それは大爆笑だった。腹を抱えて、何なら目に涙まで浮かべて。
「ははっは、なあ見た? あの、間抜けな面! はーやば、涙出てきた」
「……怒ってないの?」
「へ? なんで?」
「な、なんで!? だって、わたし、律くんのお父さんにいきなり殴りかかったんだよ!?」
「ふはっ、やめて。また思い出して笑っちゃうから!」
目尻に溜まった涙を拭いながら、律は溌剌とした様子で胸を張る。
「あの瞬間、すっげえスカッとした!」
それは、遥か頭上にある青天井を背景にしても遜色ないほどの、晴れやかな笑みだった。
「いいから黙って聴け、かぁ。ふふ、うん。うん、そうだった! 俺、ずっとそう言ってやりたかったんだ。いざ父さんを前にすると、声が出なかったけど」
「律くん、」
「ありがとう、俺の代わりに言ってくれて」
「……お礼言われるようなことじゃないよ。殴っちゃったし」
「いいよ、俺だって殴られたし。しかも二回も! なんならあともう一発殴ってくれたらおあいこだったのに」
透花は、自然な動作で指先で律の頬に触れる。触れた瞬間、いて、と律は呻き声を挙げながら眉を顰めた。
「また、赤くなってる。帰って冷やさないと。待ってね、今お兄ちゃんに連絡、」
「透花」
スマホを取り出すために離れそうになった透花の手を、律は縋るように手を重ね合わせ、そのまま頬に寄せた。触れたところがやけに熱くて、その熱が伝染していくように透花の顔が徐々に赤く染まる。声も紡げないのか、口をパクパクさせている。
律は、逃がすつもりはない、と意志を伝えるように強く、手を握りしめて言った。
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え、と小さく漏らした透花の言葉は、乾いた風によって跡形もなく消えてしまった。
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