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「鬼は外」で追い出された鬼がなんだかんだで無事に嫁入りする話
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・他サイトで昨年投稿のものなので日付が今年のものとは異なっています
「鬼は外! 福は内!」
もうじき二月三日、年に一度の節分が今年もやってくる。
節分なんて大嫌いだ。
こんな行事のせいで毎年のように居場所を失うなんて。
俺たち鬼は地獄で生まれ、乳離れするとすぐに冥界から地上に送られる。
そこで人間の家に憑りついて修行をするのが習わしだ。
人間よりも寿命が長く、ゆっくり年をとるものだから怪しまれもするけれど、俺たちはそうやって立派な鬼になっていく。
かく言う俺、鬼助も修行中の身、なのだけれど。
昨年取り憑いたのはマンションの一室、そこの家主に追い出されるのも時間の問題だった。
「明日は豆まきをするからな」
「そんなあ」
かねてから幾度となく言われてきたことだが、いざ最終通告を受けると、いよいよ宿無しが現実味を帯びてくる。
やっとの思いで居候に漕ぎつけたのに、また一年ちょうどで祓われるらしい。
俺たち鬼だって何も問答無用で人間に寄生しているわけじゃないから、当然相手の意思によって共に暮らすか否かの判断を下される。
とはいえ、一応宿主となる人間には身分を明かし契約を交わしているので明日からいきなり「出ていけ」とはならない。
ただし年に一度の節分の日だけは違う。
そこで豆をぶつけられ「鬼は外」と言われてしまえば契約の拘束力は失われ、鬼は宿無しとなってしまうのだ。
それを回避すべく日夜人間の機嫌を取り、尽くしてきたはず。それなのに。
「そもそも最初から嫌だったんだ。こんな小鬼に居つかれるなんて。これじゃ彼女も呼べやしないし」
「そこをなんとか! 情けをください!」
土下座せんばかりの勢いで頼み込むも、相手は迷惑そうにするだけ。
俺だって本当はこんなことしたくもないんだけど。仕方がないじゃん。
一端の鬼ならまだしも俺はまだ子供。
大人パンツはまだ許されていないから黄色と黒の縞々の下着はピチッとしたブリーフだし、二本の角だって髪の毛で隠れちゃうくらい小さいんだもの。
一人じゃ到底生きられない。
服を着て普通にしていれば人間の少年に擬態するのも簡単だから楽と言えば楽なんだけど、やっぱり俺だって鬼だ。
鬼は鬼らしく生きたいし、今後のキャリアのことを考えるとやっぱり家を失うのはきつい。
あと八十年は修行しないと獄卒の試験を受けるどころか、地獄にだって帰れないわけだし。
それなのに、鬼よりも冷たい人間は、
「とにかくうちはもう無理だから」
なんて吐き捨てる。
取り憑く島もないってか。
なんだよ! 俺だってこの一年何にもしなかったわけじゃないだろ。
社畜とやらをしている人間を労って、朝は早起きして弁当を作り、朝飯を用意、それから起こしてやって、仕事に送り出す。昼は掃除をしてから洗濯と買い出し。夜は夜で人間が帰ってくる前に夕飯の支度と風呂まで沸かしてやっていた!
こんなに出来る鬼なんて他にいない! はず!
それなのに「出ていけ」だなんて。あんまりだ。
しくしく泣く俺を人間は一瞥し、
「とにかく、明日までに荷物を纏めとけ」
すっかり鬼専用スペースとなったクローゼットに俺を投げ入れた。
*
「ちくしょう! なんて冷血漢なんだ!」
拾ってくれた時はあんなに優しかったのに。これじゃ詐欺じゃないか。
リュックに必要なものを詰めながら悪態をつく。
「最初に連れてきたのアイツなのに」
なんでこうなっちゃったんだろう。
もうかれこれ二十年以上人間界でお世話になっているが、どの家でも長続きしたことがない。
若いやつらはみんな「嫁が~」「恋人が~」と言ってのけ、年老いたやつらは早々に死んでいった。
本当に男運がない。
「次は女の家でもいいんだけど、でもなあ……」
兄さんたちが修行していた頃と比べて昨今は女性の危機意識が高くなってきている上にセキュリティが固すぎる。
昔だと独り身の女なんて疎外されているのが大半だったから用心棒代わりと言って取り込むのも容易だったみたいだけど、近頃はそうもいかない。
戸籍がないからまともな職場では働けないし。山に籠っていても修行扱いにはならないし。
結局、家事スキルを活かして男に養ってもらうのが一番なんだよなあ。
「次は長く続きそうなやつ、気弱で孤独死しそうなタイプを狙うか」
密かにそう決意し、俺は残りの持ち物を鞄に入れていった。
*
そして、いよいよ節分当日。
途中で気が変わらないかなと期待もしていたが、宣告通り人間は俺を祓うつもりらしい。
「ほら、豆だぞ」
「うぅ……わかってるよ」
お別れの名残惜しさすら味わう余韻めいたものもなく、人間は容赦なく豆をちらつかせてくる。
こいつには人の心ってやつがないのか。
俺でも世話になった礼くらいしてやろうと思っていたのに。せめて和やかに「今までありがとう」ってさせてくれよ。
そんなに厄介だったのかな。
確かに座敷童子なんかと違って家に幸運をもたらす効能とかないけど、ちょっとは役に立っていたつもり。
最初の頃は笑顔で家事を喜んでくれていたはずなのに、最後がこれってなんか悲しい。
だいたい酔っ払った勢いで連れてきたのもお前だろう。
きまぐれで猫を拾って、いらなくなったからってまた捨てるのと同じようなことだぞ!
心の中でそう文句を沸き立たせている間に、やつはさっさと、
「鬼は外!」
俺を本当に追い出してしまった。
*
やばい、今日野宿かも。まじで行くところがない。
いつもの気丈さは鳴りを潜め、あまりの心細さから下を向く。
トボトボと歩いても人間が追いかけてくる気配はない。
まさかこんなにあっさり放逐されちゃうなんて。あまりの呆気なさにしおらしくもなるってものだ。
一緒に歩いたスーパーへの道。この角を曲がればクリーニング屋さんがあるって教えてくれたのも彼だった。
居候し始めたばかりの頃は手を繋いでワイシャツの受け取りに連れて行ってくれていたんだよな。
でも、黒目黒髪の彼と黄色い瞳と栗色の癖毛を持つ俺じゃ似ても似つかないせいで、オーナーから疑惑の目が向けられて。
慌てて「腹違いの兄弟なんです」とか誤魔化していたっけ。
その後も会う人、会う人に訝しがられて。そのうち存在も隠されるようになっちゃって。
「俺ってそんなに恥ずかしい?」
文句を言ったこともあった。
それでも、家の中だけでも穏やかならそれで良かったのに。
いつからだろう、気がついた頃にはギスギスするようになってしまっていた。
こんな俺に次の人なんて現れるのかな。現れたとことて上手くいくビジョンが見えない。
また面倒がられて、捨てられていくんだ。
思い出の道を辿るのが辛くて、クリーニング屋さんとは逆の方をとる。
すでに日は暮れはじめ、子供たちが駆けてすれ違っていく。
その影がうつむき様にも視界の端に入ってくるから、アスファルトの小石を蹴って誤魔化す。
あの子には帰る家があるんだ。
そんな当たり前のことを思ったら泣けてきた。
弱気になるのは腹が減っているからだと自分に言い聞かせるも、持ってきた荷物の中には食料もなければ金もない。
「これが百年前ならなあ」
通貨だけじゃなくて等価交換もまだ効いたらしいのに。
住み込みで働くのだって場所によっては可能だったというのだから、時の流れは残酷なものだ。
「とりあえず胃に何か入れないと」
立春最中の薄暗い寒空に苛まれながら、ただ目的もなく進んでいった。
*
行き交った子供たちが来た方にあった公園のブランコに意味もなく揺られていた。
澄んだ夜空にはソバカスみたいに星が散っていて、町の街頭はチカチカと点滅している。
公園脇に人通りはすでになく、みな帰路に着いたのだと推測するのも容易い。
この時間から取り憑ける家を探すのはさすがに厳しそう。
水飲み場もあるし、今夜の寝床はあそこにある洞穴みたいな遊具の中かもな。
「こんなの絶対寒いじゃん」
でも、贅沢は言っていられない。風を防げるだけマシだ。
寝るまでにはまだ時間もあるし、手持ち無沙汰でどうしようもなくて、つい暗いことばかり考えてしまう。
「はぁ、明日からどうしよう」
早急に次を決めないと、来年の節分まで家無し鬼になる。
そうしたら、獄卒までの道はまた一歩遠ざかるし、エアコンや電子レンジといった文明の利器に慣れきった今の俺に山で身を隠して暮らすのは難しいだろう。
「誰か拾ってくれねぇかな」
ぼやく呟きは誰にも気づかれぬまま白い吐息と共に宙を舞う、だけのはずだったのに。
「拾ってあげようか?」
「え?」
いつの間にか見知らぬ男が目の前にいた。
ちょっと足を伸ばせば蹴ってしまいそうな距離。
慌てて漕いでいたブランコのスピードを落とし、足を地面につける。
「行くところがないんだったら、家に来なよ」
視界の悪い闇の中で相手の顔はあまりわからなかったけど、
「いいの?」
藁にも縋る心地でいつの間にか俺はその手を取っていた。
*
久々に人間に手を繋いでもらい、新しい宿主の家に連れて帰られる。
知らない人間。もしかしたら怖い人かも。
そう思わないでもなかったが、俺の手をぎゅっと握る体温が、
「どうせ来年には飽きるんだろ」
とやさぐれる心を慰めるから振りほどく気にはなれない。
どういうつもりだ?
見た目だけなら子供な、身元不明な俺を本気で自宅に招き入れる気なのか。
疑いのあまり黙っている俺の態度を意に介さず、道中ずっと男はあれこれ喋り続けた。
「家ここからそんなに離れてないんだよ」
「マンションの最上階だから夜景も綺麗に見えるし」
「一人には広すぎて困っていたんだよね」
明るく優しい声がやたらと耳に馴染むものだから、徐々に警戒心も解けていく。
だからつい、
「そういえば名前なんだっけ?」
聞かれて答えてしまった。
「鬼助」
「キスケ! 可愛いね。俺はね、雪枝っていうの」
前の人間にも、その前の人間にも教えたことのない名前。
数々の家を転々としてきた俺だけど、そういえば誰にも「キスケ」なんて呼ばれたことはない。
いつも「おい」とか「お前」とか。そんなのばっかりだった。
初めて会ったばかりの人間なのに。何十年ぶりかにちゃんと名前を口にしてもらえて、うれしくて。
心臓がドクリ、鳴った気がした。
*
辿り着いたのはいわゆる高層マンションというやつだった。
「本当にここ?」
「早く入ろう。寒いだろう?」
あんぐりと口を開けて驚く俺の背を、雪枝はなんてことないとばかりに優しく押す。
エントランスだけでも前の家より広いかもしれない。
コンセルジュがお辞儀する前を俺だけペコペコしながら通り過ぎ、エレベーターで最上階を目指す。
背が高く、細身でスタイルが良いのはわかっていたけれど、改めて明るい場所で雪枝を見上げると、とんでもない美形で思わず息をのむ。
「ん? どうかした?」
甘いマスクを乗っけた首を雪枝は傾ける。
「えっと、いや、なんでもない」
その顔に迫られると地獄にいる一人前の赤鬼くらい頬が赤くなってしまう。
面食いではないはずなのに。セットされているのに柔らかそうな茶髪も珍しいヘーゼルの瞳も手を伸ばしたくなるほど綺麗で、ついつい見惚れちゃいそうになる。
「俺の顔がお気に召したみたいで?」
「あ、う、うん」
素直に肯定するつもりはなかったのに、迫力に気圧される形で頷くと、
「それはなにより」
彼は美しく微笑んだ。
*
「お風呂入っちゃって」
同じ階には他に誰も住む人はいないらしいだけあって、広すぎるほど広い部屋に上がるなり、雪枝は俺を浴室に放り込んだ。
一日彷徨って薄汚れた姿でこの建物にいること自体、場違い感が半端ないので黙って従った。
良い匂いのする石鹸で全身を洗い、大きなバスタブで足を伸ばす。
前の家の風呂はここの玄関にも満たないサイズだったから、こんなに寛ぐのは久々だ。
万が一にも角のことがバレて大騒ぎになってはまずいので、気軽に銭湯や温泉に行くわけにもいかず長年我慢していたのに。
まさかこんな形で叶っちゃうなんて。
鬼生捨てたもんじゃない。
じっくりお湯に浸かり身体の芯まで温まったところで、ふと思い至る。
「パジャマ、ない……」
何代か前の家主がお情けで買い与えてくれた服は三着しかなく、基本的にそれを使い回しているのだが寝間着には向かず。夜はいつも人間のものを借りていた。
「とりあえず、パンツだけ履いておこう」
どうせ鬼のことを説明しないといけないし、黄色と黒の縞々パンツは鬼のマストアイテム。
これ以上ない組み合わせだ。
ホカホカの湯気とパンツを身に纒い、タオルを引っ提げてバスルームを出る。
長い廊下の中に光の漏れ出る箇所があったから徐に覗いてみると、雪枝がデリバリーと思しき料理を広げているところだった。
そういえば朝から何も食べてないや。
ぐぅっとお腹が鳴りそうになるけれど、その前に俺の気配を察した雪枝がテーブルから顔を上げ駆け寄ってきた。
「ゆっくりできた?」
「うん、お風呂ありがとう」
俺が子供にしか見えないからか、肩に掛けていたタオルで頭の水滴を拭ってくれるけれど、雪枝の指先に角がぶつかると彼の手が止まる。
人間じゃないとわかったら追い出されるかも。
不安もあるけれど言わないわけにはいかない。
「あの、実は俺……鬼なんだ。人間の子供じゃない」
突然の告白に雪枝はパチパチとその目を瞬かせた。
「寿命が長いからこんな姿なだけで、年だってたぶん雪枝より上だし」
彼が何も発さないのを良いことに、一方的に語っていく。
修行中であること。獄卒になりたいこと。あと八十年くらいは人間界で過ごさなければならないこと。
それから、取り憑かれた人間は年に一度の節分で豆を撒くことにより鬼を追い出すことができること。
これを伝えると毎回翌年に退治されてしまうから嫌だけど、教えておかないのは鬼としてのマナー違反。処罰対象となる。
ここまで話し終えても雪枝はまだ固まっていた。さすがに信じられないか。
「嘘じゃない。ほら、ちゃんと角があるだろ?」
彼の手を角まで導き触れさせる。神経は通ってないのに、なぜだかくすぐったいような感覚に襲われた。
「んんっ」
小さく声を上げると、それまで綺麗な顔のまま呆けていた雪枝も気を取り戻す。
そして何を言い出すかと思えば開口一番、
「パンツ姿、可愛いね」
なんて的外れにも程がある。
「俺、料理も掃除もするよ。絶対に雪枝の役に立つ」
「そんなことしなくても、いてくれるだけでいいよ」
これはいけるのでは?
彼の言動が意図するものは正直よくわからないけど、この調子なら受け入れてもらえるかもしれない。
もう宿無しになるのはごめんだ。一年だけでも許されれば後はなし崩し。
今度こそ、そのまま居座ってやる!
「鬼だって知って、嫌じゃないの?」
強い心意気を秘め、あえて健気さを装い上目遣いで確かめれば、
「なんで? むしろラッキーだよ」
返ってきたのは予想以上の答え。でも、
「ラッキーって?」
いったいどういうことだろう。
思わず小首をかしげると雪枝も俺と視線を合わせるように顔を斜めに傾けたかと思うと、瞳の奥を覗き込んできた。
「こんなに可愛い子が家の子になってくれるだけじゃなくて、俺が死ぬまで傍にいてくれるんでしょ」
人間の寿命ギリギリまで一緒にいていいの?
頑張れば雪枝が死ぬ頃には獄卒の採用試験を受験できるようになっているかも。
もう住み処を求めて苦労する必要もなくなるし。
「覚悟はしてたんだけど、誘拐とかって通報されるのはやっぱり厄介だし。されないに越したことないよね。それに小さくたって俺より大人なんだから手だって出して良いんだよね?」
こんなの実質結婚じゃん。
ほっぺたを両手で挟まれて揉まれる。
どうやら雪枝は小さい子が好きみたいだ。
でも、だからと言って誰彼かまわず連れて帰るようなことはしないらしい。
俺のふわふわな髪の毛や細い足、華奢な肩幅とキュートなおしりが可愛すぎたのがいけないんだとか。
とはいえ、本当はお風呂に入れてご飯まで食べさせたら迷子だと交番に差し出す予定だったみたいだけど。
俺が人間じゃなくて鬼だって知ったことで、その必要がなくなったってわけ。
これぞ正に割れ鍋に綴じ蓋ってやつ?
俺はこんなに綺麗で大きな家にいながらにして獄卒に近づけるし、雪枝は俺と命ある限り共に暮らせる。
しかも、美人な雪枝に可愛がられる特典つき。
なにそれ最高じゃん。
「キスケ、逃げたくなった?」
興奮のあまりぼぅっとなる俺に雪枝の顔が迫る。
「ぜんぜん」
心の中にだけで響いたのか、それとも実際に声に出したか。定かでないうちにそのまま雪枝との間に空間がなくなって。
ちゅっ。
唇が重なった。
触れるだけのキスだった。ふにふにと柔らかく気持ちいい。
初めての経験だけど、これが愛情を伝える行為だってことはわかる。
しばらく感触を味わうように唇をくっつけていたけれど、大人しく従っていたらまもなく解放された。
「ふぇ」
離れた弾みで零れた声に不慣れさが滲んで恥ずかしい。
でも、それが雪枝には良いらしい。
「可愛い」
そう囁いたかと思えば、今度は頬におでこにくちづけの雨を注ぎ始めた。
*
雪枝との生活は快適そのもの。
気弱じゃないし、押しには強そうだし、チャラそうな感じがしないでもないが、この好感触なら付け込めるんじゃなかろうかってくらいにしか考えていなかったけど、全て杞憂に終わり、実際はラブラブ新婚の体を成している。
雪枝は相変わらず「何もしなくて良いよ」と言ってくれるけど、俺が食い下がると家事全般を任せてくれるようになった。
なんとなく察していたけれど、雪枝は掃除や洗濯はもちろん料理も苦手で今までハウスキーパーさんを頼んでいたらしい。
でも、これからは俺の仕事。
役割があるってことは「ここにいても良い」って証明みたいで。なんだか誇らしい気分になる。
今までの家主と違って雪枝は俺が何をしても褒めてくれるし、どんなご飯も「おいしい」って残さず食べてくれるから張り合いもある。
それに……
「ほらキスケ、クッキーだよ」
「ん! おいしい」
一日の終わり、夕飯の後片付けまで終わったら彼は俺のことを膝に乗せて餌付けまでしてくれる。
「もしかしてこれ駅前の? すっごく並んだんじゃない?」
「前に気になってるって言っていたから」
ちゃんと俺の話した些細なことまで覚えていてくれて、おまけにこんなご褒美を与えてくれるんだもの。絆されないわけがない。
一緒に暮らし始めてもうじき一年が経とうとしているけど、俺たちの仲は深まる一方。
追い出される気配は微塵もない。
新進気鋭な若手実業家である彼は多忙すぎて家を空けることも少なくないけど、夜にはきちんと帰ってきて甘やかしてくれるから、俺はちっとも寂しくない。
しかも休みの日にはデートだってしてくれるんだ。遊園地や水族館に行ったのも映画を見たのも全部初めてで、毎回俺がはしゃいでしまうから迷子にならないようにって手まで繋ぐ。
こんなに満ち足りていて良いのかってくらい毎日が楽しい。
そういえばこの間スーパーでラブラブ買い出しデートをしていたところ。うっかり遭遇した元家主に、
「俺が悪かった!帰ってきてくれ」
と懇願されたが、あれはどうなったんだろうか?
俺は無視してやったけど、雪枝の方は腹が立っちゃったらしい。
「お灸を据えてやる」
とか息巻いていたので、もしかしたら海にでも沈められていたりして。まさかね。
現金でひどいやつかもだけど、俺はもう幸せだもん。あいつがどうなったって関係ないし。
今さら虫がいいんだよ、ばーか!
・今年用に書いた続編はR18なので一旦この短編は完結設定にして、別作品として掲載しています(シリーズ機能がないようなのでわかりにくくなるかもしれませんがご了承ください)
↓
https://www.alphapolis.co.jp/novel/299552023/909937397
「鬼は外! 福は内!」
もうじき二月三日、年に一度の節分が今年もやってくる。
節分なんて大嫌いだ。
こんな行事のせいで毎年のように居場所を失うなんて。
俺たち鬼は地獄で生まれ、乳離れするとすぐに冥界から地上に送られる。
そこで人間の家に憑りついて修行をするのが習わしだ。
人間よりも寿命が長く、ゆっくり年をとるものだから怪しまれもするけれど、俺たちはそうやって立派な鬼になっていく。
かく言う俺、鬼助も修行中の身、なのだけれど。
昨年取り憑いたのはマンションの一室、そこの家主に追い出されるのも時間の問題だった。
「明日は豆まきをするからな」
「そんなあ」
かねてから幾度となく言われてきたことだが、いざ最終通告を受けると、いよいよ宿無しが現実味を帯びてくる。
やっとの思いで居候に漕ぎつけたのに、また一年ちょうどで祓われるらしい。
俺たち鬼だって何も問答無用で人間に寄生しているわけじゃないから、当然相手の意思によって共に暮らすか否かの判断を下される。
とはいえ、一応宿主となる人間には身分を明かし契約を交わしているので明日からいきなり「出ていけ」とはならない。
ただし年に一度の節分の日だけは違う。
そこで豆をぶつけられ「鬼は外」と言われてしまえば契約の拘束力は失われ、鬼は宿無しとなってしまうのだ。
それを回避すべく日夜人間の機嫌を取り、尽くしてきたはず。それなのに。
「そもそも最初から嫌だったんだ。こんな小鬼に居つかれるなんて。これじゃ彼女も呼べやしないし」
「そこをなんとか! 情けをください!」
土下座せんばかりの勢いで頼み込むも、相手は迷惑そうにするだけ。
俺だって本当はこんなことしたくもないんだけど。仕方がないじゃん。
一端の鬼ならまだしも俺はまだ子供。
大人パンツはまだ許されていないから黄色と黒の縞々の下着はピチッとしたブリーフだし、二本の角だって髪の毛で隠れちゃうくらい小さいんだもの。
一人じゃ到底生きられない。
服を着て普通にしていれば人間の少年に擬態するのも簡単だから楽と言えば楽なんだけど、やっぱり俺だって鬼だ。
鬼は鬼らしく生きたいし、今後のキャリアのことを考えるとやっぱり家を失うのはきつい。
あと八十年は修行しないと獄卒の試験を受けるどころか、地獄にだって帰れないわけだし。
それなのに、鬼よりも冷たい人間は、
「とにかくうちはもう無理だから」
なんて吐き捨てる。
取り憑く島もないってか。
なんだよ! 俺だってこの一年何にもしなかったわけじゃないだろ。
社畜とやらをしている人間を労って、朝は早起きして弁当を作り、朝飯を用意、それから起こしてやって、仕事に送り出す。昼は掃除をしてから洗濯と買い出し。夜は夜で人間が帰ってくる前に夕飯の支度と風呂まで沸かしてやっていた!
こんなに出来る鬼なんて他にいない! はず!
それなのに「出ていけ」だなんて。あんまりだ。
しくしく泣く俺を人間は一瞥し、
「とにかく、明日までに荷物を纏めとけ」
すっかり鬼専用スペースとなったクローゼットに俺を投げ入れた。
*
「ちくしょう! なんて冷血漢なんだ!」
拾ってくれた時はあんなに優しかったのに。これじゃ詐欺じゃないか。
リュックに必要なものを詰めながら悪態をつく。
「最初に連れてきたのアイツなのに」
なんでこうなっちゃったんだろう。
もうかれこれ二十年以上人間界でお世話になっているが、どの家でも長続きしたことがない。
若いやつらはみんな「嫁が~」「恋人が~」と言ってのけ、年老いたやつらは早々に死んでいった。
本当に男運がない。
「次は女の家でもいいんだけど、でもなあ……」
兄さんたちが修行していた頃と比べて昨今は女性の危機意識が高くなってきている上にセキュリティが固すぎる。
昔だと独り身の女なんて疎外されているのが大半だったから用心棒代わりと言って取り込むのも容易だったみたいだけど、近頃はそうもいかない。
戸籍がないからまともな職場では働けないし。山に籠っていても修行扱いにはならないし。
結局、家事スキルを活かして男に養ってもらうのが一番なんだよなあ。
「次は長く続きそうなやつ、気弱で孤独死しそうなタイプを狙うか」
密かにそう決意し、俺は残りの持ち物を鞄に入れていった。
*
そして、いよいよ節分当日。
途中で気が変わらないかなと期待もしていたが、宣告通り人間は俺を祓うつもりらしい。
「ほら、豆だぞ」
「うぅ……わかってるよ」
お別れの名残惜しさすら味わう余韻めいたものもなく、人間は容赦なく豆をちらつかせてくる。
こいつには人の心ってやつがないのか。
俺でも世話になった礼くらいしてやろうと思っていたのに。せめて和やかに「今までありがとう」ってさせてくれよ。
そんなに厄介だったのかな。
確かに座敷童子なんかと違って家に幸運をもたらす効能とかないけど、ちょっとは役に立っていたつもり。
最初の頃は笑顔で家事を喜んでくれていたはずなのに、最後がこれってなんか悲しい。
だいたい酔っ払った勢いで連れてきたのもお前だろう。
きまぐれで猫を拾って、いらなくなったからってまた捨てるのと同じようなことだぞ!
心の中でそう文句を沸き立たせている間に、やつはさっさと、
「鬼は外!」
俺を本当に追い出してしまった。
*
やばい、今日野宿かも。まじで行くところがない。
いつもの気丈さは鳴りを潜め、あまりの心細さから下を向く。
トボトボと歩いても人間が追いかけてくる気配はない。
まさかこんなにあっさり放逐されちゃうなんて。あまりの呆気なさにしおらしくもなるってものだ。
一緒に歩いたスーパーへの道。この角を曲がればクリーニング屋さんがあるって教えてくれたのも彼だった。
居候し始めたばかりの頃は手を繋いでワイシャツの受け取りに連れて行ってくれていたんだよな。
でも、黒目黒髪の彼と黄色い瞳と栗色の癖毛を持つ俺じゃ似ても似つかないせいで、オーナーから疑惑の目が向けられて。
慌てて「腹違いの兄弟なんです」とか誤魔化していたっけ。
その後も会う人、会う人に訝しがられて。そのうち存在も隠されるようになっちゃって。
「俺ってそんなに恥ずかしい?」
文句を言ったこともあった。
それでも、家の中だけでも穏やかならそれで良かったのに。
いつからだろう、気がついた頃にはギスギスするようになってしまっていた。
こんな俺に次の人なんて現れるのかな。現れたとことて上手くいくビジョンが見えない。
また面倒がられて、捨てられていくんだ。
思い出の道を辿るのが辛くて、クリーニング屋さんとは逆の方をとる。
すでに日は暮れはじめ、子供たちが駆けてすれ違っていく。
その影がうつむき様にも視界の端に入ってくるから、アスファルトの小石を蹴って誤魔化す。
あの子には帰る家があるんだ。
そんな当たり前のことを思ったら泣けてきた。
弱気になるのは腹が減っているからだと自分に言い聞かせるも、持ってきた荷物の中には食料もなければ金もない。
「これが百年前ならなあ」
通貨だけじゃなくて等価交換もまだ効いたらしいのに。
住み込みで働くのだって場所によっては可能だったというのだから、時の流れは残酷なものだ。
「とりあえず胃に何か入れないと」
立春最中の薄暗い寒空に苛まれながら、ただ目的もなく進んでいった。
*
行き交った子供たちが来た方にあった公園のブランコに意味もなく揺られていた。
澄んだ夜空にはソバカスみたいに星が散っていて、町の街頭はチカチカと点滅している。
公園脇に人通りはすでになく、みな帰路に着いたのだと推測するのも容易い。
この時間から取り憑ける家を探すのはさすがに厳しそう。
水飲み場もあるし、今夜の寝床はあそこにある洞穴みたいな遊具の中かもな。
「こんなの絶対寒いじゃん」
でも、贅沢は言っていられない。風を防げるだけマシだ。
寝るまでにはまだ時間もあるし、手持ち無沙汰でどうしようもなくて、つい暗いことばかり考えてしまう。
「はぁ、明日からどうしよう」
早急に次を決めないと、来年の節分まで家無し鬼になる。
そうしたら、獄卒までの道はまた一歩遠ざかるし、エアコンや電子レンジといった文明の利器に慣れきった今の俺に山で身を隠して暮らすのは難しいだろう。
「誰か拾ってくれねぇかな」
ぼやく呟きは誰にも気づかれぬまま白い吐息と共に宙を舞う、だけのはずだったのに。
「拾ってあげようか?」
「え?」
いつの間にか見知らぬ男が目の前にいた。
ちょっと足を伸ばせば蹴ってしまいそうな距離。
慌てて漕いでいたブランコのスピードを落とし、足を地面につける。
「行くところがないんだったら、家に来なよ」
視界の悪い闇の中で相手の顔はあまりわからなかったけど、
「いいの?」
藁にも縋る心地でいつの間にか俺はその手を取っていた。
*
久々に人間に手を繋いでもらい、新しい宿主の家に連れて帰られる。
知らない人間。もしかしたら怖い人かも。
そう思わないでもなかったが、俺の手をぎゅっと握る体温が、
「どうせ来年には飽きるんだろ」
とやさぐれる心を慰めるから振りほどく気にはなれない。
どういうつもりだ?
見た目だけなら子供な、身元不明な俺を本気で自宅に招き入れる気なのか。
疑いのあまり黙っている俺の態度を意に介さず、道中ずっと男はあれこれ喋り続けた。
「家ここからそんなに離れてないんだよ」
「マンションの最上階だから夜景も綺麗に見えるし」
「一人には広すぎて困っていたんだよね」
明るく優しい声がやたらと耳に馴染むものだから、徐々に警戒心も解けていく。
だからつい、
「そういえば名前なんだっけ?」
聞かれて答えてしまった。
「鬼助」
「キスケ! 可愛いね。俺はね、雪枝っていうの」
前の人間にも、その前の人間にも教えたことのない名前。
数々の家を転々としてきた俺だけど、そういえば誰にも「キスケ」なんて呼ばれたことはない。
いつも「おい」とか「お前」とか。そんなのばっかりだった。
初めて会ったばかりの人間なのに。何十年ぶりかにちゃんと名前を口にしてもらえて、うれしくて。
心臓がドクリ、鳴った気がした。
*
辿り着いたのはいわゆる高層マンションというやつだった。
「本当にここ?」
「早く入ろう。寒いだろう?」
あんぐりと口を開けて驚く俺の背を、雪枝はなんてことないとばかりに優しく押す。
エントランスだけでも前の家より広いかもしれない。
コンセルジュがお辞儀する前を俺だけペコペコしながら通り過ぎ、エレベーターで最上階を目指す。
背が高く、細身でスタイルが良いのはわかっていたけれど、改めて明るい場所で雪枝を見上げると、とんでもない美形で思わず息をのむ。
「ん? どうかした?」
甘いマスクを乗っけた首を雪枝は傾ける。
「えっと、いや、なんでもない」
その顔に迫られると地獄にいる一人前の赤鬼くらい頬が赤くなってしまう。
面食いではないはずなのに。セットされているのに柔らかそうな茶髪も珍しいヘーゼルの瞳も手を伸ばしたくなるほど綺麗で、ついつい見惚れちゃいそうになる。
「俺の顔がお気に召したみたいで?」
「あ、う、うん」
素直に肯定するつもりはなかったのに、迫力に気圧される形で頷くと、
「それはなにより」
彼は美しく微笑んだ。
*
「お風呂入っちゃって」
同じ階には他に誰も住む人はいないらしいだけあって、広すぎるほど広い部屋に上がるなり、雪枝は俺を浴室に放り込んだ。
一日彷徨って薄汚れた姿でこの建物にいること自体、場違い感が半端ないので黙って従った。
良い匂いのする石鹸で全身を洗い、大きなバスタブで足を伸ばす。
前の家の風呂はここの玄関にも満たないサイズだったから、こんなに寛ぐのは久々だ。
万が一にも角のことがバレて大騒ぎになってはまずいので、気軽に銭湯や温泉に行くわけにもいかず長年我慢していたのに。
まさかこんな形で叶っちゃうなんて。
鬼生捨てたもんじゃない。
じっくりお湯に浸かり身体の芯まで温まったところで、ふと思い至る。
「パジャマ、ない……」
何代か前の家主がお情けで買い与えてくれた服は三着しかなく、基本的にそれを使い回しているのだが寝間着には向かず。夜はいつも人間のものを借りていた。
「とりあえず、パンツだけ履いておこう」
どうせ鬼のことを説明しないといけないし、黄色と黒の縞々パンツは鬼のマストアイテム。
これ以上ない組み合わせだ。
ホカホカの湯気とパンツを身に纒い、タオルを引っ提げてバスルームを出る。
長い廊下の中に光の漏れ出る箇所があったから徐に覗いてみると、雪枝がデリバリーと思しき料理を広げているところだった。
そういえば朝から何も食べてないや。
ぐぅっとお腹が鳴りそうになるけれど、その前に俺の気配を察した雪枝がテーブルから顔を上げ駆け寄ってきた。
「ゆっくりできた?」
「うん、お風呂ありがとう」
俺が子供にしか見えないからか、肩に掛けていたタオルで頭の水滴を拭ってくれるけれど、雪枝の指先に角がぶつかると彼の手が止まる。
人間じゃないとわかったら追い出されるかも。
不安もあるけれど言わないわけにはいかない。
「あの、実は俺……鬼なんだ。人間の子供じゃない」
突然の告白に雪枝はパチパチとその目を瞬かせた。
「寿命が長いからこんな姿なだけで、年だってたぶん雪枝より上だし」
彼が何も発さないのを良いことに、一方的に語っていく。
修行中であること。獄卒になりたいこと。あと八十年くらいは人間界で過ごさなければならないこと。
それから、取り憑かれた人間は年に一度の節分で豆を撒くことにより鬼を追い出すことができること。
これを伝えると毎回翌年に退治されてしまうから嫌だけど、教えておかないのは鬼としてのマナー違反。処罰対象となる。
ここまで話し終えても雪枝はまだ固まっていた。さすがに信じられないか。
「嘘じゃない。ほら、ちゃんと角があるだろ?」
彼の手を角まで導き触れさせる。神経は通ってないのに、なぜだかくすぐったいような感覚に襲われた。
「んんっ」
小さく声を上げると、それまで綺麗な顔のまま呆けていた雪枝も気を取り戻す。
そして何を言い出すかと思えば開口一番、
「パンツ姿、可愛いね」
なんて的外れにも程がある。
「俺、料理も掃除もするよ。絶対に雪枝の役に立つ」
「そんなことしなくても、いてくれるだけでいいよ」
これはいけるのでは?
彼の言動が意図するものは正直よくわからないけど、この調子なら受け入れてもらえるかもしれない。
もう宿無しになるのはごめんだ。一年だけでも許されれば後はなし崩し。
今度こそ、そのまま居座ってやる!
「鬼だって知って、嫌じゃないの?」
強い心意気を秘め、あえて健気さを装い上目遣いで確かめれば、
「なんで? むしろラッキーだよ」
返ってきたのは予想以上の答え。でも、
「ラッキーって?」
いったいどういうことだろう。
思わず小首をかしげると雪枝も俺と視線を合わせるように顔を斜めに傾けたかと思うと、瞳の奥を覗き込んできた。
「こんなに可愛い子が家の子になってくれるだけじゃなくて、俺が死ぬまで傍にいてくれるんでしょ」
人間の寿命ギリギリまで一緒にいていいの?
頑張れば雪枝が死ぬ頃には獄卒の採用試験を受験できるようになっているかも。
もう住み処を求めて苦労する必要もなくなるし。
「覚悟はしてたんだけど、誘拐とかって通報されるのはやっぱり厄介だし。されないに越したことないよね。それに小さくたって俺より大人なんだから手だって出して良いんだよね?」
こんなの実質結婚じゃん。
ほっぺたを両手で挟まれて揉まれる。
どうやら雪枝は小さい子が好きみたいだ。
でも、だからと言って誰彼かまわず連れて帰るようなことはしないらしい。
俺のふわふわな髪の毛や細い足、華奢な肩幅とキュートなおしりが可愛すぎたのがいけないんだとか。
とはいえ、本当はお風呂に入れてご飯まで食べさせたら迷子だと交番に差し出す予定だったみたいだけど。
俺が人間じゃなくて鬼だって知ったことで、その必要がなくなったってわけ。
これぞ正に割れ鍋に綴じ蓋ってやつ?
俺はこんなに綺麗で大きな家にいながらにして獄卒に近づけるし、雪枝は俺と命ある限り共に暮らせる。
しかも、美人な雪枝に可愛がられる特典つき。
なにそれ最高じゃん。
「キスケ、逃げたくなった?」
興奮のあまりぼぅっとなる俺に雪枝の顔が迫る。
「ぜんぜん」
心の中にだけで響いたのか、それとも実際に声に出したか。定かでないうちにそのまま雪枝との間に空間がなくなって。
ちゅっ。
唇が重なった。
触れるだけのキスだった。ふにふにと柔らかく気持ちいい。
初めての経験だけど、これが愛情を伝える行為だってことはわかる。
しばらく感触を味わうように唇をくっつけていたけれど、大人しく従っていたらまもなく解放された。
「ふぇ」
離れた弾みで零れた声に不慣れさが滲んで恥ずかしい。
でも、それが雪枝には良いらしい。
「可愛い」
そう囁いたかと思えば、今度は頬におでこにくちづけの雨を注ぎ始めた。
*
雪枝との生活は快適そのもの。
気弱じゃないし、押しには強そうだし、チャラそうな感じがしないでもないが、この好感触なら付け込めるんじゃなかろうかってくらいにしか考えていなかったけど、全て杞憂に終わり、実際はラブラブ新婚の体を成している。
雪枝は相変わらず「何もしなくて良いよ」と言ってくれるけど、俺が食い下がると家事全般を任せてくれるようになった。
なんとなく察していたけれど、雪枝は掃除や洗濯はもちろん料理も苦手で今までハウスキーパーさんを頼んでいたらしい。
でも、これからは俺の仕事。
役割があるってことは「ここにいても良い」って証明みたいで。なんだか誇らしい気分になる。
今までの家主と違って雪枝は俺が何をしても褒めてくれるし、どんなご飯も「おいしい」って残さず食べてくれるから張り合いもある。
それに……
「ほらキスケ、クッキーだよ」
「ん! おいしい」
一日の終わり、夕飯の後片付けまで終わったら彼は俺のことを膝に乗せて餌付けまでしてくれる。
「もしかしてこれ駅前の? すっごく並んだんじゃない?」
「前に気になってるって言っていたから」
ちゃんと俺の話した些細なことまで覚えていてくれて、おまけにこんなご褒美を与えてくれるんだもの。絆されないわけがない。
一緒に暮らし始めてもうじき一年が経とうとしているけど、俺たちの仲は深まる一方。
追い出される気配は微塵もない。
新進気鋭な若手実業家である彼は多忙すぎて家を空けることも少なくないけど、夜にはきちんと帰ってきて甘やかしてくれるから、俺はちっとも寂しくない。
しかも休みの日にはデートだってしてくれるんだ。遊園地や水族館に行ったのも映画を見たのも全部初めてで、毎回俺がはしゃいでしまうから迷子にならないようにって手まで繋ぐ。
こんなに満ち足りていて良いのかってくらい毎日が楽しい。
そういえばこの間スーパーでラブラブ買い出しデートをしていたところ。うっかり遭遇した元家主に、
「俺が悪かった!帰ってきてくれ」
と懇願されたが、あれはどうなったんだろうか?
俺は無視してやったけど、雪枝の方は腹が立っちゃったらしい。
「お灸を据えてやる」
とか息巻いていたので、もしかしたら海にでも沈められていたりして。まさかね。
現金でひどいやつかもだけど、俺はもう幸せだもん。あいつがどうなったって関係ないし。
今さら虫がいいんだよ、ばーか!
・今年用に書いた続編はR18なので一旦この短編は完結設定にして、別作品として掲載しています(シリーズ機能がないようなのでわかりにくくなるかもしれませんがご了承ください)
↓
https://www.alphapolis.co.jp/novel/299552023/909937397
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