ぽちゃん

ぽちゃん

ぽちゃん、ぽちゃん、ぽったん

夜の静寂に、ただ一つの音が重く響いていた。

ぽちゃん、ぽちゃん、ぽったん……ぽちゃん。

井戸の底から聞こえる規則正しい水音。
だが、今夜は風もなく、雨も降っておらん。
誰が、なぜこの水面を揺らすというのか。

幼い頃、婆様がいつも言っておった。
「夜中に井戸を覗くな。あれはお前を呼ぶもんじゃ」
その言葉が、今、胸の奥でくすぶっておる。

けれど、気になって、気になって、眠れぬ夜。
わしは、恐る恐る井戸へと足を運んだ。

夜風はひんやりと肌を撫で、砂利を踏む足音すらも、わしの心臓の鼓動に合わせるように感じられた。
そして、あの音は、ますます大きく、そして近づいてくる――

ぽちゃん、ぽちゃん、ぽったん……ぽ……

足を止め、わしは立ち尽くした。
耳を澄ませると、あの音は、まるでわしの足音に寄り添うかのように変化している。
「……誰かおるのか？」と、わずかな声を漏らすも、答えは無い。ただ、音だけが返ってくる。

ゆっくりと、わしは古びた井戸の縁へ手を伸ばす。
指先に伝わる冷たさは、さながら誰かの触れた形跡のよう。
それは、わしの孤独な過去――失われた日々の記憶を呼び覚ますかのようで、胸の奥に不思議な痛みを伴った。

そして、わしは水面を覗き込んだ。
そこには、ぼんやりとした自分の顔が映っておった。
だが、ふと気づく。もうひとつ、薄暗い影が、わしの隣に佇んでいるのじゃ。

その影は、無表情でありながら、何かを訴えるようにじっとわしを見据えておった。
心臓が早鐘を打つ。
その瞬間、足元が微かに揺らぎ、まるで地面そのものがわしを拒むかのような感覚に襲われた。

ぽちゃん。

音が一瞬途切れ、次の瞬間、背後から低く、悍ましい囁きが……
「こちらぁにこぉい」
その声は、ただの呼びかけではなく、どこか歪み、呻くような冷たさを湛えて、わしの耳元に這い寄った。

わしは、もうどうすることもできぬまま、井戸の縁にしがみついた。
その時、急に水面がわずかに波立ち、
ぽったん、ぽちゃん……
と音の調子が変わる。

一瞬、景色がぐらりと揺れた。

視界がひっくり返り――

ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん。

夜の静寂に、新しい音が加わった。

水の底から、また誰かがこちらを見上げている。

それは、井戸の上を覗き込むわしと、ぴたりと重なっておる。