逆走するメロス

ただのA

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逆走したメロス

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これまでのあらすじ
 ~羊飼いの青年メロスは、用事でシラクスの町を訪れるが、そこで王が人を信じられず、罪の有無にかかわらず処刑を繰り返す「邪智暴虐」の支配をしていると知り、激しい憤りを覚える。王を討とうとして捕らえられ、処刑を命じられる。
 メロスは、村にいる妹の結婚式を見届け、身支度を整えてから戻るため、三日間の猶予を王に願い出る。ただし条件として、親友セリヌンティウスを人質に差し出し、期限までに戻らなければ親友が処刑されることになる。
 猶予を得たメロスは急いで村へ帰り、妹に事情を告げぬまま結婚式の準備を進めさせ、妹の婚礼を無事に挙げる。そして式を見届けたのち、約束どおり城へ戻るため、再び走り出す。~


メロスは、妹の結婚式を見届けた。
 それで、すべては済んだ。

 無理を言った。
 妹にも、婿殿にも。
 理由は語らなかった。ただ、急いでほしいと頼んだだけである。
 二人は黙ってうなずき、式を早めてくれた。

 妹は幸福そうであった。
 それを見て、メロスの胸に残っていたものは消えた。

 未練はない。
 後悔もない。

 残るのは、城へ行くという約束だけであった。

 親友は、今も磔にされている。
 太陽の下で、乾いた喉で、なおもメロスを信じている。

 助けねばならぬ。
 それは誓いであった。

 だが、分かっていた。
 行けば、自分は死ぬ。

 恐怖がないはずがない。
 自ら進んで死へ向かうのだ。
 それを恐れぬ者がいるなら、それは人ではない。

 それでも、行かなければならない。
 誠とは、そういうものであった。

 メロスは走った。
走ることでしか、考えを振り払えなかった。
その時である。
向こうから、一人の女が走ってきた。
 軽やかに、風のように走る女であった。
 ふと見て、気づいた。

 髪は、前にだけ整えられている。
 後ろには、髪がない。
だというのにその姿は、あまりにも神々しかった。
 飾りもなく、威光を放つでもない。
 ただ、見るもの全てに幸福と安堵を与えるかのようであった。

 昔から、語り継がれているある言い伝えを思い出す。

 幸運の女神を捕まえた者には、
 比類なき幸運が訪れる。そしてその女神には前髪だけしかなく、後ろ髪がないと。
捕まえたらば、
 飢えた者は満たされ、
 囚われた者は解かれ、
 滅びかけた国さえ、立ち直るという。

 ――あれは、幸運の女神ではないか。

 メロスは、そう判断した。

 城へ行けば、親友は助かり、自分は死ぬ。
それは、よい。
だが、その後は。
邪智暴虐の王は笑うだけだ。
また別の罪をでっち上げ、
また誰かを縛り、また別の命を、見せしめに奪う。王は生き、恐怖の政治は続く。
 今日も、明日も、誰かが処刑される。
それは止まらない。
親友だって、今回を逃れても、
次はないとは言い切れぬ。
何せあの王だ。国全体が疑心暗鬼に陥るに違いない。

 それならば。

 もし、幸運がここにあるのなら。
 もし、すべてを変える可能性が、
 今この瞬間、目の前を走っているのなら。

 賭ける価値は、あるのではないか。

 メロスは、進路を変えた。

 人の流れに逆らい、
 刻限に逆らい、
 己の誠にすら逆らって。
何もかもを投げ打ってでもなさねばならぬことがあるのだと信じ、
 幸運の女神を追って、
 メロスは、逆走した。

 女神はただ黙々と走り続ける。
 近づいたかと思えば、離れる。
 それでも、メロスは追った。

 足はもつれ、
 息は荒れ、
 視界は暗んだ。

 それでも、やめなかった。

 やがて、約束の時は過ぎた。

 城では、王が笑った。
 「ほらみたことか。やはり裏切った」
 「人間とは、所詮この程度のものよ」

 命令が下り、
 セリヌンティウスは、処刑された。

 町民は信じていたメロスに裏切られた。
 きっといくつもの困難をも乗り越え、死ぬために再びここに戻ってくるだろうと思っていたあの男は、
誠を語った男は、
 誠を捨てたのだ。

 侮蔑と軽蔑が、町を満たした。

 一方そのころ、メロスは、ついに女神に追いついた。

 その瞬間、身体は崩れ落ちた。
 人の子であるメロスが神に追いつこうと死力を尽くして走っていたから
 満身創痍であった。
 
 血にまみれ、泥にまみれ、
 衣は裂け、ほとんど裸同然であった。

 やがて、メロスは町へ戻った。

 町民は、彼を見た。
 親友を見捨て、
 女を追いかけ回していた男を。

 怒号が上がった。
 裏切り者。
 卑怯者。

 石が投げられた。
 一つ、また一つ。

 メロスは逃げなかった。
 弁明もしなかった。

 石は肉を打ち、
 血が噴き、流れ、
 全身を伝って、衣も肌も、赤く染めていった。

 卑怯者は、赤面した。

 やがて倒れ、
 二度と動かなかった。

 その後である。

 畑は、どこもかしこも豊作となった。
 天災は起こらず、
 王は自らの過ちを悔い、
 捕らえていた人々を解放し始めた。

 王国は、明るく変わっていった。

 だが、なぜそうなったのか、
 誰も知らない。
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