ヤクザのせいで結婚できない!

山吹

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35. いたずらとか応急処置とか、雨の匂いとか

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 朱虎は有無を言わさずベッドに上がってきた。あたしは慌てて体をずらそうとした。

「ちょっと待って、今場所を……」
「大丈夫です」

 身を起こしかけたところを素早く捕まえられ、仰向けにされる。
 その上から、大きな身体があたしをまたぐようにのしかかってきた。

「えっ!? ち、ちょっ!?」

 突然の状況に頭が一気にパニックになる。
 これ、いわゆる「押し倒された」状態なのでは?

「……あ、朱虎? これ、なに……」
「ご自分の言葉に責任とってもらうだけですよ」

 馬乗りになった朱虎の顔はシルエットに沈んで、表情が分からない。
 唐突に胸がざわめいた。頬がかっと熱くなるのが分かる。
 ウソ。まさか、この状況って。
 どうしよう。だって、こんなつもりじゃなくて、でも――。

「あ、あの」

 泳ぐように伸ばした両手は簡単に捕まえられて、まとめて片手で頭の上に拘束される。
 ますます身動きが取れなくなって、鼓動だけがどくどくとうるさい。
 輪郭しか分からない顔がぐっと迫って来て、あたしは思わず息をつめた。

「待って! 心の準備が……って、冷たっ!?」

 不意打ちで首筋に冷たい手を押し当てられて、心臓が今までとは別の意味で飛び跳ねた。

「ちょっ、朱虎!? ひゃあっ、冷たいってば!?」
「どうしたんですか、あっためてくれるんでしょう?」

 ぞわわわっ、と背筋に悪寒が走る。いったん離れた手が移動して、ひたりとわき腹に当てられた。

「……覚悟はいいですね?」

 妙に楽しそうな声音に、あたしは朱虎の恐るべき意図を悟った。

「ちょ、ちょっとまっ……キャアアアッ!? く、くすぐった、アハハハハハッ!」

 朱虎の冷たい手が別の生き物みたいに脇腹をくすぐってくる。冷たさとくすぐったさの波状攻撃に襲われて、あたしは身もだえた。。

「ばか、ダメ……アハハハッ、そこほんとに弱いの!」
「そうですか。じゃ、この辺で」
「ひいっ!? や、やだ、そこもダメだって、アハハハハッ、ひどっ、やめてええええっ!」

 こいつ、あたしの弱いところを的確に把握してる!
 朱虎は容赦なく冷たい手であたしを攻めまくった。必死にもがいたけど、両腕を拘束する手はピクリともせず、お腹のあたりに腰を落とされているから全く動けない。

「や、やめ……アハハハハッ、はあっ、はあっ、やだあ……」
「俺の言うことを少しは聞いてくれますか?」
「き、聞く、聞きます、だから……許してえええ」

 ヘロヘロになって懇願すると、ようやく朱虎の手が止まった。両腕の拘束も解けたけど、朱虎は相変わらずあたしの上にまたがったままだ。

「ありがとうございます、おかげですっかりあったまりました。ほら」

 ひたりと頬に当てられた大きな両手は確かにあったかい。
 ふとアルコール臭が鼻をついて、あたしは涙目で朱虎を睨んだ。

「朱虎……酔ってるでしょ」
「まさか。これしきで酔うなんざ男がすたるってもんです」
「それおじいちゃんがベロベロの時よく言う台詞じゃん!」
「そんなことより何ですか、これは」

 朱虎はうにうに、とあたしのほっぺたをつまんで引っ張った。

「ふわっ、な、なに?」
「最近間食が過ぎるんじゃないですか? 丸くなってきてますよ」
「ふぐうっ」
「それに夜更かしもしてるでしょう。今日、熱中症で倒れたそうですが、朝飯はちゃんと食べないとだめですよ。外に出るときは帽子をかぶるようにとあれほど言っているのに……日焼けしていつも後悔してるじゃないですか、いい加減学んでください」
「ううう……」

 ほっぺたを弄ばれながらの長い説教にムカつきつつも、あたしは大人しく耐えた。くすぐり攻撃はもう勘弁してほしい。

「とにかく、ご自分のことはご自分で何とか出来るようにしないと。……獅子神さんのところへ嫁に行ったら、俺はもういないんですからね」
「ふえ!?」
「何驚いてるんですか。当たり前でしょう」

 確かにそうだ。朱虎は雲竜組で、獅子神さんは東雲会なのだから。
 だけど、言われるまでそんなこと考えもしなかった。
 朱虎が傍にいない? これから、ずっと?

「ま、お嬢にとっては小うるさい相手がいなくなるのはせいせいするでしょうが……」
「そんなことない!」

 思わず飛び出た声に自分でもびっくりした。ほっぺたをうにうにしていた朱虎の手が止まる。

「やだ、あたし、……朱虎がいないと」
「……そりゃお嬢は、俺がいないと身の回りのこと何も出来ないですから」
「そうじゃなくて!」

 風間くんからのメッセージが頭をよぎった。

《志麻センパイはもうちっと朱虎サンに素直になった方が良いぜ。そのうち愛想尽かされちまうかも、もう面倒見きれませんって》

 不安な気持ちがどっと押し寄せてきて、胸がざわめいた。

「朱虎が傍にいないなんて……そんなのダメ。……嫌だよ」
「お嬢?」
「朱虎は? もうあたしの傍にいなくて良くなったら、せいせいするの?」

 こんなに近くにいるのに、あたしを見下ろしている顔がどんな表情を浮かべているのか見えない。

「……ほんとはあたしのこと、嫌い?」

 朱虎の指がぴくりと強張った瞬間――不意に、窓の外がカッ! と眩く光った。
 間を置かず、空気が張り裂けるようなものすごい落雷の音が轟いた。

「きゃあっ!!」
「あっ」

 反射的に体が跳ねる。

「び、びっくりした……あ、痛っ」

 頬にピリッとした痛みが走った。触ってみると指がぬるりと滑る。
 どうやら、飛び跳ねた拍子に朱虎の爪が当たってひっかいたらしい。

「見せてください」

 朱虎が焦ったようにあたしの顎を掴んで上向かせた。

「深くはないようですが……血が」

 あたしが反応する間もなく、朱虎は顔を寄せるとあたしの頬に唇を押し当てた。

「ひゃっ!?」

 生温かな湿ったものが傷口をなぞり、ちりちりとした痛みに背筋が震える。

「な、ちょっ」
「動かないで」

 二度、三度と舌が傷の上を走る。その感触に頭がくらくらして、なにがなんだかわからなくなってきた。
 むずむずして、叫び出しそうになるのを必死にこらえたけど耐えられない。
 もうダメ……!

「止まりました」

 不意に朱虎が顔を上げて、あたしはいつの間にか止めてしまっていた息を吐いた。

「あとは残らないと思いますが……」
「あ、あ、朱虎」
「はい?」
「い……今のなに!? ほっぺに、き、キ」
「何って、応急処置ですが」

 朱虎の口調はこの上なくサラリとしたものだった。

「お、応急処置?」
「ええ。暗くてティッシュがとれなかったので」
「……あ、そう」

 何だか全身の力が抜けて、あたしはぐったりした。動揺しまくって馬鹿みたいだ。
 不意に朱虎が身を起こし、ベッドを降りた。

「あ」
「どこにも行きませんよ。少し詰めて」

 改めて隣に滑り込んできた朱虎が、あたしの身体を抱き寄せた。
 遠くで雷がゴロゴロ鳴っている。

「雷がおさまるまでこうしてますから」
「……うん」

 太い腕を枕にすると、じわじわと安心感が胸を暖かく溶かしていく。
 ほっとすると、なんだか急に眠たくなってきた。

「すみません、お嬢」
「え?」
「ふざけ過ぎました。俺のせいで……顔に傷が」

 頬を指が撫でる感触がした。

「すみません、本当に……」

 繰り返す朱虎の声は小さくて、何だかしょんぼりしてるみたいだ。
 あたしは緩く首を横に振った。

「雷のせいだよ……急になるんだもん」

 頬を撫でる手のひらがあったかい。

「お嬢」
「……んん?」
「眠いんですか」
「ん……」
「傍にいますから、眠っちまいなさい」

 頬を包んでいた手が頭に移動して、優しく撫でる。
 ほとんど眠りに落ちかけていた時、ふと朱虎が呟くように言った……気がした。

「……嫌いなわけないでしょう」

 ほんと? 

 と聞き返したつもりだったけど、眠すぎて声は全然出なかった。

「俺の大事なものは、オヤジとあんただけです」

 溜息みたいな言葉はなんだか酷く寂しそうで、胸がぎゅっとなった。
 朱虎の胸に額をこすりつける。
 シャツ越しの胸は微かに雨の匂いがした。

「あたしも朱虎が大事。大好き……」

 ちゃんと言葉になったかどうかは分からない。
 でも、伝わったと思う。だって、朱虎だから。
 あたしはほっと息をつくと、今度こそ意識を手放した。 
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