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番外裏話第二弾・後 誰も知らない
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いつも「ヤクザのせいで結婚できない!」を読んでいただき、ありがとうございます!
これは大体本編27~35話くらいまでの朱虎視点での番外編になります。
時機を逸した感ハンパないのですが、せっかく書いたので夏休み特別編とでも思ってください。変なところで挟んでしまってすみません。
番外編なので、もちろん読まなくても本編にまったく支障はありません。
また、朱虎に対するイメージが激変する可能性があります。すみません。
頭の中で理性が摺りつぶされるのが分かる。
勝手に動く身体をどこか他人事のように感じているうちに、気が付くと身体の下でお嬢が俺を見上げていた。
「え? 朱虎?」
俺に組み敷かれたお嬢は、この期に及んで危機感の欠片もない顔をしている。
薄いTシャツ越しの柔らかな身体。少し甘いシャンプーの香り。
小さい頃から今でも世話している女の子だ。
そのはずなのに、俺の下に居るのは全く知らない女のようだった。
女だ。
ぐらりと脳が揺れる。俺は誘われるように上体を沈め、手を伸ばし――
「ちょっ……冷たっ!?」
お嬢が悲鳴を上げた。その声にハッと我に返る。
今、俺は何をしようとした?
よりによってお嬢に対して、俺は何を。
心臓がバクバクと激しく鳴っている。
「ちょっ、朱虎、冷たいってば!?」
お嬢はキャアキャアと騒いでいる。
俺は小さく息を吐くと、ひたりと両手をお嬢の喉に当てた。
「どうしたんですか、温めてくれるんでしょう? ……覚悟は良いですね?」
「ひっ、ちょっ、やめ……キャアアアアッ!」
お嬢は昔からくすぐりに弱い。特にわき腹は急所だ。
昔、まだ俺が学ランを着ていてお嬢がランドセルを背負うような年の頃はよくこうやってじゃれ合った。
だからこれは、その延長だ。それ以上の何物でもない。
「朱虎、酔ってるでしょ!」
きっ、と睨んでくる顔にまた胸が痛んだが、俺は無視した。
膨れた頬を軽くつねる。
「ご自分のことはご自分で出来るようにならないと。……獅子神さんのところへ嫁に行ったら、もう俺はいないんですから」
早く嫁に行っちまえ。俺の手の届かないところに。
こんな風に隙を見せないでくれ。
そう思っているのに、お嬢は不意に泣きそうな顔になった。
「やだ、あたし、……朱虎がいないと」
やめろ。そんな顔をするな。
「朱虎は? もうあたしの傍にいなくてよくなったら、せいせいするの?」
そんなことを聞くな。
「……ほんとはあたしのこと、嫌い?」
「――俺は」
カッ! と雷が轟いて、俺の言葉をかき消した。
「きゃあっ!」
手の中でお嬢の身体が跳ねる。爪を肌が滑る感触がした。
「あ、痛っ……」
「見せてください」
思わず顔を掴んで引き寄せる。白い頬に一筋、血の筋が走っていた。
吸い寄せられるように、気が付いたらそこに口づけていた。
「ひゃっ!? な、ちょっ」
「動かないで」
頬に舌を這わせると血の味がした。
「も、もう……」
硬直していたお嬢が身をよじる気配を感じて、俺は口を離した。
「止まりました」
努めて冷静に、あくまでも処置の一環であると言い聞かせる。
普通は騙されないだろう。だけど、お嬢にとって俺はノーカン男だ。
「応急処置……あ、そう」
案の定、お嬢はあっさり納得してしまった。いっそ気が抜けてしまう。
雷はまだ遠くで鳴っている。
俺は姿勢を変えると、お嬢を抱き寄せた。
「雷がおさまるまで、こうしてますから」
「……うん」
他愛ない言い訳にあっさり安心して、体を預けてくるお嬢を抱きしめる俺は酷い男だ。
「……すみません、本当に」
「雷のせいだよ。……急に鳴るんだもん」
眠たげなお嬢は、俺がどんな気持ちで謝っているのかなんてわかりはしない。
頼むから、あんまり簡単に騙されないでくれよ。
「……嫌いなわけないでしょう。俺の大事なものは、オヤジと……あんただけです」
「あたしも朱虎が大事」
不意にお嬢がはっきりと囁いた。
「……大好き」
「……!」
俺は思わず身を起こした。お嬢はくうくうと寝息を立てて眠っている。
無防備で、無邪気な寝顔。
「……それはずるいだろ」
ざあざあと雨の音が部屋の中にこだまする。遠くでまた雷が鳴った。
うつ伏せになって眠るお嬢のTシャツが少しめくれている。
俺は手を伸ばして、Tシャツの裾をつまんだ。そのまま上へあげると、なだらかな背中が露になる。
「またノーブラか……。寝るときもちゃんと下着つけろっつってんのに」
カッ、と窓の外が輝いた。裸の背中が一瞬浮かび上がる。
その背には獣の爪痕みたいな傷跡が大きく三本走っていた。古いものだ。
「背中に刺青、か。似たようなものかもしれねえな……」
傷はお嬢が五歳の誕生日前に出来たものだ。交通事故で、乗っていた車のガラスが砕けて小さなお嬢の背を深々と傷つけた。事故の原因は道路に飛び出してきた馬鹿野郎だ。
そして、その馬鹿野郎とは俺のことだった。
俺の母親は気まぐれで癇癪もちのクズだった。
俺は子どもというよりもペットのように扱われて育った。たまに母親の気が向くと抱きしめられたりかいがいしく世話を焼かれたりしたが、大抵は放置されて、たまに殴られたり蹴飛ばされたりしていた。
物心ついた時には既にいなかった親父は外国人だったそうで、俺は赤い髪に紺色の瞳だった。同年代の奴らより体が大きくなるのが早かったせいでいじめられずには済んだが、学校ではいつも遠巻きにされていて友達なんか一人もいなかった。つまらなくなったので、途中で行くのはやめてしまった。母親には学校から何度か連絡があったはずだが、特に何も言われなかった。多分、そこまで興味がなかったのだろう。
学校をさぼって一人でフラフラしていた時、ちょっとした事故に遭った。曲がってきた車に引っ掛けられた程度で大した怪我もしなかったが、相手は事件が公になるのを嫌って破格の慰謝料を積んできた。
それから一か月後、母親は俺を道路に連れていって言った。
「どれでもいいからここを通る車に当たってきな。なるべく高そうな車にするんだよ」
ビュンビュン走る車に飛び込むのはマジで怖かったが、母親が珍しくニコニコしていたから、俺は死ぬ気で車に飛び込んだ。
全治三か月の怪我が治るまで、母親は俺をべたべたに甘やかしてくれた。
同じことを俺はあと五回繰り返して、その後で「次はちゃんと死のう」と決めた。
「ちゃんと死ねる」車はよく吟味した。そしてある雨の日、俺は黒塗りの車に向かって飛び込んだ。
ところが、予想していた激しい衝撃は襲って来なかった。俺を跳ね飛ばすはずだった車は急カーブを描いて路肩の電信柱へと突っ込んだ。
雨に打たれながら道路に座り込む俺の耳に泣き声が飛び込んで来た。引き寄せられるようにさかさまになった車を覗き込むと、血まみれの女の子が俺に向かって小さな手を伸ばしてきた。
俺はその子を引きずり出して抱きかかえ、救急車が到着するまでずっと泣き声を聞いていた。背中に回した手がどくどくと熱い血に濡れる感触は、いまだにはっきりと覚えている。
それからしばらくして俺はある日、何故か雲竜組に引き取られることになった。
事故の落とし前で殺されるのかと思ったが、命じられたのは小さな女の子の世話だった。俺のせいで決して消えない大怪我を負ったあの子だ。
これは俺が払わなければならないツケだ、と思った。「ちゃんと死ね」なかった俺はツケを払わなければならない。
けれど、どうやらそのツケもそろそろ払い終えるころのようだ。
「……大好きなんて言葉、簡単に使うんじゃねえよ」
手を伸ばして傷跡を撫でる。
獅子神蓮司はこの傷跡を見て、どんな顔をするだろうか。お嬢が傷つくような反応をしたらぶち殺してやる。
でも、もし、「こんな傷なんて気にしない」と言うようなら――
「……くしゅん!」
ふいにお嬢がくしゃみをした。背中をむき出しにし過ぎたようだ。
Tシャツを元に戻す。
冷えてしまっただろうか。風邪をひかなければいいが。
「……朱虎」
お嬢がふにゃふにゃと呟いた。目を閉じたまま、俺の腕を掴む。
「寒いの? こっちおいで……」
ぎゅっ、と俺の腕にしがみつくお嬢は温かい。
雨の音が耳の奥に響く。
こんな風に雨と雷が支配する夜は、何が起こったとしても誰にも気が付かれないだろう。
俺は身を屈めた。
「ごめんな」
「……んん?」
温かい頬に手を添えてこちらを向かせる。
少し開いた口に、唇を重ねた。
「……ん、ふ」
柔らかな唇は微かに血の味がする。
顔を離すと、お嬢はうっすらと目を開けた。ぼんやりと焦点が定まらない目つきがさまよう。
「……今、なんかした?」
「キスしました」
お嬢はしばらくぼうっとした後、「あ、そう」と呟いてまた目を閉じた。間を置かずに呑気な寝息が再開する。
完全に寝ぼけている。明日になれば絶対に忘れているだろう。
別にそれでいい。
むしろ、何か言われたとしても徹底的にしらばっくれてやる。お嬢は本当に単純で素直だから、「知らない」と突っぱねたら夢だと思い込むだろう。
俺がこの子から何を奪ったのか、知っているのは俺だけでいい。
「何もかもくれてやると思うなよ、クソ野郎」
頭を離れない男に向かって小さく毒づく。
雷はもう聞こえなくなった。
雨の音がやむまで、あとどれくらいかかるだろうか。俺は穏やかな寝息を聞きながらじっと座っていた。
これは大体本編27~35話くらいまでの朱虎視点での番外編になります。
時機を逸した感ハンパないのですが、せっかく書いたので夏休み特別編とでも思ってください。変なところで挟んでしまってすみません。
番外編なので、もちろん読まなくても本編にまったく支障はありません。
また、朱虎に対するイメージが激変する可能性があります。すみません。
頭の中で理性が摺りつぶされるのが分かる。
勝手に動く身体をどこか他人事のように感じているうちに、気が付くと身体の下でお嬢が俺を見上げていた。
「え? 朱虎?」
俺に組み敷かれたお嬢は、この期に及んで危機感の欠片もない顔をしている。
薄いTシャツ越しの柔らかな身体。少し甘いシャンプーの香り。
小さい頃から今でも世話している女の子だ。
そのはずなのに、俺の下に居るのは全く知らない女のようだった。
女だ。
ぐらりと脳が揺れる。俺は誘われるように上体を沈め、手を伸ばし――
「ちょっ……冷たっ!?」
お嬢が悲鳴を上げた。その声にハッと我に返る。
今、俺は何をしようとした?
よりによってお嬢に対して、俺は何を。
心臓がバクバクと激しく鳴っている。
「ちょっ、朱虎、冷たいってば!?」
お嬢はキャアキャアと騒いでいる。
俺は小さく息を吐くと、ひたりと両手をお嬢の喉に当てた。
「どうしたんですか、温めてくれるんでしょう? ……覚悟は良いですね?」
「ひっ、ちょっ、やめ……キャアアアアッ!」
お嬢は昔からくすぐりに弱い。特にわき腹は急所だ。
昔、まだ俺が学ランを着ていてお嬢がランドセルを背負うような年の頃はよくこうやってじゃれ合った。
だからこれは、その延長だ。それ以上の何物でもない。
「朱虎、酔ってるでしょ!」
きっ、と睨んでくる顔にまた胸が痛んだが、俺は無視した。
膨れた頬を軽くつねる。
「ご自分のことはご自分で出来るようにならないと。……獅子神さんのところへ嫁に行ったら、もう俺はいないんですから」
早く嫁に行っちまえ。俺の手の届かないところに。
こんな風に隙を見せないでくれ。
そう思っているのに、お嬢は不意に泣きそうな顔になった。
「やだ、あたし、……朱虎がいないと」
やめろ。そんな顔をするな。
「朱虎は? もうあたしの傍にいなくてよくなったら、せいせいするの?」
そんなことを聞くな。
「……ほんとはあたしのこと、嫌い?」
「――俺は」
カッ! と雷が轟いて、俺の言葉をかき消した。
「きゃあっ!」
手の中でお嬢の身体が跳ねる。爪を肌が滑る感触がした。
「あ、痛っ……」
「見せてください」
思わず顔を掴んで引き寄せる。白い頬に一筋、血の筋が走っていた。
吸い寄せられるように、気が付いたらそこに口づけていた。
「ひゃっ!? な、ちょっ」
「動かないで」
頬に舌を這わせると血の味がした。
「も、もう……」
硬直していたお嬢が身をよじる気配を感じて、俺は口を離した。
「止まりました」
努めて冷静に、あくまでも処置の一環であると言い聞かせる。
普通は騙されないだろう。だけど、お嬢にとって俺はノーカン男だ。
「応急処置……あ、そう」
案の定、お嬢はあっさり納得してしまった。いっそ気が抜けてしまう。
雷はまだ遠くで鳴っている。
俺は姿勢を変えると、お嬢を抱き寄せた。
「雷がおさまるまで、こうしてますから」
「……うん」
他愛ない言い訳にあっさり安心して、体を預けてくるお嬢を抱きしめる俺は酷い男だ。
「……すみません、本当に」
「雷のせいだよ。……急に鳴るんだもん」
眠たげなお嬢は、俺がどんな気持ちで謝っているのかなんてわかりはしない。
頼むから、あんまり簡単に騙されないでくれよ。
「……嫌いなわけないでしょう。俺の大事なものは、オヤジと……あんただけです」
「あたしも朱虎が大事」
不意にお嬢がはっきりと囁いた。
「……大好き」
「……!」
俺は思わず身を起こした。お嬢はくうくうと寝息を立てて眠っている。
無防備で、無邪気な寝顔。
「……それはずるいだろ」
ざあざあと雨の音が部屋の中にこだまする。遠くでまた雷が鳴った。
うつ伏せになって眠るお嬢のTシャツが少しめくれている。
俺は手を伸ばして、Tシャツの裾をつまんだ。そのまま上へあげると、なだらかな背中が露になる。
「またノーブラか……。寝るときもちゃんと下着つけろっつってんのに」
カッ、と窓の外が輝いた。裸の背中が一瞬浮かび上がる。
その背には獣の爪痕みたいな傷跡が大きく三本走っていた。古いものだ。
「背中に刺青、か。似たようなものかもしれねえな……」
傷はお嬢が五歳の誕生日前に出来たものだ。交通事故で、乗っていた車のガラスが砕けて小さなお嬢の背を深々と傷つけた。事故の原因は道路に飛び出してきた馬鹿野郎だ。
そして、その馬鹿野郎とは俺のことだった。
俺の母親は気まぐれで癇癪もちのクズだった。
俺は子どもというよりもペットのように扱われて育った。たまに母親の気が向くと抱きしめられたりかいがいしく世話を焼かれたりしたが、大抵は放置されて、たまに殴られたり蹴飛ばされたりしていた。
物心ついた時には既にいなかった親父は外国人だったそうで、俺は赤い髪に紺色の瞳だった。同年代の奴らより体が大きくなるのが早かったせいでいじめられずには済んだが、学校ではいつも遠巻きにされていて友達なんか一人もいなかった。つまらなくなったので、途中で行くのはやめてしまった。母親には学校から何度か連絡があったはずだが、特に何も言われなかった。多分、そこまで興味がなかったのだろう。
学校をさぼって一人でフラフラしていた時、ちょっとした事故に遭った。曲がってきた車に引っ掛けられた程度で大した怪我もしなかったが、相手は事件が公になるのを嫌って破格の慰謝料を積んできた。
それから一か月後、母親は俺を道路に連れていって言った。
「どれでもいいからここを通る車に当たってきな。なるべく高そうな車にするんだよ」
ビュンビュン走る車に飛び込むのはマジで怖かったが、母親が珍しくニコニコしていたから、俺は死ぬ気で車に飛び込んだ。
全治三か月の怪我が治るまで、母親は俺をべたべたに甘やかしてくれた。
同じことを俺はあと五回繰り返して、その後で「次はちゃんと死のう」と決めた。
「ちゃんと死ねる」車はよく吟味した。そしてある雨の日、俺は黒塗りの車に向かって飛び込んだ。
ところが、予想していた激しい衝撃は襲って来なかった。俺を跳ね飛ばすはずだった車は急カーブを描いて路肩の電信柱へと突っ込んだ。
雨に打たれながら道路に座り込む俺の耳に泣き声が飛び込んで来た。引き寄せられるようにさかさまになった車を覗き込むと、血まみれの女の子が俺に向かって小さな手を伸ばしてきた。
俺はその子を引きずり出して抱きかかえ、救急車が到着するまでずっと泣き声を聞いていた。背中に回した手がどくどくと熱い血に濡れる感触は、いまだにはっきりと覚えている。
それからしばらくして俺はある日、何故か雲竜組に引き取られることになった。
事故の落とし前で殺されるのかと思ったが、命じられたのは小さな女の子の世話だった。俺のせいで決して消えない大怪我を負ったあの子だ。
これは俺が払わなければならないツケだ、と思った。「ちゃんと死ね」なかった俺はツケを払わなければならない。
けれど、どうやらそのツケもそろそろ払い終えるころのようだ。
「……大好きなんて言葉、簡単に使うんじゃねえよ」
手を伸ばして傷跡を撫でる。
獅子神蓮司はこの傷跡を見て、どんな顔をするだろうか。お嬢が傷つくような反応をしたらぶち殺してやる。
でも、もし、「こんな傷なんて気にしない」と言うようなら――
「……くしゅん!」
ふいにお嬢がくしゃみをした。背中をむき出しにし過ぎたようだ。
Tシャツを元に戻す。
冷えてしまっただろうか。風邪をひかなければいいが。
「……朱虎」
お嬢がふにゃふにゃと呟いた。目を閉じたまま、俺の腕を掴む。
「寒いの? こっちおいで……」
ぎゅっ、と俺の腕にしがみつくお嬢は温かい。
雨の音が耳の奥に響く。
こんな風に雨と雷が支配する夜は、何が起こったとしても誰にも気が付かれないだろう。
俺は身を屈めた。
「ごめんな」
「……んん?」
温かい頬に手を添えてこちらを向かせる。
少し開いた口に、唇を重ねた。
「……ん、ふ」
柔らかな唇は微かに血の味がする。
顔を離すと、お嬢はうっすらと目を開けた。ぼんやりと焦点が定まらない目つきがさまよう。
「……今、なんかした?」
「キスしました」
お嬢はしばらくぼうっとした後、「あ、そう」と呟いてまた目を閉じた。間を置かずに呑気な寝息が再開する。
完全に寝ぼけている。明日になれば絶対に忘れているだろう。
別にそれでいい。
むしろ、何か言われたとしても徹底的にしらばっくれてやる。お嬢は本当に単純で素直だから、「知らない」と突っぱねたら夢だと思い込むだろう。
俺がこの子から何を奪ったのか、知っているのは俺だけでいい。
「何もかもくれてやると思うなよ、クソ野郎」
頭を離れない男に向かって小さく毒づく。
雷はもう聞こえなくなった。
雨の音がやむまで、あとどれくらいかかるだろうか。俺は穏やかな寝息を聞きながらじっと座っていた。
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