猫の自伝

浅田賢

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第一章

つぎの日のにっき(野良猫)

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きょうは、たぶん昨日のつづきだ。
空気が少し違って、匂いが薄い。だから、そう判断した。人間みたいに日にちで区切ると、こういう微妙な違いを見逃す。野良は、昨日と今日の境目を、鼻で決める。

朝、目を開けたとき、体の下が少し湿っていた。夜のあいだに、露が落ちたらしい。毛の奥まで冷えていて、しばらく動けなかった。動かない時間も、生きる時間だ。無理に立ち上がると、あとで全部に響く。

しばらくして、道路が目を覚ました。トラックの低い唸り、人間の足音、カラスの声。カラスは信用できないが、尊敬はしている。彼らもまた、余計な希望を持たずに空を使う。
それ以外は、いつもと同じだった。
目を開ける前に、耳が起きる。遠くの車、近くの足音、ゴミ袋の擦れる音。全部、問題なし。体も重すぎない。夜をちゃんと越えた感覚があった。

伸びをして、前足を順番に出す。背中の毛が、まだ少し湿っている。これもいつも通りだ。自販機の裏から出て、道路を見る。人間が途切れるのを待って、渡る。タイミングは完璧だった。今日も、ちゃんと野良ができている。

ゴミ置き場に着く。
袋の配置、昨日と違う。新しい袋が二つ。古いのが一つ。これは、使える。鼻を近づけて、匂いを読む。甘いもの、油、紙。ここまでは順調だった。

――そこで、止まった。

魚の匂いがした。
強すぎないけど、はっきりしている。腹が反応する前に、頭が反応した。これは、ただの魚じゃない。そう思った瞬間、次に来るはずのものが来なかった。

名前だ。

ぼくは、鼻を袋から離した。
もう一度、嗅ぐ。匂いは変わらない。でも、頭の中が空振りする。いつもなら、何も考えずに体が動く。引っかく、破る、食べる。なのに今日は、その前に、立ち止まってしまった。

「……?」

音にならない疑問が、胸に残った。

そのあとも、調子が戻らなかった。
川沿いの道を歩いているのに、風を読み間違える。日なたを選んだつもりが、影だった。毛づくろいも、途中で舌が止まる。ひげが何かを測ろうとして、測りきれない。

考え事をするつもりはなかった。
野良は、考えると遅れる。遅れると、危ない。だから普段は、考えない。でも今日は、考えないことができなかった。

昼、ベンチの下で横になった。目を閉じても、匂いが戻ってくる。魚の匂い。あれの名前。喉まで来て、引っかかる音。

「さ……」

違う。
「さ」じゃ足りない。

起き上がって、場所を変えた。いつもの屋根のあるところ。ここなら落ち着くはずだった。でも、落ち着かない。外の音が全部、少しずつずれて聞こえる。世界が、薄く歪んでいる。

夕方、黒い猫とすれ違った。
いつもなら、距離と目線だけで済む。でも今日は、彼の咥えているものに、目が釘づけになった。銀色で、細長い。油の光り方。あれだ、と体が言う。でも、頭が追いつかない。

呼べない。
名前がない。

そのせいで、ぼくは一歩、出遅れた。
彼は何も言わず、去っていった。残ったのは、ぼくと、うまく終われなかった一瞬だけだ。

夜、寝床に戻っても、体が決まらなかった。丸くなっては、ほどける。尻尾の置き場が定まらない。普段なら考えなくていいことを、考えてしまう。

しょうもないものの名前だ。
食べ物の名前だ。
それなのに、それを忘れたせいで、今日一日が、うまく噛み合わなかった。

眠る直前、またあの音がした。
「さ……ば……」

そこまで来て、止まった。

思い出したのかどうか、わからない。
でも、忘れていることだけは、はっきりした。

あしたも、たぶん、同じ匂いを嗅ぐ。
そしてまた、立ち止まる。
それが、きょうより怖い。
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