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終章

終章

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 二日後の昼近く、斎と姫香は大社勅使殿の畳部屋に用意された一脚の会議用テーブルを前にして、パイプ椅子に横並びで座っていた。
 斎は巫女長の姿で、ただ椅子に座っていただけであったが、スーツの姫香は机の上に持参のペットボトルの緑茶とノート、そして筆箱を置いて待機していた。
 こちらも同じく正装した真が満を持して、「南宮神社」と筆書きされた掛け軸を前に大きなホワイトボードの横に立ち、伸縮式の指示棒を手に開口した。
「えー、これから南宮大社に秘められたミステリーを一つずつ紐解いていこうと思います」
「待ってました」と姫香は浮かれて声を出したが、斎に「静かに」と注意された。
「はは、じゃあ始めるか」
 真はボードに拡大した写真付きの境内蟇股図をマグネットで貼った。
「十二支の動物の向きとかは一度説明してあるから省くとして俺が一番頭を抱えたのは楼門にある神農の蟇股だった。あの存在は単体では理解できなかったが、全体を縦と横に主眼を置くことで解決に到った」
「縦と横?」
 姫香は早速不思議に眉を寄せた。真は言った。
「婆ちゃんが昔俺に話した言葉に緯武経文というものがある。これは謎を解く重大なヒントになっているんだが、元々は『晋書』宣五王文六王伝の、武を緯にし文を経にす、という故事から来ている。武を縦糸に、文を横糸にして美しい布を織るというのがこの語の意味なんだ」
 真は指示棒を伸ばして蟇股図上をプラスの形に動かし、
「大社の蟇股暗号を解く鍵はクロスワードパズルだった。あれも縦と横から構成されている。俺は横ばかりに気を取られていたから混乱したが、縦のとある鍵を見付けたらそれは一気に組み上がった。その鍵がこの三人だ」
 と高舞殿の東正面の寅・卯・龍の蟇股上に家康、秀忠、家光のミニ肖像画を貼り付けた。
「南宮大社は今でも徳川家の神社なんだ。楼門から西を見ると直線でこの三人の生まれ年の蟇股が高舞殿上部に設けられている。方位的に偶然じゃないかと思われがちだが、一六四三年に家光が高野山に建てた家康と秀忠の霊屋たまやの正面の蟇股にはしっかり虎と兎が各々彫り込まれている。その事から徳川三代の生まれ年が蟇股として表現されているのが分かる。俺がその関わりに気付いたのは縦糸である楼門の神農と囲碁の蟇股だった。それを真っ直ぐ西に辿れば高舞殿の寅の蟇股、つまり家康に行き着く」
「その囲碁と神農が家康に何か関与しているのかしら」
 斎はすかさず質問した。
 真は口角を上げた。
「いるよ。その二枚は家康を表すのに最も適した蟇股なんだ。家康は信長、秀吉の三英傑の中でも飛び抜けて囲碁が好きだった。碁の名人・本因坊算砂を重用し、駿府城では大会も開く程熱狂していた趣味でもある」
「そうなのね」
「そして神農は薬の神だ。家康はいわゆる薬オタクだった。万病散、神効散などを自ら調合服用していた。家康愛用の、薬草をひく薬研やげんも残っているし、『医林要集』という医学書が徳川家に今でも保管されている。何より林羅山から家康は『本草綱目』を贈られている。その原点は『神農本草経』だ。当然家康も神農を敬っていただろう。家康の子の尾張徳川義直が黄金の神農像を所有していたくらいだしな」
「ほほう、確かに繋がるね」
 姫香はノートを取りながら頷いた。
 真は続けた。
「言い忘れたが俺はこの蟇股を三つのエリアに分けた。高舞殿の三人を中心にした右・家康エリア、中央・秀忠エリア、そして左が家光エリアだ。それは楼門から本殿横の玉垣内の摂社まで含む広大な縦の範囲になる」
 三色のカラーマーカーでエリアは大きく縦長に囲まれた。
 赤が家康、黄色が秀忠、緑が家光である。
「そんな風にエリアで分けるのに理由はあるの、真君」
 斎が厳しい眼差しで臨んできた。
 これ以上事件に関係するのを恐れているせいか、蟇股暗号の公表には乗り気でないようで僅かでも誤りが有れば遣り込めてやろうとの気に満ちていた。
 真は指示棒で各蟇股を指した。
「大いにある。例えば右の赤色エリア、楼門は囲碁、神農の他に巣父と許由の親子がいる。これは共に隠者だ。家康は大社がまだ仮社殿の一六一六年に死去している。三重塔を除いて大社の再建が終わったのが一六四二年。つまり楼門だけ見ると家康に対して、仙人の世界で好きな囲碁と製薬を楽しみながらのんびり暮らしてほしいというメッセージに他ならない。そして回廊北の牡丹は花の王様だ。これは戦乱を収めた家康への敬意でもある」
「真、じゃあ摂社は。えっと、家康エリアでいうと王祥と郭巨だよね」
 姫香はとんでもない故事の蟇股を思い浮かべていた。
 真は、これは些か牽強付会けんきょうふかいになるがと前置きして熱弁を継いだ。
「例えば王祥は王将とかけたのかもしれない。王祥が伏した場所には毎年、人が伏せた形の氷が出るという。その結末は、家康の辛苦、即ち今川家、織田家、豊臣家に無理難題を突き付けられても堪え忍んだ果ての、天下統一の功績が後々平和に続くという例えに繋がるかもしれない。また郭巨については、家康は信長の命で長男の信康を殺させているし、秀吉に次男秀康を人質に出している。子を犠牲にして我慢を重ねた上で黄金の釜という天下を手に入れたとの見方も出来る」
「へえ」
「ま、あくまでも俺の仮説だけどな。さて、次は秀忠エリアを見てみよう」
 楼門東から拝殿まで真は一直線に指示棒を滑らせた。
「このエリアは狭い。エリアというよりラインだ。東から王子喬、孟宗、兎、そして諫鼓鶏から拝殿の鳳凰となる」
「あれ、真。拝殿に鳳凰の蟇股なんてあったかな」
「破風の下の懸魚として飾られているよ。菊の御紋の下にな。ところで諫鼓鶏の蟇股だが、普通に考えれば酉年ならただの鶏でもいい。では何故わざわざ諫鼓鶏にしたかというのが疑問だが、これが歴史上の逸話で秀忠に関与してくるんだ」
「諫鼓鶏にそんな史話があったかしら、真君」
「ああ、江戸じゃ有名だ」
 真は質問してきた斎に一枚の写真を渡した。
 そこには五色に彩られた大きな諫鼓鶏が祭の山車になっており、周りに大勢の人集りが写っていた。
 斎はその写真の状況を判りかねたが真はその旨趣を述べた。
「それは東京日枝神社の祭だ。秀忠は一六一五年、大坂夏の陣に勝利し江戸へ帰還した際、翌月の山王祭を前に、御幣猿ごへいざるでなく平和な諫鼓鶏の山車を一番に渡せと命令したんだ」
「御幣猿?」
「日枝神社は日吉社の分社だ。日吉社は魔除けとして猿を大事にしている。日枝神社の山車の猿は御幣を担いでいる様子からそう呼ばれている。秀忠はその神猿の山車の順を入れ替えてでも天下泰平を訴えたかった。江戸後期の随筆『事蹟合考じせきがっこう』に先の命令の旨が記されてある。最大の敵である豊臣家を滅ぼし、元和偃武げんなえんぶを成し遂げた二代将軍の象徴が諫鼓鶏だったんだ。だから敢えて酉年の蟇股を諫鼓鶏にしたんだろう。ちなみに同じ諫鼓鶏でも神田祭での鶏は白色だから、大社の諫鼓鶏は日枝の鶏を模している事が分かる」
「じゃ、その孟宗も何か隠れた意味があるの」
 姫香がボードの楼門の正面西をボールペンで指した。
「そうだな。孟宗に関しては多様な解釈が出来ると思う。一つ目は縁起としてのもの。この秀忠ラインは全て吉祥となっている。王子喬の白鶴、孟宗の竹、卯年の紅梅、そして諫鼓鶏の白梅と菊と鳳凰だ」
「あ、ホントだ」
「別の見方は孟宗の筍の数。三本生えているだろ」
「うん」
「これは徳川三代を表している。家康、秀忠、家光の幼名は全て竹千代だ。秀忠ラインには竹の蟇股がない。それでここに設置したという可能性も捨てきれない。また竹は中空で節を持つため謙虚・慎み深い美徳を形容する。秀忠はその表現通りに『仁孝恭謙じんこうきょうけん』と大久保忠隣に評価され家康へ二代将軍に推されている。それはまさに竹だ」
「はー、一つの蟇股でもそんなに考え方が違うんだね」
「もう一つの考え方は儒教的な思想を含んでいるかもしれない、という事」
「え、どういう意味」
「実は京都の御香宮ごこうのみや神社にも同じような孟宗の蟇股が二枚ある。伏見城の鬼門に建てられていた御香宮を一六〇五年に現在の土地へ移し替えたのが家康だ。そしてその表門には孟宗、唐夫人とうふじん、郭巨、揚香の四枚の蟇股が飾られている。唐夫人を除けばの全て大社の玉垣内にある。唐夫人は歯のないしゅうとめに自分の乳を吸わせて介護した逸話を持つ。これらに共通するのは儒教の『孝』だ。儒教は孝行と忠誠を重んじた。それはやがて徳川政権の基本理念にもなった」
「主君と親に尽くすって事なの」
「ああ。秀忠の実母西郷局は若くして亡くなった。その後秀忠の育ての母親になったのが家康の側室であった阿茶局あちゃのつぼねさ。阿茶局は大坂の陣の交渉役や娘の徳川和子まさこが後水尾天皇に嫁ぐ際、母親代わりの守役を務めるなど秀忠を支えた。秀忠は阿茶局に感謝の念を抱いていただろう。孟宗の蟇股は母親への敬意だからな」
「成程」
「だが、それだけじゃない。この秀忠ラインには別の見方がある。それは天台宗による」
「天台宗?」
「姫香、何度も教えてるけど南宮大社は明治時代前までは天台宗との神仏習合だった。だからこの楼門中央ラインは天台、いや『山王ライン』と言い換えてもいい」
「さんのう?」
「ところで八神さん、突然ですがここで問題です。天台宗の始祖は誰でしょう」
 真は教師を真似て尋ねた。姫香は苦笑して解答した。
「それくらい覚えてます。最澄です」
「正解。その最澄は中国へ渡り仏教を学んだ。その寺が天台山国清寺。そこに鎮守神として祀られていたのが道教の地主山王元弼真君さんのうげんひつしんくん、これは神格化された晋の霊王・太子晋だった」
「あれ、その名前どこかで……」
「よく覚えていたな、姫香。そう、太子晋こそが白鶴に乗ったこの王子喬なんだ。だからここの蟇股は費長房でなく王子喬というのが判る」
 真は楼門正面の蟇股の写真を棒で叩いた。
「あの鶴仙人にはそんな裏が」
 驚く姫香に真は追加した。
「山王というのは最澄が帰国して山王元弼に倣い、日吉社の祭神・大山咋神おおやまくいのかみと、後に三輪山の大神神社から大己貴命おおなむちのみことを勧請しそれらを天台宗の鎮守神として祀ったもの。それが天台の山岳信仰として広まった。諫鼓鶏の江戸日枝神社は日吉社の分社、要約するとこのラインは山王のラインなんだ」
「ふんふん」
 姫香は細々とペンを走らせた。
 真は次に斎を真っ直ぐ見た。
「そしてこの秀忠ラインを説明するに当たってこの蟇股仕掛け人が姿を現す。その人物こそがこの大社の蟇股に術をかけた。日本史上稀代の術師だ」
「術師?」
 斎は不可解な目を向けたが、真は黙ってボードの空いた一角に老僧の肖像画を貼り付けた。
その僧は鮮やかな僧綱領そうごうえりの朱衣と七条袈裟を着て頭には白い探題帽を被り、手には本連念珠と独鈷杵とっこしょを持って曲録きょくろくという椅子に静かに座している。
 真は悠然と彼の名を告げた。
「術師のおくりなは慈眼大師、生前は南光坊天海と称されていた」
 ここで姫香がパンと手を叩いた。
「天海、その名前聞いた事ある。去年かな、テレビで観たよ。確か明智光秀が死なずにお坊さんになって徳川へ仕えたって」
「光秀天海説だな。それは今じゃ信憑性が薄いと否定されてるよ」
「そうなの」
「光秀が天海だとの証が次々と潰されているからな。東照宮に見られる家紋は光秀の桔梗紋ではなかった、比叡山松禅堂の灯籠に刻まれている光秀という名前は明智光秀という確証がない、慈眼寺にある光秀の像は京北の密厳寺にあったものが明治時代に移動されている等々」
「あ、でも日光に明智平あけちだいらってあるよね。天海が名付けたっていう」
「それも光秀生存説にあるが、何故それをアケチと呼ぶんだ。天海は天台の僧侶だ。名付けたとしたらメイチと読むのが相応しい。メイチは優れた知恵、または悟りを指す。平から中禅寺湖が望めるが、日光を開いた勝道上人はそこに神宮寺の中禅寺を建てた。天海はその日光を徳川から任されている。上人を敬いメイチダイラと呼ぶ方が自然だろう」
「そ、そう言われちゃうと」
「何より決定的なのは光秀と天海は残された書状の筆跡が全然違うんだ。筆跡は癖だ。そうそう変わるもんじゃない」
「うーん、ロマンが一つ消えたかー」
 姫香は残念そうに背もたれに反り返った。
「はは、ロマンはロマン、史実は史実。源義経チンギスカン説とか秀頼生存説とかもそうだ。ロマンを楽しんでも良い。しかし史実は別だ。ごっちゃまぜにすると収拾がつかなくなる。さて、話を戻そう」
 真はホワイトボードに向いて再度語り始めた。
「徳川家には宗教の主立ったブレーンが二人いた。崇伝と天海だ。共に黒衣の宰相と呼ばれている。僧でありつつ政治に関与し影響力を持つ者、という用語だ」
「へえ、崇伝だけじゃないんだ」
「茶聖・千利休、毛利家の外交僧・安国寺恵瓊、今川義元の懐刀・太原雪斎もそうだ。ところで姫香、陰陽師で一番名前が知られているのは誰だ」
「やっぱり安倍晴明だよ」
「そうだな。でも俺は術の規模で言うと天海の方が優れていると思う。呪術師の王、呪王だ」
「あれ、天海は陰陽師でなくて僧侶だよね」
「それが天海はただの僧侶じゃない。徳川三代を支える重要な実績を積むよりはるか前に栃木の足利学校で儒学、兵学、天文学、医学等諸々学んでいる。そこでは易学も教えていて、それは陰陽道の影響を強く受けている。または軍師の養成学校とも言われている。共に陰陽道が深く関わっている。そもそも陰陽道は真言宗、天台宗の密教と深く結び付いていた。そして俺が天海が大社に関与していると感じたのはこの数字に着目したからだ」
 真はそう言って大社再建にかかった金額の内訳表を見せた。
 七千両の内、本地堂四〇三両三分三朱、護摩堂・勅使殿三三五両三分一朱、本社六一一両一朱、高舞殿二〇四両一朱、楼門五一四両二分一朱等の中で三重塔の建設費用だけは「一一一一両一分一朱」とのぞろ目数字が見えた。
「これは塔を表す一という数字だろうが、いくら何でも全て一というのは出来過ぎている。一の奇数は陰陽道では陽数で縁起が良いとされている。こんな業を使えるのは当時、大社再建を促した天海だけだ。日光東照宮の彫り師は幕府作事方の甲良宗広、または狩野探幽だとされているが、その裏で思想的な指導をしたのは天海だと思う」
 実際、と真は日光の拡大地図を取り出して蟇股図の上に貼り付け、赤いマーカーを手にした。
「天海は日光と江戸に霊的な術を施している。その一つを見てみよう。これは東照宮近辺の図だが、瀧尾神社、外山、家光廟大猷院たいゆういん奥院宝塔、釈迦堂、本宮神社、東照宮奥社宝塔、そして日光二荒山神社本殿にこうして赤マジックで丸を付けるとある星の形になる」
「あー、オリオン座だ」
 姫香が発見者のように叫んだ。真は落ち着けと制した。
「そうだ。これは謎とされているが日光の責任者は天海だ。彼以外にこんな術を思い付く者がいるだろうか。ここからは俺の推測になるが聞いて欲しい」
 真は持参のペットボトルのジャスミン茶を少し飲んで喉の渇きを癒した。
「オリオン座は神門かむどといい、天地を結ぶ扉と広く流布しているが、俺の見解は別だ。それは中国の星座、星官から来ていると考えている。もちろん江戸初期にオリオン座という名称は日本にない。しかし、後に幕府天文方の渋川春海がオリオン座に太宰府という名を付けた。だが、それは未だ後の話だ。となれば天海が中国の星座からヒントを得たに違いない。さ、この絵を」
 と斎と姫香の前に差し出されたのは伸びた虎が後ろを向いている天界図で、頭から前腕にかけてオリオン座がかかっていた。
「これは中国西方七宿の白虎だ。さてさて徳川家で虎とくれば……」
「家康!」
 思わせ振りな示唆に斎と姫香は声を揃えた。真は得意げに笑んだ。
「その通り。地上の星は家康だった。そして星宮磐裂神社、四本龍寺、輪王寺、東照宮、慈眼堂、大猷院、二荒山神社も繋ぐと大雑把ながら北斗七星に見える」
「何故そんなに日光に星とか北斗七星が出てくるのかしら」
 と斎が解せない口を曲げた。
 真はさらりと返答した。
「それは星辰信仰、とりわけ北辰北斗信仰のためだ」
「ほくしんほくと?」
「北極星と北斗七星を神格化した信仰だよ。中でもほぼ動かない北極星は天帝の星とされ、夜空の中でも天を支配する最高の星と見なされた。東照宮の陽明門の真上に北極星が来るよう設計されているのは周知の事実となっている」
「そうね。私も知ってるわ」
「その北辰信仰はやがて仏教と合わさりそれが妙見みょうけん菩薩となった。家康も守り本尊として妙見菩薩像を持っていた。妙見菩薩はまた軍神としての一面もある。それに妙見菩薩には神呪があってそれは国を護るとされる」
 また、と真は補説した。
「星の運行は当時まつりごとの行く末を判断する重要な計りだった。またそれらを祀ることで神の力を得ようとした。北極星の陰陽道祭祀として、泰山府君祭たいざんふくんさい鎮宅霊符神祭ちんたくれいふしんさい玄宮北極祭げんぐうほっきょくさい等もある。ちなみに前に話した北斗尊星法は、天海も学んでいた大津の園城寺で行われるし、一六〇〇年の十二月に天海は明星、つまり金星に拝礼している。これは国土安泰を願う修法だと思われる」
「ねえ、真、そもそも何で日光なの」
 姫香のシンプルな問い掛けに真は赤マーカーのキャップを閉めて言った。
「それは家康の遺言にちなんでいる。自分の死後は駿府の久能山に葬って、江戸の増上寺で葬儀を行い、位牌は三河岡崎の大樹寺に納め、一周忌が過ぎたら日光山に祠を建てて勧請せよ、そうすれば関八州の守り神になろう、とな」
「な、何かややこしいね」
「ただこれは正式な文書で残っている訳じゃない。崇伝の『本光国師日記』に記されているだけだ。だから真実かどうか確信が持てない。ただ家康を神とするにあたって、吉田神道が掲げる明神にするか、天台の権現にするか、崇伝と天海は論争となり最終的に明神は秀吉の豊国大明神と同じで縁起が悪いと天海が推す権現に決まった話は今更だし、日光は祠といっていたのを孫の家光が東照宮を絢爛豪華に作り替えてしまったのは予想外だったろうな」
「ねえ、真、その権現ってのも私初耳なんだけど」
「うん、簡潔に言うと仏や菩薩が神に変化する事だ。これを本地垂迹ほんじすいじゃくと言う。神仏習合の思想の一つでもある」
「もう少し噛み砕いてくれると有り難いよ」
 そうだな、と真はホワイトボードの面を回転させ、持ち替えた黒マーカーで相関図を書き込んだ。
「例えば、天照大神は仏教の大日如来が姿を変えたもの、だと思ってくれればいい。この思想は有り体に言えば、先ず仏ありきの神なんだ。それに関しては日吉も天照大神であり、イコール大日如来ともなる。さっきの北辰が妙見菩薩と同体になったのも同じだ。東照大権現となった家康も薬師如来と同じに見なされた。天海は山王一実いちじつ神道の僧侶だったから家康を権現に薦めるのは順当なんだが……」
「山王一実神道?」と話の途中で姫香は首を傾けた。
 多少繁雑になるけどと真は微苦笑した。
「そもそも天台宗が比叡山の山岳信仰と結び付いたのはさっき説明したよな。それが山王神道と呼ばれている。そしてそれを更に発展させたのが天海だった。一実とは法華経の真実の一乗、即ち成仏出来る唯一の教えを指す。家康は一実神道の儀式で日光に祀られ、天海の地位は確立された」
「ふうん」
「それに東照宮の陽明門は江戸の方角に向いている。神となった東照大権現の両横には山王権現と摩多羅神またらじんが相殿に祀られた。一実神道では、この場合の山王権現は薬師如来が大日如来とされ、それは最終的に天照大神という繋がりにされた。東照大権現の東照はここから由来したとも言われている。更に家康は薬師如来の生まれ変わりとも伝わっていて、薬師は東方浄瑠璃世界の教主でもある。そこから東を照らす『東照』になったという説もある。ここでいう東とは江戸を含む関東を指す。かくして家康は関八州の鎮守となった訳だ」
 ボードに書かれた図式に姫香は深々と頷き、斎は静かに傾聴している。
「そして摩多羅神は北斗七星に関わる神だ。北斗七星の一つミザールの添え星であるのが摩多羅神と言われている。天台宗の一派、玄旨帰命檀げんしきみょうだんの本尊でもあり、それは大日如来とも言われた。とどのつまり、東照大権現が天帝となり、隣には天照大神と大日如来が自分に付き従うという最強の組み合わせとして関東を護る神となった」
「それはまた凄いトリオだね」
 姫香が感心すると斎が、
「姫香ちゃん、神様をトリオとか言わないの。不謹慎よ」
 と軽く叱った。
「ごめんごめん」
「あー、続き良いかな」
 真は二人に軽い咳払いをして説明を再開した。
「さて、日光から江戸を守護する神となった家康だが、江戸の町からももちろん北極星と北斗七星はよく見えただろう。町民はそれを見上げる度家康を思い出す。そしてそれは各自の深層心理に家康が江戸を護る偉大なる神という意識を植え付けた。天皇の権力も凌ぐ徳川家の象徴がいつも北の夜空にあるんだ。北辰の効力云々は俺の分野じゃないが、形式的にでもあれ、徳川の力を知らしめるには絶好の位置に置かれたと推し量っている」
「しかし日光とは江戸から些か遠くないかしら」
 斎が素朴な疑問を突き付けてきた。
 真は即答した。
「位置関係については後で掘り下げるけど、日光は勝道上人が四本龍寺を創建して以来、山岳信仰の拠点になり神仏習合と重なり隆盛を極め、源頼朝も関東の守護として信仰の対象としていた。源氏の棟梁たる頼朝を崇拝する家康がこの地に目を留めない訳がない」
 重ねて、と真は黒マーカーのキャップをポンと押し込んだ。
「家康は生前に天海へ日光の采配を任せていた。一六一三年には日光山の貫主、つまりトップに命じられている。常に左右に侍して顧問にあずかり、それが申すところのこと、一事として用いられぬことなし、と『徳川実記』にあるように家康にとって博識名僧である天海は師匠にも近かった。その日光に自分を祀って欲しいと願うのは不自然じゃない」
「そうだったのね、ごめんなさい、話の腰を折って」
「構わないよ。さて次は江戸の霊的呪術を見てみよう」
 真はボードを再び回転させ、日光の地図と昔の江戸の地図を入れ替えた。
「江戸には日光と同じ北斗七星の術もあるが結界術も施された。先ず北斗七星だが、柄の先から鎧神社、鬼王神社、筑土神社、神田明神、首塚、兜神社、鳥越神社を結ぶと北斗七星となる。これらは平将門伝説にまつわる場所とされているんだが、これは御霊ごりょう信仰といって祟りをなす霊を神と祀る事で霊を慰めたり、逆に平穏と繁栄を願う思想なんだ。それに将門は奇しくも妙見菩薩を守り本尊としていた。北辰は北極星と北斗七星の神格。もしかすると天海は将門と妙見菩薩の二つの力を得たかったんじゃないか、とも考えられる」
「ダブルのパワーか」
 と姫香が呟くと斎は冷ややかに隣を横目で睨んだ。今度は赤いマーカーに取り替えた真は見ない振りで解説に徹した。
「今度は江戸の結界なんだが、江戸城を中心とした表鬼門と裏鬼門に神社仏閣を置き悪霊や厄への備えとした。こうして赤色で記した表鬼門には寛永寺、神田明神、裏鬼門には増上寺、日枝神社、目黒不動尊がその役目を果たした。そして遙か北には北極星の日光東照宮が繋がっている」
「神田明神は重なっているのね」
「それは偶然だと思う、斎。それより俺は寛永寺に注目したんだ」
「何故寛永寺に」
「寛永寺は一六二五年に天海によって創始された寺で、それを許し、事前に土地を与えたのが秀忠だ。開基は家光だがな。それまで寛永寺はなかった。天海の、江戸の鬼門を守護したいという願いから認められたと言われているが、俺は寛永寺創建が幕府の思惑と重なったからだと思う」
「……幕府の思惑って何かしら」
「斎に尋ねるけど徳川幕府の敵って何だ。もう豊臣家は滅亡している二代将軍の時代に」
 不意打ちされた斎は暫し黙考して「それは各地の大名とかじゃないかしらね」と答えたが真は否んだ。
「確かに反乱の可能性も絶無とは言い難い。しかし徳川家は関ヶ原以降様々な大名を改易かいえきに処した。その大名取り潰し策は秀忠も受け継いだ。それに崇伝によって起案された武家諸法度によって徳川家に逆らう大名はいなくなった。しかし、それでも潜在的な火種が消えた訳じゃない」
「火種?」
「そう、放っておけば大火になりかねない。それが朝廷と宗教、特に比叡山だった」
「ええっ、徳川に逆らう力なんて両方には無かったと思うけれど」
 驚きを露わにする斎に真は首を振った。
「潜在的なと言ったろ。歴史を顧みれば朝廷が原因となった悶着は枚挙にいとまがない。だから幕府は禁中並公家諸法度を出した。叡山もそうだ。いくら信長の焼き討ちで抵抗力を失ったとはいえ再興後はまた権力者に刃向かうかもしれない。白河上皇も手を焼いた山法師だ。秀吉時代に僧兵を置かないと約束しても、徳川で寺院法度が施行されても決して安泰じゃない」
「ちょっと待って、日本史の授業では天海は比叡山の復興に尽力したはずよ」
「それはそうだが天海は徳川に属する天台宗の僧正だ。叡山で大論争が起きた際、家康が天海を判定役の執行探題に遣わせ問題解決に当たらせている。叡山の揉め事はどこに飛び火するか分からない。結局、幕府も天海も意中は同じ、延暦寺を懐柔、いや、骨抜きにする思惑をいつからか持っていた」
「骨抜きって弱体化の意味かしら」
「ああ、正に権力を弱化するの一言に尽きる。それは本願寺対策にも見られた。徳川家は家康の時に京都の本願寺を、長男・教如と三男・准如の後継者争に乗じ西本願寺と東本願寺に分断させた」
「あ、真、それ私昔から不思議に思ってた。何で西と東に別れてるのって」
 姫香の問いに真は詳説した。
「遡れば信長の本願寺攻めに行き着く。長い戦いの末、親である本願寺顕如は信長に降伏したが、長男の教如は徹底抗戦を訴えていた。顕如の死後は天下人秀吉の命で准如が正式な後継者となった。准如は穏健派、教如は抗戦派で両派は互いに対立した」
「兄弟喧嘩って事?」
「そうだ。が、普通の喧嘩じゃない。本山を賭けた戦いだ。教如は形式上隠居したがやがて家康に近付いた。過去三河で一向一揆に苦しめられた家康にとってこの内部分裂は勿怪もっけの幸いだった。家康は天下を掌握すると教如に寺地を寄進し東本願寺を建てさせた。こうして東本願寺をまんまと抱き込んで陰ながら西本願寺と対立させ、本願寺そのものの勢いをいだと言われている」
 真は赤黒二本のマーカーをテーブルに立て、黒マーカーを指で倒した。
 そしてそのまま赤マーカーのキャップを指で押さえ付けて小刻みに揺すった。
「真言の高野山法度や曹洞宗法度など各宗派への法度も手抜かり無く次々発令された。ならば次いで絞めるべき寺は比叡山だった。比叡山にも慶長十三年に法度は出されてはいるがそれだけでは心許なかった」
「心許ない? どういう事」
「法度も必ず守られる訳じゃないんだ。実際、五山十刹諸山法度を出されていた大徳寺と妙心寺はそれを無視した。それが後に朝廷を巻き込んだ『紫衣事件』に発展した。朝廷が幕府に背いて僧侶を任命し、高僧や尼へ紫の法衣や袈裟を勝手に授けた。幕府はこれらの紫衣を取り上げ、楯突いた沢庵ら僧侶を流罪に処して事件の幕引きを図った」
「へえ、徳川も絶対じゃなかったんだね」
「そうだ。だから反逆しないよう徹底した。幕府が寛永寺を創建させたのが弱体化の手始めとなった。寛永寺は別名東叡山とうえいざんという。関東の比叡山という訳さ。天台宗は後に日光山満願寺(後の輪王寺)・東叡山寛永寺・比叡山延暦寺の三本山となった。寛永寺は天海が開山であり、日光も東照宮に深く関与した天海の掌中だった。そこで幕府と天海は比叡山に止めをさした」
 パタリと赤マーカーは倒された。
「止めとは物騒な展開になってきたね、天海だけに」
「姫香、駄洒落はいいから。さて、天海は遺言で家光へ自分の死後寛永寺の山主に都の皇族から親王を迎えるよう伝えた。それは実行され、代々輪王寺宮りんのうじのみやと呼ばれ、多くは日光・東叡山・比叡山の天台三山の山主を兼任し、三山管領宮さんざんかんりょうのみやとも呼ばれた。最高位の座主ざすを兼ねた宮も多い。輪王寺は日光にあるが宮は寛永寺に居住した。つまり江戸に天台宗の権限が集中した。さすがにこうなっては延暦寺も幕府に逆らえなくなったという訳さ」
「凄い企てだね」
「それにもう一つ裏の趣意があったとされる。それは江戸に皇族を置く事で京と争いになった時、朝敵とされない戦略だったとも考えられている」
「わ、徹底してる」
 だな、と真はホワイトボードの図を大社の蟇股図に貼り直した。
「話は遠回りしたが蟇股の謎に戻ろう。家康エリア、秀忠エリアが済んでいよいよ家光エリアに進むんだが、これに関しては姫香の好奇心に依る所が大きかった。張果老の鹿、そして琴高の鯉、そして鬼。姫香が関わらなかったら俺は一生この謎を解けなかったかもしれない」
「え、いきなり褒め殺しは止めてよ」
 姫香は珍しい礼賛にやたら照れたが、真は薄笑いを浮かべた。
「俺は先入観で瓢箪から駒と思い込んでいた。姫香はその故事を忘れていたから子供のような無邪気な視点であれを馬でないと見抜いたんだ」
「……ちょっと上げたり下げたりしないでくれる」
「姫香は褒めると直ぐ調子に乗るからな」
「二人とも仲が良いのは結構だけれど脱線してるわよ」
 と斎が割って入ると、
「だ、誰が仲が良いって」と姫香は素っ頓狂な声を出した。
 斎は鼻白んだ表情で顔の赤い姫香へ向いた。
「姫香ちゃん、あなた、いい加減素直にならないと後で必ず後悔するわよ。そんなのは振られた私だけで充分」
「斎……」
「……本題に入ります」
 指示棒を持って真はばつが悪そうにボードに向いた。
「この家光エリアの謎は張果老と琴高の二枚の縦ラインで本来気付くべきだったんだ。それは鹿と鯉なんだがその共通項は家光の生まれ年に直結していた」
「家光の生まれ年って辰だよね」
「いかにも、これは実にその龍を示している」
「え、え、真、何の事」
「なあ、姫香、お前の脳内で龍ってどんなイメージだ」
 ふいと真は振り向いて己のこめかみを指で叩いた。
 姫香はペンを指で回して思い返した。
「……長い蛇みたいな胴体に角と爪があって、とくらいしか浮かばないね」
「間違いじゃない。けど日本人で即答出来る人間は少ないと思う。大抵漠然とした印象でしかない。しかし龍には大凡の定義があるんだ。それを三亭九似さんていきゅうじという。龍のオリジナルは中国だ。その中国の龍も古から今の姿だった訳じゃない。時代を経ていく度に形態が変わり、やがて一つの形に定まってきた。それが龍はこうですよ、という概念になった」
「概念って」
「例えば、ああ、仏像や仏画ってあるだろ。釈迦如来を彫ったり描いたりする時、釈迦はこうだという決まりがないと一定しない。だから三十二相という三十二の仏の外形的な特徴を元に作成する。それと似た思考だと思ってくれればいい」
「ふんふん、何となく把握した」
「因みに三亭というのは『自首至項、自項至腹、自腹至尾、三停也』、これは首から腕の付け根、腕の付け根から腰、腰から尾の長さが均等という意味で、九似は、角は鹿に、頭は駱駝らくだに、目は兎に、胴体は蛇に、腹はしんに、背中の鱗は魚に、爪は鷹に、掌は虎に、そして耳は牛に似るという言葉なんだ。龍は想像上の生き物であって、陸海空の色々な生物の集合体なんだよ」
「じゃあ、あの蟇股の鹿って龍の角だったの」
「その通り。婆ちゃんの桃太郎の旗の『三九』の数字はまさに三亭九似の事だったんだ」
「和佳さんの?」
 不思議がる斎に真は持ってきたヒント集を手短に説明し、中から桃太郎のイラストを示してから話を繋げた。
「家光エリアは龍を構成する蟇股の一群、即ち角は張果老の鹿、背中の鱗は琴高の鯉、胴体の蛇は十二支の巳、掌の虎は高山社揚香の虎だ」
「待って、真君。それでは四つしか当て嵌まらないわ」
 斎は透かさず過ちを指摘したが真は泰然と応じた。
「斎、話は未だこれからだ。いいか、実はこの九似にはこれ以外に目が兎でなく蝦か鬼という別の説がある。大社には蝦の蟇股なんてない。でもある所に蟇股ではない形で鬼が存在していたんだ」
 それがここだったと真は真禅院本地堂と鬼面の写真を見せた。
「俺は今現在の大社の蟇股だけを見ていたから気付かなかった。真禅院の本地堂は明治時代の神仏分離で朝倉に移転されるまでは今の南門側の神饌所に建っていたんだ。そこにこの鬼面があった」
「鬼の面……」
「実はこの鬼面は謎を隠す天海の策でもあった。寛永再建の資料に『きめん』と記してあるから当初からそれは堂を飾っていた。では参拝者が本地堂、今の神饌所の頭上に鬼の面を見付けた時どう思うか。寺社に鬼面があるのは珍しくない。似たような鬼面が今でも長野の神社でも見られる。しかしそれはあくまでも箱棟はこむねを飾る鬼板に付いていて鬼瓦と同じ『魔除け』の役目を果たしているに過ぎない。日光東照宮の宝物殿である神庫にも結綿ゆいわた(大瓶束の下端の虹梁を挟む装飾彫刻)としての鬼面彫刻があるが、それも魔除けの類だ」
ところが、と真は強調すべく指示棒で本地堂写真の屋根部分を指し示した。
「本地堂では懸魚の下に掛けてある。もちろん結綿としてだ。が、厄除けの類なら境内の神輿舎、神官廊と同じく鬼面の鬼瓦をのせれば済む。しかし本地堂の鬼瓦は三つ葉葵紋であって鬼ではない。北の勅使殿も同じ紋の瓦だから左右対称となる本地堂も屋根を揃え、鬼面を結綿に設けただけという見方も出来るが、この本地堂の本尊は無量寿如来、即ち阿弥陀如来だ。他に十一面観音もいる。軍神の勝軍地蔵も、仏法の守護者である毘沙門天も不動明王も安置されていた。別に鬼面を付ける必要はないんだ。天海は更に念を入れて本地堂の背面にもう一つ別の、口を閉じた吽形の鬼面を結綿で飾った。飽くまでも阿吽鬼で本地堂を守護している体にした」
 一気に話した真は一呼吸おいてから指示棒で高舞殿の北東を軽く叩き、南西の方角へ先を滑らせた。
「またこの場所は方位的に高舞殿の丑寅からは逆の裏鬼門に当たる。ならばここは単に未申ひつじさるの裏鬼門だと思い込んで参拝者はその鬼の真意を知ろうともせず『ああ、魔除け鬼だな』としか認識しないだろう。龍に連なる真相を有耶無耶うやむやに眩ます天海の最上の計略だったのさ。婆ちゃんはそれを見抜いていた。だからさっきの桃太郎のイラストをヒントにした」
「え、桃太郎は何、真」
 姫香は関連を見出せずに聞いてきた。真はおかしそうに聞き返した。
「桃太郎とその供等の敵は何だ、姫香」
「あ、鬼だ」
「そうだろう。そして桃太郎の供の動物は十二支の申酉戌。それは裏鬼門を守るとされる。大社ではそこに鬼面があった。謎を解いていた婆ちゃんなりのユーモアだと思う」
「あはは、ワカ婆ちゃんらしいね」
 ところで、と真は話題を戻し斎に視線を向けた。
「本地堂には鬼面だけじゃなく鷹の蟇股もあった。ここは家光エリアだ。これで龍の目と爪が揃った」
「でも腹と耳と頭が足りないわ」
 何とか論破しようと斎は躍起になって応酬した。
「ところがだな、腹の蜃はあるんだよ。蜃は巨大なハマグリだという説とみずちという説に二分している。『本草綱目』には鱗がある竜類とある。それならば辰年の龍がそれに該当する。それに十二支の中で唯一全身が彫られていないのが辰年の蟇股だ。だからこれはパーツとしての蛟に当たる」
「じ、じゃあ牛は」
「そうだ、牛には少々困ったがそれが家光エリアという事を思い出したら解決した。家光は家康を世界一尊敬していた。懐のお守りに『二世権現・二世将軍』と書いた紙を入れて常に持ち歩き、日光東照宮を何度も改築し十回も参拝している。弟の忠長を寵愛し自分を疎んじていた厭わしい父親の秀忠じゃない。長幼の序を守り将軍に決めてくれた祖父が家光にとっては何より崇敬すべき相手だった。そんな祖父家康に強く憧れていた家光は信念上家康と同体だったんだ。それならば家康ラインには丑年の牛と巣父の牛がいる」
「出鱈目で強引なこじつけだわ」
「かもしれない。では陰陽の方向で再考しよう。高舞殿の動物の向きは覚えているだろう。辰、未、戌、丑だけ逆だ。その土用グループに牛がいる。よって龍の耳は問題ない」
「それも詭弁だわ。いえ、仮にそうだとしても駱駝はどこにいるのかしら。本地堂の蟇股にも三重塔の蟇股にもそんなものは見当たらない。画竜点睛がりょうてんせいを欠くとは正にこれよ。駱駝を見出せない限り大社の謎を解いたとはとても公表出来ないわ」
 目の色を変えて問い質す斎に真は姫香からノートを借りてボールペンで二つの文字を書いて目の前で見せた。
 そこには「駝峯だほう」と記されていた。
 真は抑揚を付けてある言語を発した。
「トゥオファン」
「え?」
「中国語で蟇股の訳だよ。日本ではあの外側の曲線的な脚と呼ばれる部分の形で蛙の股を表すが、元祖の中国では駱駝のコブなんだ。まあ、中国の場合は装飾用の蟇股は無いんだが、元を辿るとその呼び方に行き着く。つまり蟇股の形は全て駱駝となる」
「すごいすごい、真、龍が出来上がった」
 姫香は目を輝かせて拍手した。
「姫香、拍手は早い。本題はこれから。と、その前に家光エリアの楼門南にある蟇股を振り返ろう。呂洞賓と張騫は共に英雄だ。家康が隠者親子であるのとは対照的に。そしてここで斎が指摘した呂洞賓の乗り物が剣でなく木の棒という理由も明らかになった。実はこの波を渡るモチーフは中国語でパーシェンクオハイ、日本語で『八仙過海はっせんかかい』といって呂洞賓を含む八人の仙人が竜王の息子と戦うという故事なんだ。が、龍を形作った家光のエリアに龍と戦う剣があるのは不適切、だから英雄の人物像だけを残して剣を木に変えたのさ」
「……く」
 斎は抗おうとしたが反論に詰まった。真は姫香に向いて話を続行した。
「それと斎は以前馬を頑なに鹿と彫り間違えたと言っていたが、それは別の意味でもあり得ないんだ。何故なら拝殿に『鹿と紅葉』の蟇股が実在しているからだる彫り師は同じ。馬と鹿を間違えようがない」
「えっ、境内に鹿の蟇股があるの」
「見えない場所の蟇股だからな。資料で何とか探れたよ。それにあの張果老の鹿の角は一見小ぶりだから分かりにくいが同じような小角鹿の蟇股は京都北野天満宮の透塀で確認できる。その製作年代は慶長十二年、南宮大社再建の三十五年前だ。共に鹿だと認識できる証でもある」
「そうなんだ」
「そして龍のパーツの話に戻るが、意図するなら高山社の揚香図の虎も同じだ。あれは揚香が虎に立ち向かってその首を絞める図と、ただ虎に向かって手を広げ父を守る二パターンの構図がある。しかしここは家光のエリアで、虎は崇拝する家康の象徴だ。その虎の首を絞める図が選ばれなかったのは当然とも言える」
「うん、そうだね」
「天海は家康・秀忠に仕えたが、家光もまた師としてはるか年の離れた天海を慕ってきた。そのため天海は徳川家を存続させるためには家光の時代に幕府をより盤石にしてもらう必要があった、家光には呂洞賓のような英雄であってもらわなければならなかった。そこで龍だ。龍のパーツは揃った。では何故家光エリアを天海は龍としたのか」
「龍が縁起物だからじゃないの」
「それもあるだろう。しかし蟇股を見てくれれば分かるように回廊以外殆どが中国由来だ。となればこの龍も中国の謂れを持つ。それは即ち王権の象徴だ。龍は元々水を司る神とみなされていた。しかし時が経ちその力から帝のシンボルとなった。帝位は龍の玉座と呼ばれ、中でも爪が五つある五爪ごそうの龍は皇帝の証となった」
「皇帝の証……」
「これは天海の術だ。徳川を揺るがす最も厄介な存在、それは権力を欲する朝廷に他ならない。表向きは幕府と朝廷の間を取り持っていた天海だったが、裏では家光を完全な龍体とし呪術で禁裏をコントロールしようとした。十二支の蟇股の中で家光の辰年だけが口を開いている阿行だ。これは家光が南宮大社を再建したという証明と、家康と秀忠でさえ三代将軍には適わないとする天海の真意だと思う」
「……」
 斎と姫香は理路整然と構築される推理に黙ってしまった。
「それとこれは婆ちゃんの発見というか、解釈なんだが」
 真は例の数字が書かれた絵馬を取り出して二人に見せた。
「俺は最初この記号の+をプラスだと誤解していた。しかし緯武経文のヒントでピンと来た。これは文字の通り緯度と経度、あの数字の羅列は地図の座標だったんだ」
 真は次ぎにホワイトボードに大きな日本地図を貼り付けた。
「座標の数字をおこした順に赤マーカーで印をしていく。最初は日光東照宮、江戸城、久能山東照宮、岡崎城だ。これを江戸城を起点に結んでいくとある線が出来る。先ずは江戸からは北に北極星が見える日光東照宮、それからその東照宮から富士山を経由して線を延ばせばそこには久能山東照宮がある。そして久能山から南に直線を引くと岡崎城が現れ、その線上には京都がある」
「これってまさか」
 姫香が気付いて叫ぶと真はマーカーを振った。
「そう、レイラインだ」
「その奇抜な直線に意義はあるのかしら」
 斎は眉を寄せて顔一杯に不快感を滲ませた。
「これに関しては家康が遺言で話した場所に当たる。そこに家康の力があると仮定すれば江戸から日光を経てやがて京都に行き着く。京都には無論禁裏がある」
「そんなの荒唐無稽だわ」といきり立つ斎に真は同調した。
「まあそうだな。どこまで信用出来るかは俺にも解らん」
「そんな無責任な」
「文句があるならあの世の婆ちゃんに言ってくれ。ただ俺は今回は面白いと考えている。ちなみに婆ちゃんのレイラインは壱弐参と四本ある。さて次は弐のレイラインに行こうか。玉前神社、富士山、南宮大社、元伊勢、そして出雲大社だ。これはご来光レイラインとして有名だ。春分と秋分の日にこのラインから日が昇って沈む。太陽信仰の名残という説もあるが、これは彼岸の中日だ。仏教では先祖に感謝する彼岸会を行う。更にこの二日はあの世の門が開き、このラインには特別な力があるとされる」
「南宮大社も入っているんだ。何か嬉しいね」
 姫香は頭をリズミカルに振った。真は頷いた。
「思いの外見落とされがちだけど江戸から富士山、南宮大社そして出雲というラインを引く事も出来る。これは家康レイラインとご来光レイラインを足したものだ。富士山は霊峰であり『不死』でもある。山岳信仰の対象にもなっている富士の語源は様々有るけれど、竹取物語でかぐや姫から不老不死の秘薬を渡されたものの月に帰った姫に悲しんで日本一高い山でその薬を焼いたという。さて……」
「秘薬」
 急に視線を下げて斎はぼそりと呟いた。
「斎」
「あ、ごめんなさい」
「大丈夫か。顔色が悪いみたいだけど」
「平気よ。続けて」
「じゃあ最後の肆の座標になるが、先ずは日光東照宮、それから諏訪大社」
「諏訪大社?」
「そうだ、姫香。婆ちゃんのヒントの諏訪大社は実はここに出てくるんだ。それから南宮大社、比叡山、最後は京都」
 真はこの座標に全て丸を付けた。
「諏訪大社は一六一七年に上社本社の再建が終わっている。日光東照宮の大造替は一六三四年、南宮大社だけが遅れに遅れて一六四二年に上棟式を終えた。ところで俺は婆ちゃんがどうして破魔矢につけた絵馬にこの座標を記したのか判明しなかったが、今丸を付けた場所を見付けた時に理解した」
鞄から取り出した交通安全のミニ破魔矢を真は日光上の印の上に重ねて、次いで他の丸に沿って動かした。
「矢は何かを射るものだ。時代によっては敵を射る場合もあるだろう。しかしこれは神の矢、呪力で日の本に災いをもたらすものを射貫く。その矢はこうして東照宮の日光で放たれ、建御名方神の諏訪大社で軍神の力を得、次いで金山彦大神の南宮大社で武の力を得て、比叡山を過ぎ、遂には朝廷のある京都に真っ直ぐ突き刺さる」
「ははあ、そのレイラインにはそんな仕掛けが」
 姫香の驚き混じりの眼差しに真は頷いた。
「これは俺の憶測だが、南宮大社の再建が遅れたのは、諏訪と南宮、江戸や富士山など全ての位置を割り出してから東照宮の所在を決めた可能性があるかなと」
「え、そうなの」
「それについては俺の中の推測でしかないよ。ところでこのレイラインは禁裏が裏で乱を企てようが鉄壁の防御で関東を護ろうとする天海の広範囲の呪術なんだ。諏訪大社は元々龍神でもあるし、南宮大社の家光の龍で更にそれを増強する鎮護の呪法といっていい」
「……裏付けは」
 斎は強烈な反感を宿した表情を真へ向けた。
「天海が大社に関わっていたという確たる証拠がなければ宮司だって得心しないわ」
「そうだな、物的証拠なら天海が岡田将監に宛てた書状が残ってる。大社の再建よろしくという」
「そんな程度?」
「後は、大社の東照宮は幕府の指示で天海に建てさせたと記されている。『御子孫万代国家鎮護のため、南宮社に権現様御宮(東照宮)」御鎮座』との命に対応した天海は即座に着工し、上棟式が済んだ翌年四月から祈祷を始めている」
「それも取るに足らないわ。実際大社にも一度たりとも姿を見せてないんでしょう」
「そりゃそうだ。天海は大社再建終了時百七才だ。高齢で度々病に伏せっている。それに複数の寺を兼任している。多忙で美濃には来れなかっただろう。だけど大工頭の木原義久は日光をはじめ天海と共に仕事をしている。木原は大社再建の仕様書、木割帳(部材寸法・部材間寸法の比例を説明したもの)、絵図面を作っている。彼が天海から予め下絵を渡されるなどの指示を受ければ蟇股の細工くらい造作もないし、鹿と馬の間違いを指摘される失敗もない。総責任者の岡田将監も秘密の同士だったかもしれない。第一これは人に知られてはいけない秘法の類だ。天海がやってきては却って怪しまれる」
「そうかもしれないけれど」
「それともう一つ。大社から北に行った石鳥居に『正一位中山金山彦大神』と書かれた神額があるだろ。あれは尊純親王の書跡だ。親王は一六三九年に天海が起草した、家康の一代記である『紙本著色東照宮縁起』の書を担った。親王は後の一六四四年には天台座主となり日光山法務を兼任し、東照宮の営繕を受け持った。天海とは深い縁がある」
「そんなのは単に義理でしかないじゃないかしら」
 益々高ぶってくる斎の語調に真は思い切り息を吐き切った。
「あのなあ斎、お前、俺の話聞いていたか。大社は天台宗との神仏習合だって言ったろ」
「知っているわ、もちろん」
「いいや、一番の根本を少しも理解していない」
「根本?」
「当時南宮大社の本山は江戸寛永寺、貫主は南光坊天海その人だ。真禅院の案内板にも、再建を本寺の寛永寺住職天海大僧正に嘆願したと書いてあるだろう。本寺とは本山の事だ。お前は子会社の社員のくせにうちの会長は誰だ会わせろと喚いているようなものだぞ」
「あ……」
「即ち南宮大社は徳川家の神社であるのと同時に天海の神社でもあったんだ。そして家光の龍はこれで完結する」
 真は誇らしげに部屋の障子をカラリと開けて直ぐ南にある本殿の軒下を手で示した。
「わあ、龍の群れだ」
 姫香は立ち上がって蟇股の横を飾る、数多の龍の木鼻彫刻に驚愕した。
 最終を迎えた真は指示棒を一気に縮め、斎に目を細めた。
「阿吽の龍達が本殿の四面と四隅を囲んでいる。どうだ、斎。これでもまだ納得しないと言い張るか」
 すると間も無く斎は諦めた笑いを浮かべ軽く拍手した。
「さすが史学博士ね。これは宮司へ見せるに値する研究結果だと思うわ」
「じゃあ、斎も認めてくれるのか」
「ここまで証を畳み掛けられては異論を差し挟む余地も無いわね。あ、そうだわ、折角の発見なんだからささやかなお祝いをしましょう。ちょっと二人とも椅子に座って待っててくれる」
 斎は思い立って立ち上がると一旦廊下に出てどこかへそそくさと出て行った。真は斎の座っていたパイプ椅子に腰掛け、隣の姫香と色々語っていた。
 それから程無く盆に三人前の小さなグラスに注がれた日本酒と、小鉢に盛り付けられた山菜の煮付けを運んできた。見るとその煮物は珍しくたっぷりの擂り胡麻で和えてあり、胡麻の香ばしい匂いがプンと漂ってきた。
 一献どうぞと斎から二人は酒のグラスをテーブルに置かれたのだが、真は、
「折角だけど俺はバイク、姫香は代車で来ているから少量でも飲酒運転になる」
 とやんわり断った。
 斎は、では、と小鉢の料理を差し向けた。
「煮染めだけでも食してくれると嬉しいわ。ぜんまいとふきは旬だから滋味に富んでいるのよ。本当は授与所の皆にお裾分けしようとしていたのだけれど」
「それ、もしかして斎の手作りなの」
「ええ、お口汚しだけれどよかったら」
「ラッキー、頂きまーす」と姫香は指で掴んでそれを口に入れモグモグと噛んだ。
「うん、美味しい。さすが料理上手の斎ね」
「こら、姫香、箸を使え。みっともない」
「いいえ、手で構わないわよ。さ、真君もどうぞ」
 ニコリと唇を綻ばせる斎に小鉢をすすめられた真はためらった。
 姫香は気付いて笑った。
「あ、そか、真、苦いの苦手だったっけ。大丈夫だよ、斎の煮付けはあく抜きも完璧だし、出汁きいてて美味しいから」
「本当か」
「ホントホント、ほらほら」
 姫香は嫌がらせの眼で小鉢を奪い取って口の前に持ってきた。
「近付けるな。食べる、食べるから」
 苦悶の表情で真は指で山菜を摘んで急いで口に入れた。そして少し噛んだだけで無理矢理呑み込んだ。
「どうだったかしら、真君」
 斎は感想を求めてきた。
「悪い、味分からなかった」
「ふふふ、正直ね」
 斎はおかしそうに笑った。
「でも、真、とうとうやったね。まさかこんな大掛かりな謎解きになるなんて思ってなかったよ」
 姫香は機嫌良くペットボトルのお茶を一口飲んだ。
 真も同じように茶を口にした。
「そうだな、俺も最初は張果老の蟇股を見付けただけで大発見だと舞い上がっていたからな。まさか大社に天海がここまで関わっていたとは予想していなかった」
「凄いねえ、昔の術師ってこんな壮大な仕掛けするんだ」
「いいや、博識の天海だからこそさ」
「天海って明智光秀以外のイメージ無いないから、今回の件で親しみ湧いたよ」
「一部では方広寺の鐘名事件に崇伝と組んで豊臣家に難癖付けた悪人ってイメージがあるみたいだけど」
「悪人?」
「そうなんだ。天海の真意を知らない人間がそんな勝手な……」
 と、ここで姫香がいきなり話を遮る左手を挙げ、
「あれ、真、何だかほっとしたら急に眠くなってきた。睡眠不足、なの、かな」
 倒れるように机に伏してしまった。
「おい、姫香、こんな所で寝るな」
 真は隣で寝息を立てる姫香の肩を揺すって起こそうとしたが、自分も突如左腕に痺れが来て平衡感覚がなくなり、同じように机に倒れ込んだ。
「……な、何だ、これ」
 すると苦しむ真の前に斎が静かに立った。
「ごめんなさいね。あなた達は慈眼大師様の秘密を知りすぎてしまった。だから煮染めの胡麻に無味無臭の薬を混ぜさせてもらったの」
 冷徹に微笑む斎を見て真はおののいて問い掛けた。
「大師様、って……もしかして毒を、盛ったのか」
「まさか。私達は神に仕える身よ。殺生はしないわ。ただ少し忘れてもらうだけ」
「忘れて、もらう?」
「そうね、恐らく後数分で記憶が消えるから真君には教えてあげる。私が使った薬は昔から大野家に伝わるとっておきの仙薬なの。真君のように大師様の秘術を暴く人からそれを守るのが私達大野家の役目なのよ。あの龍は日本を守護する大切な神呪。暴露させる訳にはいかないの」
「大野家が……」
「そう、私の家は遡れば陰陽道の賀茂家に行き着く。大野は賀茂の分家で小さな規模で薬の調合に携わっていた。やがて戦国の頃になると大野の家は没落していった。それを救って下さったのが慈眼大師、天海様だったのよ。惜しみもなく未知の呪術を授けて下さったのも大師様。そして本草を極めた方を紹介して下さったのも大師様。それを元にして完成したのがこの『時亡散』よ。ちなみに馬鹿の蟇股なんて大社には伝わっていないわ。あれはあなたが解いたように龍の角だった」
「……嘘、だった、のか」
「方便よ。あなたが気付いた高舞殿の動物の向きとかには驚いたけれども。ただ龍の秘儀だけは別。龍は日本を護る聖獣。町おこしなんかのために大師様の重要な術を公開させてたまるものですか。真君も途中で諦めてくれれば良かったのに。何度も警告したでしょう」
「……俺を登山道で襲わせたのも、全て、お前の、差し金か……」
「いいえ、あれは分家の者の独断なの。きつく叱っておいたから許してね」
 分家と聞いて虚ろながら真は納得した。斎を「お嬢様」と呼んでいたのはそうだろう。
「そう、か……、安心したよ。でも、どれくらい前の、記憶が、消えるんだ」
「確信はないけれど多分、一月か二月の間だけだと思うわ。一日寝込んだ後に目覚めたらすっかり忘れてるはずよ」
 斎は半眼で説き明かした。
 それでも真は力の限り嘲笑した。
「……甘いな、家には蟇股の書類やら、パソコンにはデータも、ある。思い出すさ」
「甘いのは真君よ」と斎は哀れみを伴った薄笑いを返した。
「私達がそんな事態を想定していないとでも。寝込んだあなたは分家の男衆に運んでもらうわ。幸い独り暮らしのあなたの部屋の書類はその時に処分させてもらうし、パソコンとスマホに詳しい者にパスワードも解析させて、残らず関係データは消去させる算段はもうつけてるの。クラウドのデータもよ。姫香ちゃんの部屋も同じようにね」
「はは、チクショウ。手筈は完璧、に、整えられて、いる、のか。まさか斎に、謀られるとはな」
「心苦しく思ってるわ。幼馴染みのあなた達にこんな真似をするつもりはなかったの。姫香ちゃんが観光係でなければ、そして真君が史学博士でなければ三人とも平穏無事な時間が送れたはずだったのに。運命は残酷だわ」
「斎……」
「何かしら」
「俺は、忘れない……、何があっても。明神湖で、約束、したろ……」
「無理よ。あなたでも秘薬には抗えない。残念だけれども」
 斎は意識が朦朧もうろうとなる真へ悲しげに首を振った。
「お休みなさい、真君。目覚めたらまた仲良くしてくれると嬉しいわ」
 そうすると真から力が抜け、瞼が完全に閉じて呼吸音だけが漏れてきた。本当にごめんなさいと、斎は眠ってしまった二人から離れ、運搬の応援を呼ぶために自分のスマホを取り出した。
 と、その時、背後から、
「信にして之を安んじ、ひそかに以て之を図る。備えて後に動き、変有らしむることなかれ」
 と耳慣れた声がした。
 驚いて斎が振り返るとそこには真が平然と足を組んでほくそ笑んでいた。
「敵に信頼させて安心させ裏で計略を練る。準備した後に動いて変化に気付かせてはならない。いや、斎も中々の策士だったよ」
「……ど、どうして。あの薬が効かないなんてあり得ないはずよ」
「姫香、もう起きていいぞ」
 真は、焦る斎をよそに隣の姫香へ声を掛けた。
「あ、終わった? どうだった、真、私の狸寝入りは」
 姫香は跳ねるように姿勢を戻して真に向いた。真はその頭を左手でポンポンと叩いて褒めた。
「よかったぞ。倒れ方なんてアカデミー賞ものだ」
「えへへ、入念な特訓の成果だね。でも食べ物がクッキーとかだったら手品の要領ですり替えなきゃならなかったし。煮染めでよかったよ」
「大野の家柄上、和の物と予想してた通りだったな」
「飲み物もペットボトルで持ってきていたから勧められなかったしね。ただ、車なのにお酒は斎にしては抜けてたかな」
「それくらい我を忘れていたんだろうよ」
「二人とも、何故……」
 困惑した斎は容体を確かめるべく直ぐ近くまで寄ってきた。
 真も姫香も共に立ち上がって右掌を開けた。
 そこには口に入れたはずの煮染めが乗っていた。
「最後まで確認しなかったのは迂闊うかつだったな。俺達、振りだけで全く食べてないんだ」
「私を欺いたのね!」
 責めるように斎は二人に声を荒げた。
 そうすると姫香は平静に反論した。
「それ、斎が言うの。私達を散々騙しておいて。挙げ句真を襲って私達に薬まで盛って。これって歴とした犯罪だよ」
「犯罪……」
 斎はその単語に反応してか、突如真と姫香が手に持っていた煮染めをつかみ取り、廊下に出ると西の塀越しに投げ捨てた。
「どう、これで証拠は無くなったわよ。さあ、それで警察には何と訴えるつもりかしら」
 ハアハアと息を切らせ戻ってきた斎は障子を閉めると勝ち誇ったように半笑いした。
 しかし真は困った素振りもなく自身のスマホを取り出し左右に振った。
「そんな事態を想定して今日の会話は全て録音してあるんだ」
「な」
 斎は驚愕して息を止めた。更に真は追い打ちを掛けた。
「俺はお前が傍観的態度を装い、裏で糸を引いていたのを結構前から勘付いていた。だから用心していたのさ。しかし油断して水を向けた途端全てを白状するとは語るに落ちたな。さあ、これで逃げ道は塞がれたぞ。どうする」
「何を。いくらでも音声なんて合成出来るわよ。そんなの証拠にならない。証人でもいれば別でしょうけどね」
 睨む斎に姫香は「斎、ちょっと思考おかしいわよ」と案じた。
 斎は叫ぶように言葉を返した。
「姫香ちゃん、あなたは知らないでしょ。大野の役儀がどれ程大事か。何百年、連綿と受け継いできたご先祖様からのお役目を私の失敗で終わらせる訳にはいかないのよ。大師様のお心に反するのは大野家の巫女として許されない」
 しかしながら真は斎の肩を叩いて哀れんだ。
「斎、もうお前は王手をかけられた。既に詰んでるんだ」
「馬鹿言わないで。まだ私は負けていない」
 斎はその手を必死に手を振り払った。
 やれやれと往生際の悪い幼馴染みを不憫がった真は姫香へ振り向き、意味ありげに顎を動かした。
 姫香は黙って頷き、ペンケースからサイコロ大の機械を取り出し真に渡した。
 真は斎へそれを指で挟んで示した。
「斎、これは小さいけれどウェブカメラなんだ。このカメラの映像と音声は通信で特定のスマホかパソコンに送られる。姫香のペンケースに穴を空けてそこに設置しておいた」
「ふん、それが一体何かしら」
「うーん、これで気付かないとは随分冷静さを欠いてるな」
 真は次いでカメラに向かって「お待たせしました」と声を掛けた。
 そうすると間も無く廊下を歩く音がして障子がゆっくり開いた。
 見ればそこには紫色の袴を履いた白髪混じりの神職が立っていた。
「う、上陽宮司。どうして」
 明日にしか帰社しないはずの宮司の姿に斎は青ざめた。
 宮司は困却した表情でスマホを掲げた。
「斎君、坂城さんのウェブカメラで今日の遣り取りを一部始終見せてもらいましたよ」
「え」
 ガタガタと震えだした斎に真は状況を説き明かした。
「実は先日こっそりと宮司に連絡を取って、多分こうなるだろうとそれまでの経緯を全て話したんだ。その上で証人になってもらうために無理に帰ってきてもらい、別室で隠れて映像を録画してもらっていたんだ」
「は……」
 斎は膝から崩れ落ちた。
 そして観念したのか、真に尋ねた。
「いつから気付いていたの」
「お前にいくつかおかしな点があったからな」
 真は斎の前にしゃがんで明かした。
「姫香が斎は大社の歴史に詳しくないと語っていたがそうではなかった。さっきもそうだ。お前は無意識に本地堂の蟇股や三重塔の蟇股と口にした。あれは社の歴史に詳しい者でなければ咄嗟に出る言葉じゃない」
「う」
 明らかな図星に斎は反論も出来ない。真は間髪入れず切り込んだ。
「それにバイクのブレーキ外しにしろ、登山道の奴は別として、明神湖の帰り道でどうしてドンピシャで犯人が闇討ちを行えたのか、そして待ち伏せ出来たのか。それは首謀者であるお前が陰から指示していたと考えれば無理がなかった。普通ナンバープレートをガムテープで隠し、公道を走っていれば警察に通報されてるだろう。しかし犯人は捕まっていない。それは明神湖でお前の計画に従って待ち構えている時に貼ったからだ。そしてそのまま俺達を狙ったそいつはバイクの後ろに乗っている斎に怪我がないようリアフェンダーだけを狙ってきた。もし真剣に殺そうとするならもっと力強く当ててきただろうしな」
 それに、と真は続けた。
「お前は俺に薄々疑われていたのに気付いたのか、自分も共に襲われるよう仕向けた。それで疑念を逸らそうとした。しかし姫香が救援に現れた。ま、あれも姫香にGPSで俺の位置を逐一知らせていたから助けに来てくれたんたけどな。それで実行犯は逃げたが俺は謎解きを強行するとお前に告げた。お前は目的を遂行出来ずに焦った。そうなればお前は必ず実力行使に出ると踏んだんだ。そう、例の薬の使用をだ」
「時亡散を知っていたというの」
「まさか。ただ薬については怪しい兆候があった。最初は例の黒パグが登山道で失神していたのをツイッターで知った時だった。その内容から初めは病気か傷んだものを拾い食いしたのかと思ったが、吐いてもいないし、飼い主がペットフードしか口にしないと書いていたのが妙に引っ掛かった。そして次に野生の鹿が倒れた。それを俺は変だと感じたんだ」
「あの鹿騒動が変、何故ですか」
 この時、立ち上がった真に宮司が不思議な顔付きで質問してきた。
 真は状況を細説した。
「あの鹿はもう何年もの間、登山道で草を食べに降りてきてました。恐らく同じ個体でしょう。野生の鹿は何が毒草か知っているんです。それなのにパグ同様に倒れた。それも暫くしたら立ち上がって山に消えていった。これはもしかしたら何かを誤って口にしたんじゃないかと目星を付けて登山道の草むらを探したんです。そしたら案の定これが見つかりました」
 真が鞄から取り出したのは透明な袋に入った何粒かの小さな俵型のペレット餌であった。
「掃除をする振りなどして撒いた犯人が回収し損じたんでしょうね。辛うじて捜し当てたこれはウサギのペットフードです。あのパグが食べていたものと同じメーカーのものでした。犯人もネットで見て知ったんでしょうね。それで知り合いの薬学の研究者に急遽これを送って、薬の混ざっていないものと比較した成分分析を依頼したんです。そうしたら漢方を始め、後は口には出来ませんが様々な薬効成分が検出されたと報告がありました。彼は薬が無臭なのに大変驚いていましたが」
「そうだったんですか」
「はい。でもそれだけではありません。実はタルイピアセンターでこういった日記を見付けたんです」
 真は例の『かなやま禰宜記』のコピーを何枚か宮司へ手渡した。
 宮司はペラペラと中をめくった。
「こんなものが図書館にあったんですね。知りませんでした」
「どんなプロセスで所蔵されたかは謎ですが」
 真は手短に猿とカラスの件を話して、今回の事件と似ているとして解明に拍車を掛けた。
「それからその数日後の記事に、『権左衛門、役儀を失念致し候。若いと雖も障りあり。遂にその任を解かるる。迷惑なる儀に候』とありました。権左衛門が誰かは知りませんし、何をしでかしたのかも分かりません。ただ若いのに失念した、それも役を解任されるまでの物忘れをした、というのがひどく気になりましてね。それから例の鹿騒動が起きたんです。また、その記録には世代を経て同じような物忘れの事例が載せてありました。そこから導き出されたのがこれは脳の、特に記憶中枢に作用する薬を口にしたのではないかとの推測に到ったんです」
「しかし世の中にそんな薬が存在するとは」
「海外では記憶を削除する薬が研究されていますよ。まだ初期段階ですが」
「成程、しかし何故薬入りのペットフードを登山道に撒いたのでしょう」
 宮司は相槌を打ちながら思いを廻らせた。
 真は少し笑って返答した。
「簡単ですよ。先ずあのパグには大社が迷惑をかけられていました。それと万が一私が謎を解きそうな時のための予備実験だったんです。さすがに人に対して薬を躊躇ちゅうちょ無く使うとは考えられませんからね。恐らく大野家の秘薬を記した書物には使用分量が記してあるでしょうが、念のために犬で試したんだと思います」
 すると正鵠せいこくを射られた斎が背中を丸めて大声で泣き始めた。
「私はもう終わってしまった。罪人となり大野の役目も果たせずどうしてご先祖様に顔向け出来ると言うの。今まで耐えてきたこのちっぽけな人生にはどんな意味があったの。もう生きていく価値すら私には無くなったわ」
 それは膨張していた悲痛が一気に爆発した号泣で、理性的で穏やかな斎がこんなに激しく取り乱す姿は初めてであった。
「斎」と真は泣きじゃくる斎の前に再び寄り、その頭を撫でて語った。
「これもお前の役目だったんだよ。大野家の嘆かわしい定めに終止符を打つためのな」
「……え」
 斎は涙でクシャクシャになった顔を上げた。
「本当はお前も知っていたんじゃないか。大野の使命が明治時代に疾うに終わりを告げていた事を。神仏分離令で家光の龍は真禅院と南宮大社に真っ二つに切断されて効力が無くなっていた事を」
「あ、う」
「いや、神仏分離が及んだのは大社だけじゃない。日光東照宮では相殿の山王権現と摩多羅神が頼朝と秀吉にすげ替えられてしまった。頼朝は家康の尊敬する源氏の棟梁、そして秀吉は旧敵だ。明治政府はその二人で家康の力を押さえ込んだ。そして叡山では支配下にあった日吉社の神職が破壊の限りを尽くした。そして京では天皇が復権した。あの時点で何もかもが終わっていたんだ」
「だったら余計惨めだわ。全てを失った私には気力なんてない」
「そうかな。失望するのは早いと思うぞ」
 真は宮司に目配せした。すると宮司は障子から首を外に出して誰かを呼んだ。
 そうして部屋に入ってきたのは斎の婚約者の橘和彦であった。
「橘さん!」
 驚き焦る斎は真を見た。真は橘の隣に進み最後の一手を打った。
「俺がもう一人の証人として呼んだんだ。上陽さんと一緒に一から十までここの様子を見ていただろう」
 斎は引導を渡されて声にならない悲鳴を絞り出した。
「あなたはどこまで酷い人なの。私を晒し者にして楽しいの!」
「いいえ、それは違います、斎さん」
 慌てて和彦は挙措を失った斎の側に寄って手を取り真意を明かした。
「私は坂城さんから斎さんを助けてほしいと依頼されたんです」
「……私を、助ける」
 汚く罵られるか、蔑視されると思いきや、意外な反応に斎は動転した。和彦は言った。
「そうです。私は先日あなたの全てを彼から聞きました。あなたが苦しんできた境遇、悲しんできた涙も全て。私は婚約者なのに恥ずかしながら全然知りませんでした。だから私はあなたを助けに来たんです。あなたを縛る大野の鳥籠を壊しにやってきたのです。私はこれから大野家へ乗り込んで直談判に行きます。大野家が負ってきた役目はもう終っていると、そして斎さんを解放するようにと」
 斎はその勢いに驚いたが遣る瀬無く項垂れた。
「でも私は犯罪者です。私には橘さんにそんな温情を施される価値はありません。第一橘家に傷が付きます。ですから婚約は解消して下さい」
「くだらない、家がなんですか、家なんて糞食らえです!」
「た、橘さん」
 叫んだ和彦は更に強く斎の手を握った。
「私は家と婚約したんじゃない。斎さん、あなたという一人の人間が好きになったんです。確かにあなたのしたことは罪かもしれない。しかしそれだって懸命に役目を果たそうとしたに過ぎない。あなたはそのためにずっと自分を殺してきた。だけどもういいんです。結婚したら一緒にファーストフード店を巡りましょう。ケーキバイキングも制覇しましょう。カラオケだって私は音痴ですが共に歌いましょう。ライブハウスも買い物も好きな所へ行きましょう。旅行も国内だけじゃなく海外にも出掛けましょう。あなたがこれまで出来なかった事を山ほど成し遂げましょう。あなたの人生はこれからがスタート地点です。もう斎さんは自由なんですから。だから改めてお願いします。私と結婚して下さい」
 大人しかった和彦からこんな怒濤の提案をされた斎は目を丸くしたが、
「お気持ちは嬉しいです。それもこんな私を好きになって頂いて。しかし私は今日の件で罪を償わなければなりません。これから警察へ出頭します」
 と失意に手を離した。
 すると真が、「あれれ、録音データが急に消えたぞ。故障かなー」と棒読みで上陽にスマホを向けた。宮司も頭を掻いて単調な声を出した。
「おや、それは困りました。実は私も録画し忘れていたようで。これでは証拠がありませんねえ。斎君を訴えようにも不起訴確実です」
「……真君、宮司」
 二人の明らかな三文芝居に斎は戸惑った。
 その時、斎の前に姫香が座ってその曇った額を指で弾いた。
「馬鹿ね、斎は。私達が幼馴染みのあなたを訴える訳ないでしょ」
「姫香ちゃん……」
「真のバイクと私の車の修理代だけ払ってくれれば帳消しにしてあげる。何せ小学校以来の大親友でしょう、私達は」
「ごめんなさい、ごめんなさい、姫香ちゃん、私、酷い事してごめんなさい」
 また斎は泣いて姫香を抱きしめた。
「もういいってば。それより潔い良い婚約者さんじゃない。幸せになってよ。大野の巫女じゃなく一人の女として、ね」
「ありがとう、姫香ちゃん」
 いつまでも泣き止まない斎に真と上陽は顔を見合わせて笑んだ。
 それから暫くして宮司はようやく涙を止めた斎に申し出た。
「斎さん、私も大野家への説得、微力ながらお手伝いさせて頂きますよ。それに来年、事務の大山さんがお辞めになるんです。あなたにその後を任せて良いですか」
「……またここで働かせて頂けるんですか」
「もちろん。あなたは優秀な人材です。手放す理由がありません」
「ありがとうございます」
 斎は深々と頭を下げた。
「橘さん」
 ここで真が斎の側で見守っていた和彦に声を掛けた。
「はい」
「この大社の拝殿には鳳凰、そして本殿には龍がありますよね」
「ええ」
「実は中国ではその二つは龍鳳呈祥りゅうほうていしょうと言って結婚の象徴なんです。だからあなたが龍となり鳳凰の斎を幸せにしてあげて下さい。斎は俺達の大切な幼馴染みです。どうかお願いします」
「任せて下さい。生涯彼女を守ってみせます」
 ドンと拳で胸を叩いた和彦に安堵した真は三度斎の前に進んで静かに笑んだ。
「心気清朗にて明敏、人の毀誉褒貶きよほうへんに心を動かさず、憤怒の色無く、高貴に媚びず、卑賤ひせんを侮らず、心浩然こうぜんとして更に動くことなし」
「え?」
 赤く目を腫らした斎は不可解な表情で真を見た。真は慈しみを込めた手で斎の頭を撫でた。
「『慈眼大師縁起』の天海評だよ。天海は私利私欲でこんな術を仕組んだ訳じゃない。全部日本の平安を祈っての結果だった。徳川家が繁栄すればもう戦が起きないのを予見していた。その術は神仏への祈念だった」
「真君」
「それに天海は罰せられようとした者達に救いの手を差し伸べた。大久保忠隣、福島正則、徳川忠長、それに紫衣事件で罰を受けようとした沢庵に崇伝は厳しく処断しようとしたが、天海は逆に罪を軽くするよう訴えた。天海は情に溢れた心優しい僧侶だった。だからきっとその天海が苦しむ斎を解放しに俺を遣わせた、そんな気がするんだ」
「真君、ありがとう」
 斎は悲観の涙顔を飛び切りの笑顔に変えて頭を下げた。
 真は次いでしたり顔で姫香に向いた。
「これで一件落着か。さあ、姫香、これから忙しくなるぞ。この一件が知れ渡れば垂井は脚光を浴びて人が山のように押し寄せるからな」
「そうだね、やり甲斐があるよ」
 姫香は勇んで力こぶを作った。
 しかし、上陽がここで唐突にストップを掛けた。
「お二方には申し訳ありませんが、この蟇股の件は一切御内密に願います」
「ええー、また! 宮司さん、それは無いですよ。私も真も凄く頑張って謎を解いたのに」
 姫香が必死に抗議したが上陽は斎に憐れみの目をやった。
「あれはこれまで長きにわたって大野家が保持してきた秘中の秘です。観光目的に曝け出されるのは彼らの忍耐の歴史を踏み躙る行為のような気がしてなりません。それに当社はあの蟇股で参拝者を増やそうとは思っていません。花手水や風鈴手水などで少しずつですが大社に訪れる方が増えています。私達は派手でなく地道にやっていこうと思っているんです。ですから私の顔を立ててそっとして頂けませんか」
「でもー」
「もちろん、ただでとは申しませんよ。交換条件に天海大僧正より代々引き継がれてきた宝箱をお見せ致します」
「宝箱!」
 姫香は即座に食い付いた。しかしそれ以上に反応したのが真であった。
「当然この謎は口外しません。誓います。ですからその宝箱を見せて下さい」
「ちょっと真、一人で即決しないでよ」
「何だ、姫香は見たくないのか。あの天海のお宝だぞ」
「うう、そりゃ見たいけど」
「じゃ、決まりな。それに宮司の上陽さんの許可が下りなければそもそも蟇股暗号は発表出来ないんだ。諦めろ」
「無念でござる」
 姫香は大きく肩を落としながらも瞳だけは期待に光っていた。
 暫しお待ちをと宮司は部屋を出て行った。
 それから五分くらい経って上陽は真っ白な風呂敷に包まれた長方形の箱を恭しく運んできて机の上に置いた。
 斎は上陽に尋ねた。
「大師様から預かり物などあったのですね。私達大野の者には告げられておりませんでした」
「我等も大野家の役目は知らされていなかったですからね。おあいこです」
 と宮司は片笑んだ。
「口伝によると当社の再建より執行となった者だけがこれを申し送られたそうです。明治の時に何らかの理由で当社に譲渡されたようですが。但しどのような高位の者であっても『龍の御心』を解さねば開封は断じて許すまじと固く決められ、また禁を犯す者は東照大権現により代々神罰冥罰みょうばつを蒙るしとの定めもあります。ですから開けたという話は伝わっていないんです」
 上陽はそれからこの場で簡易な祈祷を済ませると風呂敷の結びを解いた。
 中から現れたのは長さ三十センチ、幅十五センチ、高さ十センチ程の黒漆塗りの文箱で、表面には蒔絵で彩られた瑞雲と葵の紋が一つ、そしてその後ろには螺鈿でキラキラ輝く登り竜が見えた。そしてその箱の中央には三センチの茶色に変色した、厚みのある帯紙が横にしっかり巻いてあり、「南宮権現ヘ 寛永二十年、東照大権現様勧請後之ヲ封ズ」の文字が縦方向に右から左へと書かれていた。
「これは何て書いてあるの、真」
 姫香は外箱の美しさに見惚れながら聞いた。
 鑑定役の真は一人椅子に座り、宮司から貴重品を扱う白い手袋を受け取りながら江戸の文字を読み上げた。
「南宮権現、これは神仏習合時の南宮金山彦大神の呼び名だ。別に明神とも呼ばれていたがな。そして寛永二十年は上棟式の翌一六四三年、三重塔が完成し、社内に南宮東照宮が建てられた。その年に帯で封印したと書いてある」
「へえ」
「それに施された封は一度も破られていないようだ。そりゃ徳川将軍家の家紋が入って東照大権現と記されていれば社僧側は誰も恐ろしくて開けようとしなかっただろうよ」
 真は手袋とマスクをつけた。
「しかし、宮司、このお宝が真君が解いた謎とどう繋がるんですか。単に箱の蓋が龍だからですか」
 斎が不思議そうに問い掛けた。
 上陽は照れ臭そうに頭を掻いた。
「実は恥ずかしながら私も一度龍の御心に触れたくてね、かれこれ勘考したんです。しかし結局何も掴めなかった。ただ、この箱にヒントがあるかもとこっそり調べると箱の裏の帯に小さい文字で『判じ物』と書かれていました。判じ物とは文字や絵に隠された謎の事。私はここでお手上げでしたが、よもやこの令和の時代にそれを解読する人が現れようとは」
 真はそんな二人の会話をよそに小さなハサミを手にしてゆっくり下の方の帯を切った。
「いよいよお宝と対面だ」
 高まる期待を抑えて真は慎重に上蓋を引き上げた。
「……書状」
 覗くと中に見えたのは縦に折り畳んだ、少し茶色に変色した和紙であった。真はそれをゆっくりと取り出し机上で静かに広げた。
「これは」
 周りを取り囲んだ皆が揃って声をあげた。
 その一メートル幅の丈夫な奉書紙には一杯に張果老の墨絵が描かれていた。それも鹿の角にはしっかりと丸が付けられ「龍角」と記されていたのである。
「これは例の蟇股の絵様だ。解読は間違いじゃなかったんだ」
 自分が推論した歴史の謎解きが正しかったとこれで証明された。学者冥利に尽きた真は感極まって椅子の背もたれに背中を寄り掛からせた。
 姫香は、何か物凄い財宝が入っていると思っていたのか、酷く残念がっていたが、真は挑んだ謎に時を超えて正解を与えられた気がして嬉しかった。
「あら、真君、下絵の左下に何か小さく絵が描かれているわ」
 斎の指摘に真は体位を戻した。そしてその箇所に瞳を凝らした。
 確かに絵様には無い墨絵の北斗七星、それは柄が下を向いているのだが、とその下に、波飛沫が弾けている二頭立浪紋が三つ横並びに描かれていた。
「これは何か特別な含みがあるのかしら」
 斎を始め皆が考え込んだが、真一人だけはマスクを外し直ちにカラカラと笑った。
「真、何がおかしいの」
「いや、絵に深い作意はないよ。これはサインだ」
「サイン?」
「姫香、北斗七星はどこで輝いてるんだ」
 唐突な奇妙な問い掛けに姫香は即答した。
「そりゃ北の夜空だけど」
「空を別の漢字一文字で表現してみたら」
「えっと、天かな」
「そうだ。そして下の立浪紋は海を表す。さてこの下絵の作者は」
「天海!」
 今度も皆が声を揃えた。真はただ苦笑いした。
「全く、最後の最後まで楽しませてくれるよ、慈眼大師様は」
 と、ここで上陽が何かを思い出したのか手を叩いた。
「すっかり忘れてましたが、この文箱は『めいち箱』とか『龍箱』とか呼ばれているんですが、先代の宮司が一度謎を解いた人がいて、その方に箱の開封を勧めたそうです。けれど、将来の孫に譲りますと開けなかった、と伝え聞きました」
「……婆ちゃんだ」
 真は更におかしくなり「敵わないなあ」ともっと笑った。
「あれ、ワカ婆ちゃんは大野の家からマークされなかったのかな」
 姫香は純粋な疑問を抱いた。孫の真でさえここまで執拗に脅され、挙げ句記憶を消されかけたのである。
 上陽は、ああ、それならと打ち明けた。
「何でも寄り合いの席でこっそり先代に話したそうですよ。知らぬ所の遣り取りで大野家は気付いてなかったと思います。先代も宝箱の謎は解けずに多分箱の龍模様を見て、開けてみますか、くらいの気持ちだったんでしょうね。そういう方でしたから」
 上陽の半笑いに姫香も同じ笑みを浮かべた。

「お宝、良い目と脳の保養になりました」
 暫くしてすっかり謎解きの余韻を堪能した真は合掌し、その下絵を元通りに折り畳み、箱に戻そうとした。
「あれ?」
 ふいと真は奇妙な表情を作った。
 最初確認出来なかったが、開けた箱の底に下絵のサインと同じ縦左向きの七つ星が浮き出ていて、その横に小さく三本の竹が蒔絵で描かれていたのに気付いたのである。
(また北斗七星。でも天海のサインなら立浪紋がないな)
 不自然さを感じた真は箱の側面に目を近付けて観察した。するとうっすらとではあるが底から四センチくらいの所に半周に渡って切れ目が見えていた。
 真は呟いた。
「これはカラクリ箱かもしれない。絵様を入れるには高さがありすぎる」
「カラクリ箱」
 はっとした姫香も側に寄って箱を注視した。
「ホントだ。隠してるっぽいね」
「だろ? しかし、江戸初期にカラクリ箱なんて発明されていないんだけど。どう見ても怪しいな」
 真は先ず底を壊さないように軽く引っ張ったりしたがびくともしなかった。
 大社に伝わる貴重な天海の宝箱である。これ以上無理な力は掛けられない。第一知恵者の天海なら力業を使わせる野暮な仕掛けはしないだろう。
 ハラハラと不安げに見つめる周囲の中、真は熟慮してから、もしかしてと底の北斗七星をポケットに入れていた拡大ルーペで覗いてみた。
 そうすると七星の底にも格子状の線が引かれていた。
(これはもしや箱を開けるプッシュキーになっているのか。それなら考えろ考えろ、天海がこれを作らせたとしたらどんな細工をするか。三本の竹、北斗七星……)
 真は額を拳で叩いた。するとパチッと電流が走った。
「待てよ、三本の竹……徳川の三本の竹とくれば」
 真は迷うことなく上から三番目の星を人差し指で押し込んだ。
 するとカチャリという音と共に星が一センチほど沈んだ。
(竹は三本、ならば次の竹は)
 次いで四番目の星を同じように押した。
 また同じような鍵が外れるような音と共に星が下がった。
「よし、いいぞ。最後はこれだ」
 真は最後の五番目の星を押し入れた。
 カチャリと音はした。星も沈んだ。だが、それ以上箱に動きは無い。
(何故だ、どうして開かない)
 皆の期待する視線が注がれている。
 当てが外れて真は困惑した。
 押した星が戻らないのは一発勝負の鍵なのだろう。三つの星のボタンは間違ってはいない。だから仕掛けが作動する音がした。しかし開かない以上どこかで推理が誤っていた事になる。
「禄存星、文曲星、廉貞星の三星の順で合ってるはずなんだ」
 やり直しがきかないボタンに悩む真は知識を総動員した。
 あの家光の龍の謎を思い付いたのは天海だ。完全に参拝者に気付かれないようにするには馬を鹿に変えるのではなく。最初から鹿の蟇股にすればいい。
 実際、鹿の蟇股は滋賀の日吉東照宮や京都の北野天満宮等に存在する。それらは南宮大社が再建される前から作られている。
 大社の蟇股は殆ど見上げられもせず、趣旨が不明な彫刻としてこれまで三百八十年間見過ごされてきた。興味を持たれず単なる装飾として扱われてきたのも無理はない。故にあの張果老の位置に鹿の蟇股があっても不思議に思われないはずである。
 それでも天海は見破られる危険を冒してまで馬を鹿に変えた。
 有識者の中には当然「瓢箪から駒」の故事を知っている者もいるだろうし、僅かながらその違いを気取って大社に言い立てた者もあると聞いた。
 しかし張果老の蟇股の列を俯瞰的に捉える者はいないだろうと高を括ったのか、それとも守護の大野家を信用したのかは掴めない。
 ただこういう難解な謎を仕掛ける術師は一人でもいいから誰かに看破してほしいと逆説的な望みを持つ場合がある。
 高舞殿の十二支の蟇股の向きもそうだ。暦に関連するが、別にそのような仕掛けを組む必要はない。
 日光や江戸は直接天海が関与したから今更感が拭えないが、南宮大社に到ってはまるでその正体を隠しながら、その実、端々に自分の存在を仄めかしているような気がしてならない。
 それはまるでゲームを楽しんでいるようにも見える。
 人はやがて命を終える。となればその爪痕を残したいとする人間臭さはいくら高僧であっても否定は出来ない。
 忘れて欲しくない、覚えておいてほしいというのは人間の本能に近い。
 真は、この時「ああ、そうか」と腑に落ち、ためらわずに一番目の星を押し込んだ。
 するとガチャリと最も大きな音が響き、引き出しのように箱の底が僅かに飛び出した。
「開いた」と皆は驚いて、どのようにして解錠したのか尋ねてきた。
 一安心した真は静かに種を明かした。
「斎には一度話しましたけど、北斗七星は器の端から順に貪狼星、巨門星、禄存星、文曲星、廉貞星、武曲星、破軍星という名前を持っています。そしてその星には十二支の生まれ年が付随して、貪狼星は子年、巨門星は丑と亥、禄存星は寅と戌、文曲星は卯と酉、廉貞星は辰と申、武曲星は巳と未、破軍星が午となっています。そしてこの三本の竹は天海が関わった徳川の幼名竹千代を持っている三代となります。家康・秀忠・家光の生まれ年は最早言及する事じゃありません」
「ほう、しかしそれだけでは開かなかったんですよね」
 上陽が興味津々に踏み込んだ。
「そうです。後一つ、三つの星を補うキーが必要でした。それはもしかすると遊び心だったのかも、もしくは徳川を支えたのは自分だとの自負心がそうさせたりかもしれません」
「言っている意味が分からないわ、真君」
 今度は斎が尋ねてきた。
 真は窪んだ最後のキーを指し示した。
「徳川三代に自らの痕跡を記したかった、と仮定すれば最後の星は決まっていた。それは貪狼星だった。そしてその星の別名は、漢字が違うが『天魁てんかい』と言う」
「何と」
 橘の驚きに真は笑んで注意深く引き出しを引いた。
 そこには綿がぎっしり詰め込んであった。
 何故綿、と皆は面妖に感じたが、マスクを再装着した真はそれを指先で少量ずつ取り除いた。
 そうするとその中に巻かれた、先程のものよりやや小さめの紙が入れ込んであった。
 だが不安な要素が垣間見えた。先程の絵様は越前奉書紙の頑丈さを持っていたが、下の段の紙は一見してとても薄いのである。上下に挟んである綿はきっと緩衝材としての役目だろう。
 念のため左右で眺めていた斎や上陽、橘を机から離れさせ、腫れ物を触るように真は紙をゆっくり取り出して卓上で用心深く広げた。
 その時である。
 背後から中身を覗き込もうと真の肩越しに首を伸ばしていた姫香が急に、「クシャン」と大きなくしゃみをした。
 途端その風圧で真が広げていた紙はバラバラに砕けて飛び散った。
「……」
 予想外の成り行きに皆は唖然と口を開けたまま姫香へ向いた。
「ご、ごめんなさい」
 姫香は取り返しのつかない失態に顔色を変えて謝った。
「姫香ちゃん、何してるの。これもしかしたら国宝級の何かだったのかもしれないのよ」
 さすがに斎も看過出来ず過ちを厳しく咎めた。
 しかし真はマスクを外し平静に擁護した。
「心配するな、姫香。瞬間だがはっきり見えた。そんな大した中身じゃない」
「ほ、本当、真」
 顔面蒼白の姫香は縋るような目で問うてきた。
 真は力強く頭を振った。
「保証する。あれは真禅院本地堂北に設置してある水葵みずあおい鴛鴦おしどり雄の蟇股下絵だ。植物の所だけ緑色に塗ってあった。後は白黒だ。特に署名もない。複製しようと思えばそんなに難しいものじゃない」
「よかったあ」
 姫香は力なく座り込んだ。
 それに、と真は説明を加えた。
「あの紙はさっきの下絵と違って初めから故意に薄くいてあった。姫香のくしゃみがなくても俺の手の中でボロボロになっていたと思う。最初から永久に残すつもりがなかったんだろうな」
「坂城さん、それは何のために」
「それは……」
 宮司の問い掛けに真は立ち上がり、向き合って真面目な表情を固めた。
 上陽はごくりと喉を鳴らした。
「私にもさっぱり分かりません」
「……は?」
「これはハッキリいって降参です。内容も薄い紙の事も、奇をてらった天海の遊びなのかもしれません。こればかりは彼岸にいる当人に聞いてみるしかないですね」
 敗北の両手を挙げて真は愉快気に笑った。
 そうすると皆はつられて笑い始め、やがて謎解きの場は終幕となった。

「どうした、姫香。名残惜しいか」
 一団は解散し、帰り支度をした真と姫香は楼門を潜ったのだが、姫香は立ち止まり張果老の蟇股を見上げていた。
「ちょっとね。でもここ一ヶ月大冒険してたみたいで楽しかった」
「けど高舞殿の蟇股だけは記事の許可出て良かったじゃないか」
「それが唯一の救いだよ。それと鳳凰と龍の組み合わせも発表してOKだって」
「それは神前結婚式を増やすのに繋がるからな。上陽さんもしたたかだ」
「でもさ、それで家族が出来れば垂井も人口増加になるじゃない」
「うわ、役場的思考」
「何よ、役場勤めだもん。しょうがないでしょ」
「じゃ、観光係のお前に天海にまつわるエピソードを教えてやろう」
「何」
「天海が寛永寺を創建したのは説明したけど、その天海、境内の上野の山に奈良の吉野から桜の苗木を取り寄せて植えさせた。それは何と庶民への娯楽、つまり観光への要素もあったという」
「へえ」
「庶民も気軽に寺へ来れるようにという配慮だったようだ。幕府は寛永寺に庶民が参拝するのを快く思っていなくて資金の援助を減らしたけど、天海は民のために私費を投じて境内を整えたという」
「幕府の命令に従うだけじゃなかったんだね」
「ああ、気骨のある粋な僧侶でもあったのさ。桜に人が集うのはどの時代でも変わらない。まあ、それはともかく、いつか誰かが再びこの龍の謎を解くだろう。そうなったらもう大社も公表せざるを得ないって宮司は決めてたな。それまで俺は眠れる龍と化すさ」
「ふふ、それで二人目の発見者は龍箱の封印破られててショックだろうね」
「龍箱か、最後まで天海の謎は小気味好かったな。そうだ、姫香、折角だからこれから二人で祝杯をあげようぜ」
 真は駐車場に歩きながら提案した。
「正気? 飲酒運転だよ」
「酒じゃない。こっちだ」
 真は華という喫茶店前の自動販売機からペットボトルのメロンクリームソーダを二本買って、その一つを姫香に手渡した。
「えー、ジュース?」
「婆ちゃんとの昔の約束なんだよ。謎が解けたらメロンアイス食べながらここで答え合わせしようって。ま、時代かな、もう尾張屋にアイス売ってないからソーダはその代わり」
「そういう事情なら仕方ない。ワカ婆ちゃんの代わりに乾杯してあげる」
 ほら、と姫香は古びた小さなコンクリートベンチに座ってペットボトルを掲げた。
 くっつくように隣に座った真は同じ仕草で「乾杯」とボトル同士を合わせた。
「いやー、メロンの炭酸久し振りだよ。高校以来かな」
 姫香は思い出に浸っていたが、真は聞いておらず、
(婆ちゃん、緯武経文のヒントありがとう。何とか大社の謎に辿り着いてみせたよ)
 とメロンソーダを小さく天に掲げた。
 ただ、惜しむらくは最後の絵様の謎だけが解けなかったな、とも思った。
 鴛鴦に水葵。その水葵の葉だけが着色してあったのに引っ掛かっていた真は、その植物に思いを馳せた。
 水葵はこの場合徳川の神社であるから、紋にかけて葵を選択したのだろう。本地堂の蟇股に流水と水鳥が多かったのは防火の願いもあったのだろう。しかし、水葵が何かのメッセージを含んでいるとすれば共通する項目があるかもしれない。
 真はボトルを地面に置き、スマホで水葵を検索した。
 するとそこにはこう記してあった。
【水生植物の水葵の葉は字の如く葵に似る。花は青色で桔梗に類似して沢桔梗とも呼ばれる】
(……桔梗。そう言えばあの龍箱はめいち箱って呼ばれていたな)
 はたと真は思い返した。
(それに天海のサインの浪紋は斉藤道三のものだった。それと日光から南宮山を通って京都に着くレイラインの近くの町が近江坂本だった……、桔梗、明智箱、道三に仕え、坂本城主だった者。おいおい、ちょっと待て。これらに共通するのは……、まさか天海の正体って……。いや、馬鹿げた考証だ。飛躍にも程がある)
 真はブンブンと頭を振った。姫香はその様子を気遣った。
「真、どうしたの、さっきから変よ」
「ああ、何でもない」
「ところで三重塔にも蟇股あるじゃない。あれには謎とかないの」
 姫香は炭酸の喉越しを楽しみながら聞いた。
「見る限り特にはない。強いて挙げれば明治の移転の時に蟇股の位置がバラバラになってしまった事かな。後は天台宗の三重塔は南天鉄塔の象徴と言われてる事くらい」
「南天?」
「南天竺、つまりインド南部。そこにあったとされる仏塔の事だよ。北条政子が大社に寄進した三層の鉄塔あるだろ。あれが同じ南天鉄塔とされている。三重塔のオリジナルを模したんだろうな」
「へえ、そんな繋がりが」
「ところで真禅院の三重塔な、あの建物だけ請負だから蟇股のタッチが全然違うんだ。同じ敷地内の本地堂のものと見比べてみるのも面白いぞ」
 再びソーダに口をつけて真は勧めた。
「何だ、別のお宝でも見つかるかと思ったのに残念」
「そうそうお宝なんて隠されている訳じゃない。今回の謎解きは奇跡みたいなものだったからな。俺もその奇跡にあやかりたいよ」
「あやかる、何を」
「就職活動だ。俺、無職だからな」
「あー」と姫香は苦笑を漏らして慰めた。
「まあ、それについてはどうにかなるでしょ。じゃ、史学博士・坂城真の就活成功の前祝いを兼ねて今晩は朝日屋で飲み尽くそうよ」
 背中をバンバンと叩く姫香に真は笑った。
「お前、俺を出しに飲みたいだけだろう」
「あはは、ばれた」
 二人の笑み声の中、大社駐車場に咲いていた桜の花びらが春の風に乗っていつまでも吹雪のように大空に舞い上がっていた。

 さくら花 散りぬり風の なごりには 水なき空に 浪ぞたちける   紀貫之

                         了
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