上 下
1 / 1

涙が報われる時

しおりを挟む
愛し合うことで救われるなんてロマンチックな話を信じたことは一度もなかった。人生は耐えることばかりで、辛いことがあっても耐えること以外選択肢はない。そうでないと何をするの。人に従うだけ、人に追いつくだけ、人を敬うだけ。私がその人の中の一人であるという話は、とっくの昔に信じなくなっていた。
幸せは求めない。幸せより大事なのは何も感じなくなること。何も感じなくなったら、夢を諦めることも他人に妬みを覚えて一人で苦しむこともない。ブランド物なんて一つもない。うちはずっと貧乏だった。貧乏なことを笑いのネタにして家族で笑っていた。私は笑ってない。私は働いていた。勉強をうまかったら学校から奨学金がもらえる。だから働いて、勉強して。それだけの日々。自分で楽しめるための時間なんてない。泣きたくなる時にも泣き言なんて言えない。家族は悪い人ではないのだ。親は夢見がちな人たちで、現実を見ないまま色んなことに挑戦しては度重なる失敗で借金まみれになったところで祖父からお金をもらって借金だけ何とかしたけど、それでも貧乏なことに変わりはない。
同年代の子達が化粧を学び始めておしゃれに気を使い始めていた時、私は裁縫で自分の服を何回も何回も修繕して。
バイトでのセクハラは日常で、一部の教師からは貧乏人だとバカにされる始末。なんでこんな社会に生きているのか自分でも疑問に思う。それともお金を持っている普通の人からしたら住みやすいのか。そんな感覚知らないし、貧乏に追い詰められる生活以外の生活なんて知らないし。
誰もこれが間違っているだなんて思ってないんだろうか。どこかではただ息をしているだけでも資産を持っている人は持ってる資産から勝手に増える。そんな社会なんて、壊れてしまえばいいのに。私みたいな人はそう多くもないのだろうきっと。
だから耐える。せめて死んだ後なら安らげるなんて思って。
それで本当に死んだ、とかならよかったかもしれない。ある日飲食店でのバイトを終えて家に帰る途中、私は車に引かれた。かなり早いスピードで、そのまあ死ぬことはなかったけど、運転手が戻ってきて車でもう一度ひこうとしていたのを、通りすがりの人に助けてもらった。30代ほどの女性で、私をひいた運転手よりずっといい車を運転していて。私はぼんやりとした意識でその女性が運転席から男を引きずり降ろしては殴り飛ばし、警察に電話する場面をまるで映画みたいだと思いながら見ていたのである。
「死んだのかな。」そうとは思わない。気が付くと病院のベッドの上で、喉はカラカラ。頭も痛いし、体のあっちこっちですぐに痛みの信号が届いて、気を失うそうになった。
「死んでないわよ。」そう言ったのは知らない顔の女性。30代ほどの…、そう、あの時ひき逃げしようとした人を殴り飛ばした人。
「なんで?」私は敬語を使うのも忘れて彼女を見上げながら聞いた。状況が理解できない。なんで彼女が?私の親は?弟は?妹は?
「ここが私が働いている病院だからよ。」そう言う彼女は確かに白いガウンを着ていた。医者さんだったんだ。格好いい。
「格好いい。」思ったことをそのまま口にした。頭の中がジンジンと痛みを訴えていて、それで普段よりフィルターがかかってない気がする。
「それはもう頑張ったからね。」
「私も医者になれますか。」
「医者になりたいの?」
「出来そうにないけど。」
「どうして?」
「家が貧乏だから。」
「奨学金制度のある大学もそれなりにあるわよ。」
「そこまで勉強うまくないし、バイトで忙しくて。」私はそう言いながら目から涙がこぼれるのを感じた。
「そう、辛かったね。」
「うん、私ね、ずっと頑張ったの。頑張ったのに、なんでこんなことになったの。私って悪い子だったのかな。セクハラしてくれる店長さんにお尻触られた時に何も言わなかったから、罰が当たったのかな。」
「そんなことない。どこの店?」
「もう行かない。行けない。治療費たくさんかかるはずなのに、私、私…。」
ぽろぽろと流れてくる涙が止められなくて、どうすることも出来なくて、たくさん感情が押し寄せてきた。ふいに暖かい何かに包まれる。お母さんを思い出すような、とても暖かい感触。
医者さんだった。彼女は私をそっと抱きしめて、背中をさすってくれた。
「大丈夫、私が何とかしてあげる。」
「なんで?」私は鼻声で彼女の豊満な胸に顔をうずめたままそう尋ねる。
「大人が辛い状況の子供を捨てておくわけにはいかないでしょう。」
「そうなの?」
「うん、だから今は回復することだけ考えて。」私は頷いた。彼女の声がとても暖かかったからかな。それとも彼女に惚れてしまったからなのかな。
病院での生活は少しだけ退屈だったけど新鮮な経験だった。忙しくない、やるべきことなんて学校の勉強ぐらいで、それも先生が見てくる。医者さんのこと、先生と呼んでいるのである。
彼女は私を愛称で呼んでいた。今まで呼ばれたこともない。朝に出勤してくる時に私の分のお弁当も作ってくれて、とても美味しかった。弟と妹が時々見舞いに来て、怖いお姉さんが来て大変なことになってると言った。丁度動画を撮ってて、見ることに。
『あんたたちさ、親なら子供があんなに苦労しているのにちょっとは自分たちで何とかしようとは思わなかったわけ?あの子なんて言ったか知ってる?自分が事故にあったのが、バイト先の店長のセクハラを黙っていたから罰が当たったんだって。自分の子供がさ、そんなに追い詰められていたことを何とも思わないの?』
彼女の声は力強かった。とても、力強かった。ちなみに私のお父さんはバンドをするのを夢見ていて、ギターリストを目指していたけど失敗。顔だけはいい。お母さんは俳優になろうとして、才能がなかったのかお父さんとのデートで練習をサボったのが原因なのかは知らないけど、俳優にはなれず。顔とスタイルはいい。
私もそんな親の遺伝子を受け継いでいるので、鏡を見るとモデルさん見たいと他人事のように思ったりする。
それで要は芸能人になろうとしたわけで、それも一昔前のそれだからお父さんなんて女装が似合うほどの細い体形で、お母さんもミーハーな性格はしているけど基本的に流されやすいし自分の考えを持ってない。
それで私の親がそれに対して何を言うのか聞いてみたら。
『僕たちって、まだ子供でしたし。』
『はい、えっと、まだ二十歳を少し過ぎたころに出来ちゃってて。』
『今いくつ?』先生が聞く。
『35です。』
『同い年です。』
先生はため息をついた。
『今何の仕事してるの?』
『僕はタクシーやってるんですけど。』
『居酒屋で働いてるんですけど。』
先生が微妙な表情をしていた。思ったより彼らが精神年齢が子供だったからどうすればいいのかわからなくなったのかな。私だって知ってる。あの人たち、自分の頭では何も考えずに計画もなく無鉄砲で生きてきて、私が10歳の時はラーメン屋を開いては開業してすぐに2か月連続で赤字が続いて廃業したり、競馬に通ってたりと、本当に酷かった。ヤクザみたいなおっさんが入ってきてお父さんが殴られる場面も見たことあるし。それも祖父が今のお父さんが入っているタクシー会社を紹介してくれて、借金も何とかしてくれてからもう競馬とか経験もないのに商売とか手を出したら次はないと言ったせいで今はそれでなんとか、なんて思っていたんだけど、やっぱり先生から見たら酷い親だったのは変わらないようで。
『あの子、私が引き取る。養子縁組するから。』
『え?』
『あの子が一番稼いでるんですけど。』
『は?何言ってるの?』
『はい、すみません。』
『そのうち弁護士と来るから、準備して。』
『はい、準備します。』
『何の準備かわかって言ってるの?虐待で養育権をはく奪されるわけ。残った二人は…。』先生はカメラの方を見る。
『それ撮ってどうする気?』
『お姉ちゃんに見せてあげるの。』
『それならいいか。あんたたちは今いくつ?』
『十歳。』
『僕は十一です。』
『ほかに親戚はある?』そこからは見る気になれなかった。
そっか。離れ離れになるかもしれないのか。弟も妹も可愛がっていたんだけど。
「いい。見せてくれてありがとう。」
「うん、お姉ちゃんのためだし。新しいお母さんと幸せになって。」
「幸せ…。どうだか。」
「先生いい人だよ。」弟が言う。
「美人だし。」妹が言う。
「私は?」
「お姉ちゃんは美少女。まだ美人じゃない。」
私はクスッと笑った。
その日の診察時間、先生が来たので話を聞いてみることにした。
「私って、先生の娘になるの?」
先生は少し目をそらしてから再び目を合わした。
「妹から聞いた?」
「うん。」ちなみに結局彼女に初めて本音で語った時から彼女には敬語が使えなくなっていたのでこのずっとこのままである。
「先生の娘になるのは嫌?」
「嫌じゃないけど。」
「じゃあいいのね。」
「けど駄目かもしれない。」
「何が駄目なの?」
「私って、実はさ。」
「うん?」
「女の子が好きなの。昔から。」
「それはまた、もうどこまで酷い人生だったのやら。」
「別に傷ついたことなんてないし。」
「それならよかったけど。」
「けど先生のこと好きになっちゃったの。」
「なるほどね。ん?今なんて?」
「先生のこと好きになっちゃったって言ったの。」
「え?私?」先生が自分を指さして聞き返した。珍しく冷静さを失った表情をしていておかしくて笑ったんだけど。
先生は困った顔をしていた。
「先生は男性が好きなの?」
「そこじゃない。私今いくつか知ってる?」
「知らない。30代には見えるけど。」
「そう、今年で三十二。」
「そんなに年変らないじゃん。」
「今いくつ?」
「知ってるでしょう?」
「知ってるけど、自覚しているのか聞いてる。」
「十五歳だけど。」
「何歳離れてると思ってるの。」
「気にならないし。」
「あんたが四十の時は私は五十七歳だよ。」
「それだけ?」
「そこが重要じゃない。」
「別に。先生のこと好きだし。」
「これから親子になるんだけど。」
「その年で十五歳の娘を持つことも中々ないと思うし。」
「たくさんいるんじゃない?」
「そうなの?」
「ココちゃんの親も二十歳でココちゃんが出来たんでしょう?」
「それでも先生は私の親みたいな感じしない。尊いの。」
「尊い?私が?」
「そう。すごいの。」
「そういうのいいから。ゆっくり休んで。」
「もうちょっと一緒にいたい。」
「わかった。」先生はなんだかんだで私に甘いのは知っている。可哀想な人を放っておけないとか、人が好過ぎるんだろうきっと。正義感も強くて、容赦しない苛烈さもあって。それでも自分が心を開いた相手にはとことん甘い。どっかの映画で見たことあるかもしれない。先生みたいな人。そしてその映画で見た先生みたいな登場人物が好きだったことも覚えている。もちろん女性。
「抱きしめてくれる?」
「わかった。」先生が私の背中に手を回す。私は先生の胸に顔を埋めて肺いっぱいに先生の甘い香りを吸い込む。
「くすぐったい。」そう言うけど離れない先生。私はふっと思いついて顔をあげた。
少しの間、私たちは至近距離で見つめあった。首をかしげる先生。可愛い。
私はそんな愛らしい先生の唇に私の唇を重ねる。先生の目が見開かれる。顔が赤くなってる。
あまり虐めると怒られるかもしれないから五秒ほど経ってから離れた。短い時間だったけど、ファーストキスが好きな人相手で良かった。
先生も嫌そうな感じじゃなく、少し恥ずかしそうにしていたから、私は大満足。これから何が待っているのか知らないけど、先生と二人でならやっていける気がしたのである。

しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...