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10 おやすみ
「怪我は」
朱面狒々を斬り祓ったところで、冰淵がやってきた。操られていた人たちを街へと帰してから戻ってきたから、時間がかかったのだろう。雪游は息を整えながら岩場に座っていたが、冰淵の顔を見ると疲れも吹き飛んだ顔で立ち上がった。
「大丈夫です。始末も終えました」
「……頬に、切り傷がある」
「狒々の爪が掠ったのかな。でも大丈夫」
頬を袖で拭おうとしたが止められた。
「薬を塗っておこう」
袂に入れていた巾着から軟膏を出してくれると、薄く塗ってくれる。鄒家秘伝の軟膏だから、少々の傷はすぐに治った。
「ありがとう、兄さま」
「何があった?」
「それが……」
縊鬼を追いかけたら朱面狒々が縊鬼を捕まえて食べていたことを話す。
冰淵はわずかに眉間へ皺を寄せると、思案げな顔をしたが、ふと何かを思い出した顔で雪游を見詰めた。
「今日はひとまず宿へ。もし劉どのに会えたら、話を聞こう」
「はい」
素直に頷くと、ふたり揃って宿へ戻る。
夜半に戻ったというのに起きている宿の者がいて、ふたりのために夕食や風呂の準備までしてくれた。そうして事件が解決したことを伝えると大いに喜び、深夜だというのに酒を振る舞ってくれる。
庁舎への報告は翌朝にするとして、宿屋での宴は空が白み始めるまで続いた。
「はぁ……さっぱりした……」
風呂から出ると夜衣姿で部屋に戻る。ここの風呂は各室についていて、蒸し風呂になっていた。疲労も蒸されて蒸発したような心地で、雪游は卓に置いてある水差しから杯へ注ぐと水を飲んだ。
「…………」
視線を移すと、窓辺に置いた椅子に腰掛けた冰淵が外を眺めている。もしかしたら星を見ているのかもしれないが、その表情は物憂げだ。
声をかけないほうがいいかもしれない。
判断すると、背の半ばほどまである髪を乾かしていく。
「雪游」
ふと我に返ったように、冰淵が雪游の名を呼ぶ。吐息のようなささやかな声音が、雪游の胸を漣立たせた。
「……はい」
「先に休みなさい」
「え」
師兄より先に寝るのは許されないのでは。
思ったのが伝わったのか、冰淵はさらに言葉を足す。
「おまえのほうが疲れている。構わず、寝なさい」
「…………」
言葉は優しいが、否を許さない響きがある。
「……わかりました」
頷くと、先に牀に寝そべる。冰淵が眠る時に邪魔にならないよう、なるべく端のほうへ。
ふと思い出す。
今夜は花魄を見なかった。それともあれも朱面狒々に食べられたのだろうか。
そもそも事件は本当に解決したのだろうか。
事実だけを見れば、自殺した人たちの原因は縊鬼だった。原因である縊鬼は朱面狒々に食われた。その朱面狒々は雪游が斬り祓った。だからもう縊鬼による自殺騒ぎは起きないはずだ。
まだ倒してない縊鬼がいる可能性を考えれば、鄒家で部隊を組んで白平山の鬼狩りをしてもいいのだろう。
何しろ癖地だ。山のあちこちに同じような瘴気溜まりや陰気溜まりがあるかもしれない。放っておけばまた厄介な妖物が生み出されかねない。それは防ぎたい。これから生まれるかもしれない悲劇は起こさないようにするのが、道家の務めだ。
ただ、朱面猩々がどうして縊鬼たちを食ったのか、その理由だけはやはり気になる。縊鬼を食って力を付けて、どうするつもりだったのか。
理由として考えられるのは、朱面猩々以上に強い妖物があの山のどこかにいるのではないかということ。要するに縄張り争いだ。
そこからは依頼外の話になるだろうか。一度鄒家に持ち帰って報告する必要がある。
「眠れないか?」
思考の区切りで寝返りを打つと、冰淵の声が思ったより近いところからした。もう一度寝返りを打てば、冰淵は牀に腰掛け、雪游のほうへ体を捻って向いている。
「……はい」
「眠れなければ、明日に障る。……何が気がかりなのかは、わかっているが」
「う……」
見透かされていた。
自分でもわかってはいるのだが、考え事が止まらず、頭が冴えてしまっている。どうせもう夜明けなのだから、起きていてもいいのではないだろうか。
しょんぼりしていると冰淵がそっと頭を撫でてくれた。
「……一緒に寝よう」
牀に冰淵も体を横たえた。幸い広い牀だったから、窮屈ということはない。が、冰淵は雪游を抱きしめる。
「に、兄さま……っ?」
「子どもの頃、おまえが眠れない時にこうしていただろう」
背を優しく撫でてくれる手のひらの温度。体臭と混ざった、清しい香り。
けれどこんなに近付いて眠るのは、近頃ではなかった。
いや、あった。
陰気に襲われ、それを祓ってもらった時。いつ眠ったのかもよくわからないが、たしか抱きしめられて眠ったのだと思う。
急に体温が上がった気がした。
慌てて、心を落ち着ける努力をする。あれ以降も冰淵は常と変わらず接してくれているし、何よりあれは祓いだ。疚しいことなどあるはずがない。
「…………」
触ってくれる腕や手のひらは優しかった。あの時は雪游の体が冷えていたせいか、いつもひんやりとしている冰淵の体温がとても温かく感じられた。
今も。
いや、余計なことを考えてはいけない。今は水風呂を浴びたせいで冰淵がいつもより温かく感じるだけだ。
落ち着け、落ち着け。ちっとも落ち着かない頭に言い聞かせる。
まずは呼吸を整えることだ、と基本を思い出し、ゆっくり深く何度か呼吸し――すぐに後悔した。冰淵の香りに包まれていることを実感してしまう。
まったく、何をやっているのか。
このままでは朝になっても眠れないのではないだろうか。さすがにわずかでも寝ないと体に障る。危惧していると、不意にやわらかな旋律が聞こえ始めた。
子守歌。
まだ幼い子どもだった頃、ひとりで眠ることにぐずっていた雪游を寝付かせてくれていた歌だ。あの時に比べれば冰淵の声も低くなっているが、彼の声を聞いていると嬉しくもなるし落ち着きもする雪游としてはずっと聞いていたくなる声。懐かしい。
条件反射とは恐ろしいもので、冰淵が子守歌を歌い出していくらもたたないうち、雪游の目蓋はすっかり閉じてしまった。
意識が途切れる間際、冰淵が頭を撫でてくれた気がした。
朱面狒々を斬り祓ったところで、冰淵がやってきた。操られていた人たちを街へと帰してから戻ってきたから、時間がかかったのだろう。雪游は息を整えながら岩場に座っていたが、冰淵の顔を見ると疲れも吹き飛んだ顔で立ち上がった。
「大丈夫です。始末も終えました」
「……頬に、切り傷がある」
「狒々の爪が掠ったのかな。でも大丈夫」
頬を袖で拭おうとしたが止められた。
「薬を塗っておこう」
袂に入れていた巾着から軟膏を出してくれると、薄く塗ってくれる。鄒家秘伝の軟膏だから、少々の傷はすぐに治った。
「ありがとう、兄さま」
「何があった?」
「それが……」
縊鬼を追いかけたら朱面狒々が縊鬼を捕まえて食べていたことを話す。
冰淵はわずかに眉間へ皺を寄せると、思案げな顔をしたが、ふと何かを思い出した顔で雪游を見詰めた。
「今日はひとまず宿へ。もし劉どのに会えたら、話を聞こう」
「はい」
素直に頷くと、ふたり揃って宿へ戻る。
夜半に戻ったというのに起きている宿の者がいて、ふたりのために夕食や風呂の準備までしてくれた。そうして事件が解決したことを伝えると大いに喜び、深夜だというのに酒を振る舞ってくれる。
庁舎への報告は翌朝にするとして、宿屋での宴は空が白み始めるまで続いた。
「はぁ……さっぱりした……」
風呂から出ると夜衣姿で部屋に戻る。ここの風呂は各室についていて、蒸し風呂になっていた。疲労も蒸されて蒸発したような心地で、雪游は卓に置いてある水差しから杯へ注ぐと水を飲んだ。
「…………」
視線を移すと、窓辺に置いた椅子に腰掛けた冰淵が外を眺めている。もしかしたら星を見ているのかもしれないが、その表情は物憂げだ。
声をかけないほうがいいかもしれない。
判断すると、背の半ばほどまである髪を乾かしていく。
「雪游」
ふと我に返ったように、冰淵が雪游の名を呼ぶ。吐息のようなささやかな声音が、雪游の胸を漣立たせた。
「……はい」
「先に休みなさい」
「え」
師兄より先に寝るのは許されないのでは。
思ったのが伝わったのか、冰淵はさらに言葉を足す。
「おまえのほうが疲れている。構わず、寝なさい」
「…………」
言葉は優しいが、否を許さない響きがある。
「……わかりました」
頷くと、先に牀に寝そべる。冰淵が眠る時に邪魔にならないよう、なるべく端のほうへ。
ふと思い出す。
今夜は花魄を見なかった。それともあれも朱面狒々に食べられたのだろうか。
そもそも事件は本当に解決したのだろうか。
事実だけを見れば、自殺した人たちの原因は縊鬼だった。原因である縊鬼は朱面狒々に食われた。その朱面狒々は雪游が斬り祓った。だからもう縊鬼による自殺騒ぎは起きないはずだ。
まだ倒してない縊鬼がいる可能性を考えれば、鄒家で部隊を組んで白平山の鬼狩りをしてもいいのだろう。
何しろ癖地だ。山のあちこちに同じような瘴気溜まりや陰気溜まりがあるかもしれない。放っておけばまた厄介な妖物が生み出されかねない。それは防ぎたい。これから生まれるかもしれない悲劇は起こさないようにするのが、道家の務めだ。
ただ、朱面猩々がどうして縊鬼たちを食ったのか、その理由だけはやはり気になる。縊鬼を食って力を付けて、どうするつもりだったのか。
理由として考えられるのは、朱面猩々以上に強い妖物があの山のどこかにいるのではないかということ。要するに縄張り争いだ。
そこからは依頼外の話になるだろうか。一度鄒家に持ち帰って報告する必要がある。
「眠れないか?」
思考の区切りで寝返りを打つと、冰淵の声が思ったより近いところからした。もう一度寝返りを打てば、冰淵は牀に腰掛け、雪游のほうへ体を捻って向いている。
「……はい」
「眠れなければ、明日に障る。……何が気がかりなのかは、わかっているが」
「う……」
見透かされていた。
自分でもわかってはいるのだが、考え事が止まらず、頭が冴えてしまっている。どうせもう夜明けなのだから、起きていてもいいのではないだろうか。
しょんぼりしていると冰淵がそっと頭を撫でてくれた。
「……一緒に寝よう」
牀に冰淵も体を横たえた。幸い広い牀だったから、窮屈ということはない。が、冰淵は雪游を抱きしめる。
「に、兄さま……っ?」
「子どもの頃、おまえが眠れない時にこうしていただろう」
背を優しく撫でてくれる手のひらの温度。体臭と混ざった、清しい香り。
けれどこんなに近付いて眠るのは、近頃ではなかった。
いや、あった。
陰気に襲われ、それを祓ってもらった時。いつ眠ったのかもよくわからないが、たしか抱きしめられて眠ったのだと思う。
急に体温が上がった気がした。
慌てて、心を落ち着ける努力をする。あれ以降も冰淵は常と変わらず接してくれているし、何よりあれは祓いだ。疚しいことなどあるはずがない。
「…………」
触ってくれる腕や手のひらは優しかった。あの時は雪游の体が冷えていたせいか、いつもひんやりとしている冰淵の体温がとても温かく感じられた。
今も。
いや、余計なことを考えてはいけない。今は水風呂を浴びたせいで冰淵がいつもより温かく感じるだけだ。
落ち着け、落ち着け。ちっとも落ち着かない頭に言い聞かせる。
まずは呼吸を整えることだ、と基本を思い出し、ゆっくり深く何度か呼吸し――すぐに後悔した。冰淵の香りに包まれていることを実感してしまう。
まったく、何をやっているのか。
このままでは朝になっても眠れないのではないだろうか。さすがにわずかでも寝ないと体に障る。危惧していると、不意にやわらかな旋律が聞こえ始めた。
子守歌。
まだ幼い子どもだった頃、ひとりで眠ることにぐずっていた雪游を寝付かせてくれていた歌だ。あの時に比べれば冰淵の声も低くなっているが、彼の声を聞いていると嬉しくもなるし落ち着きもする雪游としてはずっと聞いていたくなる声。懐かしい。
条件反射とは恐ろしいもので、冰淵が子守歌を歌い出していくらもたたないうち、雪游の目蓋はすっかり閉じてしまった。
意識が途切れる間際、冰淵が頭を撫でてくれた気がした。
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