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1話 やり直し

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どこで、間違ってしまったのだろう。

常田一織は、重いため息をひとつ吐いた。低いとはいえヒールのある靴で一日中走り回っていたとなっては、ため息のひとつも零してしまうものだ。

散々な日だった。

出発時間の15分前に起床。死に物狂いで準備を終わらせ、玄関のドアを開けて鍵を閉めようと鞄から取り出せば推しのストラップがちぎれた。会社に着いたら着いたで納品トラブルがあったと終電まで帰れやしない。

そんな散々な日を過ごしても薄給。35歳にもなって貯金はゼロ。もちろん独身、彼氏なし。

「どこで間違っちゃったのかなあ!」

道端で突然叫んだ女に、周囲の視線が集まる。
そりゃそうだ、さして若くもない女がよくわからない叫び声を上げていたら怖くもなる。正常正常。

一織は、ポケットにしまっていた携帯を取り出し、口座残高を確認する。
そうしてまた、がっくりと項垂れたのだった。

一織の貯金がゼロなのは、何も薄給だけが理由ではない。
一織は、貢いでいたのだ。なけなしの金を、推しに。
では誰を推しているのか。至極簡単だ。ホストである。

「もう今月アキトくんに会えない………」

絶望的な気持ちで"296円"と表示されている画面を見つめる。
ホストのアキトくんとは、知人の結婚式でマウントを取られ荒んでいた日の夜に出会った。たまたま声を掛けられて、なんとなくついていって、まんまとハマったのだ。
最悪カードで支払えばまぁ、なんとかなるか。
それを繰り返して、今では毎日もやし生活である。

「……もう、どうやって生きてけっていうんだ」

じわり、と目尻に浮かんだ涙を袖で拭く。鼻水を啜って、顔を上げた先に、見慣れない看板が目に入った。キラキラと輝くネオンのいかがわしい看板の隣にひっそりと佇む、見たことの無い地味な看板。
"RESTART"と書かれたそれは、どうやらバーの看板らしかった。

泥を纏ったような足取りで店の扉を開ける。
白檀の匂いが鼻をくすぐって、ほう、と思わず感嘆の息を吐いた。

「いらっしゃいませ」

カウンターの席に案内されて座れば、目の前にはバーテンダー。メニューから1番安いカクテルを頼んで、スケジュール帳を開く。

給料日まであと10日。本当はアキトくんに会いに行きたかったけれど、給料が入るまでは厳しそうだ。とりあえずクレジットカードでなんとか10日持たせて、来月またもやし生活を送ればなんとかなる?

もういい加減、副業で夜の仕事でも始めた方がいいかもしれない。

手帳を見ながらブツブツと呟いていれば、ふと横に人が座った気配がした。

「こんばんは。いい夜ですね」

爽やかな、耳触りのいい低音に横を見る。
真っ先に目に入ったのは、日本人には珍しい玻璃色の瞳。透き通る白い肌に、艶のある黒髪がよく映える。
切れ長の目も相まって、少し冷たい印象を受けるが、天下一品の美しさだった。

端正な顔立ちの青年に話しかけられ、開いた口が塞がらない。一織の反応に青年は小さく口角を上げて、自分の元にあったグラスを差し出してくる。

「よければ、こちらを」
「……自分の分はありますから」
「大丈夫です。口は付けてませんよ」
「そういう問題では……」

問答をしている間に、青年はさらりと一織の前にあったカクテルを攫っていく。
驚く一織に、青年はしてやったり、と笑った。

「さぁ、これで飲むものはないですね」
「………男の人から出されたものは飲むなと、家訓があるもので」

適当についた嘘である。一織の家は決して家訓があるような名家ではないし、かなりルーズな家だった。門限なんてものはなかったし、バイト代を徴収されるなんてこともなく、人生のルートを決められることもない。自由気ままに生きてきたと言える。その結果がこれであるが。

誰が聞いても嘘だとわかる断り文句を聞いた青年は、目を丸くして一織を見つめていた。

(まぁ、そうだわな。何が家訓やねんって気持ちだよね)

一織はその視線に耐えられず、財布を取り出して席を立つ。
青年はその仕草で一織が帰ろうとしていることを察知した。即座に腕が伸びてきて、一織の手首を掴む。

「ちょ、離して、」
「お願いです。一口でいい。お持ち帰りなんてことはしませんから、飲んでいただけませんか」
「はぁ!?」
「お願いします。目の前には店員も居ますから、私がなにかしようとしたらすぐに通報するはずです」

いや、それならもう通報してくれ。
一口でいいから飲めなんて、どう考えても変な薬が入ってるに違いない。頼み込んでまで飲めと言うのに、お持ち帰りしないとかどこをどうとったら信用できるのか。

どうにかこうにか帰ろうともがいては見るものの、男の力にはやはり適わず。加えてあの綺麗な顔が酷く苦しそうに、切実に顔を歪めるものだから、結局は一織が根負けしてしまった。

ぐい、と一気にカクテルを煽る。
その光景を見ていた青年は、一瞬ぽかん、と固まったのち、まるで悲願が叶ったかのように淡く微笑んだ。

飲み終わった一織はというと、猛烈に眠気に襲われていた。
やっぱり薬盛ってるじゃねーか!
声を上げる間もなく、意識がブラックアウトしていく。

「____貴方は、幸せになるべき人だ」

どこか遠くで、そんな言葉が聞こえた気がした。
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