1 / 144
第一章 凍れる音楽
第一話
しおりを挟む
風の中に歌が聴こえる。
いつも聴こえる美しい旋律の歌。
どこにいても聴こえるのに、どこを捜しても歌っている人間を見つけることが出来ない。
誰かが歌い始めると、それに誘われるようにして見えない歌い手達が次々と歌に加わっていく。
複数の蝶が戯れるように主旋律を歌う者が何度も交代し、それに多重コーラスが重なる。
古い賛美歌のようでもあり、どこかの国の民族音楽でもあるような独特の旋律の歌だった。
歌詞も基本的にはどこの国のものか良く分からない不思議な言語だが、稀に英語や日本語など知っている言葉のときもあった。
どの歌も、何故か懐かしく感じるのは物心ついたときから聴いているからだろうか。
この歌が聴こえるのは自分と弟の楸矢だけだ。
今まで他に歌が聴こえると言った者はいない。
歌が聴こえることを信じてくれた人も。
亡くなった祖父からは人に話してはいけないときつく言われていた。
だから、この歌のことは楸矢と二人きりの秘密にしていた。
誰かが歌っているところを見たこともない。
聴こえてくる方角も分からないから歌っている人や演奏している人を捜すすべもない。
それでも何度か捜してみたことはあったが、いつも徒労に終わっていた。
だから、捜すのを辞めて久しい。
けれど、今日の歌は違っていた。
いつもと同じように肉声は聞こえないが、それでも聴こえてくる方角が分かる。
もしかしたら今日こそ見つかるかもしれないと、新宿駅西口から歌声の方に向かって歩き出した。
あまり期待をしないようにしようと思いながらも、歌に誘われるように歩いているうちに西新宿の超高層ビル群の中にいた。
この辺は昔の建坪率で建てられているから、ビルとビルの間が大きく開いていて広々としている。
欄干の下を自動車が走っている。
強いビル風に吹かれながら歩いていると、肉声が聴こえてきた。
そのまま歩いていくと、紺色のブレザーとスカートの後ろ姿が見えた。肩より少し下の辺りで切りそろえた黒い髪が風になびいている。
顔は見えないが、その少女が歌っているのは間違いなくいつも聴こえてくる歌だ。
本当にいた……。
信じられない思いで立ち止まって見つめていると、不意に少女が振り返った。
整った顔立ちに大きな眼。美女と言いたいところだが、頬の柔らかな曲線が幼さを残しているから、まだ大人の美人と言える歳ではない。
「すまん。邪魔をする気はなかったんだ」
柊矢が謝ると、少女は頬を染め、軽く会釈をして走り去った。
あの制服は確かこの近くの高校のものだったよな。
また会えるだろうか。
柊矢は少女が去って行った方を見つめながら立ち尽くしていた。
翌日、昨日の場所へ行こうと駐車場に車を止めて歩き出すと同時に歌が始まった。
太陽が天頂からわずかに傾き、斜めに差し込む光の中の無数の塵がきらめいて、まるで街を金色のベールで覆っているようだった。
そのベールに包まれるようにして少女が歌っていた。
柊矢が行くと、少女は恥ずかしそうな表情で小さな声になったが、そのうち慣れたのか普通に歌うようになった。
声をかけたかったが、歌を聴いてもいたかったし、なんと話しかければいいかも分からず、ただ黙って聴いている事しか出来なかった。
歌が始まる頃、柊矢がいつもの場所へ行き、先に来ている少女が歌い、終わると二人は互いに言葉を交わすこともなく、それぞれ違う方向へ帰っていく。
そんな日々が続いた。
ある日、部屋を出ようとしたとき、何か小さなものを蹴飛ばした。
見ると、半透明の白い珠がついたネックレスだった。祖父の遺品の中にあったものだ。
大学のとき、付き合っていた相手に贈ろうと思っていたが、結局その機会がないまま別れてしまった。
その後はずっと見かけなかったが、机の下にでも落ちていたのだろうか。
何となくそれをポケットに突っ込むと、すぐにそのことは忘れて家を出た。
超高層ビル群の間を強いビル風が吹き抜けていく。
いつものように少女は歌っていた。
ここにいるのは少女一人だが、斉唱や重唱、副旋律のコーラスなどに、いくつもの楽器の音色が重なっている。
一曲歌い終わり、二曲目の前奏が聴こえてきたとき、不意に風の感触が変わった。風が硬くなったような気がした。
少女もそれに気付いたらしく、開きかけた口を閉ざした。
周りを見ると、超高層ビル群に重なるようにして巨大な樹々が聳え立っていた。
地面も樹や草も氷で出来てるかのように白く透き通った色をしていた。
白く半透明の樹は高さ二百メートル前後の超高層ビルと同じくらいだから相当な巨木だった。
下から見上げると、巨大な樅の木のようだ。
蟻が白いクリスマスツリーを見上げるとこんな感じに見えるのかもしれない。
そんな樹々が森のように何本も聳え立っていた。
凍り付いた樹々の天辺の辺りが淡いオレンジ色に光っていた。
不意に水滴が流れるように光が枝を伝った。
雫が落ちたように見えたとき、
「メー……エイ……デテア……ペー……」
少女が独特の旋律を呟きながら森の方へ一歩踏み出した。
柊矢は咄嗟に少女の腕を掴んだ。
少女が我に返ったようにはっとして柊矢を見上げた。そして、柊矢に掴まれている腕を見下ろすと真っ赤になった。
「男に腕を掴まれたくらいで赤くなるなんて相当な奥手だな」
少女が更に赤くなった。
「か、からかうために掴んだんですか! 離して下さい!」
辺りを見回すと、森は消えていた。
柊矢は手を離した。
「そうじゃない。あの森に入っていこうとしたから」
少女が、え? と言うように首を傾げた。
「昔、あの森に入っていった人間が戻ってこなかったんだ。だから君が入っていかないように……」
「前にもあの森を見たことがあるんですか?」
「何度かね」
「素敵なところでしたよね」
少女が夢見るような表情で言った。
確かに、見た目だけは水晶の森のようで幻想的だ。だが、二度と帰ってこられないかもしれないのに入っていくのは危険だ。
柊矢がそう言うと少女は素直に頷いた。
「もう時間だから帰りますね」
少女はそう言ってお辞儀をすると去って行った。その後ろ姿を見送ると、柊矢も駐車場に足を向けた。
いつも聴こえる美しい旋律の歌。
どこにいても聴こえるのに、どこを捜しても歌っている人間を見つけることが出来ない。
誰かが歌い始めると、それに誘われるようにして見えない歌い手達が次々と歌に加わっていく。
複数の蝶が戯れるように主旋律を歌う者が何度も交代し、それに多重コーラスが重なる。
古い賛美歌のようでもあり、どこかの国の民族音楽でもあるような独特の旋律の歌だった。
歌詞も基本的にはどこの国のものか良く分からない不思議な言語だが、稀に英語や日本語など知っている言葉のときもあった。
どの歌も、何故か懐かしく感じるのは物心ついたときから聴いているからだろうか。
この歌が聴こえるのは自分と弟の楸矢だけだ。
今まで他に歌が聴こえると言った者はいない。
歌が聴こえることを信じてくれた人も。
亡くなった祖父からは人に話してはいけないときつく言われていた。
だから、この歌のことは楸矢と二人きりの秘密にしていた。
誰かが歌っているところを見たこともない。
聴こえてくる方角も分からないから歌っている人や演奏している人を捜すすべもない。
それでも何度か捜してみたことはあったが、いつも徒労に終わっていた。
だから、捜すのを辞めて久しい。
けれど、今日の歌は違っていた。
いつもと同じように肉声は聞こえないが、それでも聴こえてくる方角が分かる。
もしかしたら今日こそ見つかるかもしれないと、新宿駅西口から歌声の方に向かって歩き出した。
あまり期待をしないようにしようと思いながらも、歌に誘われるように歩いているうちに西新宿の超高層ビル群の中にいた。
この辺は昔の建坪率で建てられているから、ビルとビルの間が大きく開いていて広々としている。
欄干の下を自動車が走っている。
強いビル風に吹かれながら歩いていると、肉声が聴こえてきた。
そのまま歩いていくと、紺色のブレザーとスカートの後ろ姿が見えた。肩より少し下の辺りで切りそろえた黒い髪が風になびいている。
顔は見えないが、その少女が歌っているのは間違いなくいつも聴こえてくる歌だ。
本当にいた……。
信じられない思いで立ち止まって見つめていると、不意に少女が振り返った。
整った顔立ちに大きな眼。美女と言いたいところだが、頬の柔らかな曲線が幼さを残しているから、まだ大人の美人と言える歳ではない。
「すまん。邪魔をする気はなかったんだ」
柊矢が謝ると、少女は頬を染め、軽く会釈をして走り去った。
あの制服は確かこの近くの高校のものだったよな。
また会えるだろうか。
柊矢は少女が去って行った方を見つめながら立ち尽くしていた。
翌日、昨日の場所へ行こうと駐車場に車を止めて歩き出すと同時に歌が始まった。
太陽が天頂からわずかに傾き、斜めに差し込む光の中の無数の塵がきらめいて、まるで街を金色のベールで覆っているようだった。
そのベールに包まれるようにして少女が歌っていた。
柊矢が行くと、少女は恥ずかしそうな表情で小さな声になったが、そのうち慣れたのか普通に歌うようになった。
声をかけたかったが、歌を聴いてもいたかったし、なんと話しかければいいかも分からず、ただ黙って聴いている事しか出来なかった。
歌が始まる頃、柊矢がいつもの場所へ行き、先に来ている少女が歌い、終わると二人は互いに言葉を交わすこともなく、それぞれ違う方向へ帰っていく。
そんな日々が続いた。
ある日、部屋を出ようとしたとき、何か小さなものを蹴飛ばした。
見ると、半透明の白い珠がついたネックレスだった。祖父の遺品の中にあったものだ。
大学のとき、付き合っていた相手に贈ろうと思っていたが、結局その機会がないまま別れてしまった。
その後はずっと見かけなかったが、机の下にでも落ちていたのだろうか。
何となくそれをポケットに突っ込むと、すぐにそのことは忘れて家を出た。
超高層ビル群の間を強いビル風が吹き抜けていく。
いつものように少女は歌っていた。
ここにいるのは少女一人だが、斉唱や重唱、副旋律のコーラスなどに、いくつもの楽器の音色が重なっている。
一曲歌い終わり、二曲目の前奏が聴こえてきたとき、不意に風の感触が変わった。風が硬くなったような気がした。
少女もそれに気付いたらしく、開きかけた口を閉ざした。
周りを見ると、超高層ビル群に重なるようにして巨大な樹々が聳え立っていた。
地面も樹や草も氷で出来てるかのように白く透き通った色をしていた。
白く半透明の樹は高さ二百メートル前後の超高層ビルと同じくらいだから相当な巨木だった。
下から見上げると、巨大な樅の木のようだ。
蟻が白いクリスマスツリーを見上げるとこんな感じに見えるのかもしれない。
そんな樹々が森のように何本も聳え立っていた。
凍り付いた樹々の天辺の辺りが淡いオレンジ色に光っていた。
不意に水滴が流れるように光が枝を伝った。
雫が落ちたように見えたとき、
「メー……エイ……デテア……ペー……」
少女が独特の旋律を呟きながら森の方へ一歩踏み出した。
柊矢は咄嗟に少女の腕を掴んだ。
少女が我に返ったようにはっとして柊矢を見上げた。そして、柊矢に掴まれている腕を見下ろすと真っ赤になった。
「男に腕を掴まれたくらいで赤くなるなんて相当な奥手だな」
少女が更に赤くなった。
「か、からかうために掴んだんですか! 離して下さい!」
辺りを見回すと、森は消えていた。
柊矢は手を離した。
「そうじゃない。あの森に入っていこうとしたから」
少女が、え? と言うように首を傾げた。
「昔、あの森に入っていった人間が戻ってこなかったんだ。だから君が入っていかないように……」
「前にもあの森を見たことがあるんですか?」
「何度かね」
「素敵なところでしたよね」
少女が夢見るような表情で言った。
確かに、見た目だけは水晶の森のようで幻想的だ。だが、二度と帰ってこられないかもしれないのに入っていくのは危険だ。
柊矢がそう言うと少女は素直に頷いた。
「もう時間だから帰りますね」
少女はそう言ってお辞儀をすると去って行った。その後ろ姿を見送ると、柊矢も駐車場に足を向けた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
3
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる