歌のふる里

月夜野 すみれ

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第五章 魂に紡がれゆく謳

第三話

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 うちへ帰ると、小夜が夕食を作ろうとしたので止めた。
 柊矢も楸矢も食事をする気分ではなかったのだ。
 しかし、それでは小夜が納得しそうになかったので、楸矢がデリバリーを注文した。

「今日は休め。また明日考えよう」
 小夜は黙って頭を下げると自分の部屋へ上がっていった。

 泣いたりしない小夜を見ているのが辛かった。
 泣いてくれれば抱きしめて慰めることも出来るのに。
 今はそれすらしてやれない自分が歯がゆかった。
 柊矢達に迷惑をかけないようにと、そればかり気にしているのだ。
 いっそ自分の腕を切ってくれた方がどれだけ気が楽だったか。
 こんなことをして、柊矢が小夜を捨てて沙陽の元へ行くと、本気で思っているのだろうか。
 それほどまでに人の感情というものが分からないのだろうか。
 そんな怪物と一時いっときでも付き合っていたのか。
 何故付き合っているときに分からなかったのだろう。
 二股かけられていると分かったときでさえ、こんな女だとは思いもしなかった。

「くそ!」
 自分の右手で左手の平を殴った。
 本来なら壁か柱を殴りたいところだが、小夜が怯えると思ってやめた。
 柊矢は守るためにそばにいたのに守れなかったという痛恨の思いにさいなまれた。

 小夜は風呂に入って着替えると、自分の部屋のベッドに横になった。
 大丈夫。
 柊矢さん達は心配してくれるけど、私はこんなことに負けない。
 心の中に大切にしまった想いが輝くから。
 柊矢さんのあの胸が痛くなるような優しい笑顔。
 これは私だけの秘密。
 誰にも奪うことが出来ない私の宝物。
 これが心の中で光り続ける限り、誰にも負けない。
 心の中の光は誰にも消せないから。
 そう思うと、自然に胸の中に旋律が浮かんできた。

 これは……既存のムーシカじゃない!
 今、私の中で生まれたムーシカだ。
 歌いたい。
 せめて柊矢達に伝えられるように楽譜にして残したい。
 しかし、小夜は旋律を楽譜にする技術は持っていなかった。
 柊矢や楸矢なら出来るだろうが、伝えるすべがない。
 口がきけないことがこんなに不便だったなんて。
 もし喉が元通りになったら、これからはもっと大切にしよう。大事な声だから。
 柊矢さん達、心配してるだろうな。
 心配かけないようにするためにも、いつも通りにしていよう。

 朝方、うとうとしたとき、包丁を使う音が聞こえてきて柊矢は部屋を飛び出した。
 台所で小夜が朝食を作っていた。

「おい、何やってるんだ!」
 小夜は包丁を置くと、テーブルに置いてあったスマホを手に取って何かを入力した。
 柊矢のスマホに着信音が鳴った。
 ポケットから取り出すとLINEの画面に

 朝ごはんです

 と書いてある。

「こんなときにそんなことしなくてもいいだろ」
 と言うと、

 声が出ないだけで他のことは出来ます

 というメッセージが届いた。

「柊兄、どうしたの? って、小夜ちゃん! 何やってるの!」
 小夜はスマホの画面を見せた。
「そうは言ってもねぇ」
 楸矢は腕を組んで考え込んだ。
 確かに声以外に異常はない。
 なら、普段通りにさせてやった方がいいのだろうか。
 楸矢が柊矢を見ると、彼も考え込んでいた。
 小夜は考え込んでいる二人に背を向けると、包丁を手に取った。

「学校には電話して先生に説明はしておいた」
 小夜が頷いた。
 柊矢が助手席側のドアを開けると、小夜は車から降りて、彼にお辞儀をしてから学校に向かった。
「小夜、おはよう!」
 清美が声をかけてきた。
 小夜は予めLINEに書いておいた、

 おはよう

 と言う文を指した。

「小夜、声出ないの!?」
 小夜が頷いた。
「風邪?」
 首を振る。
「怪我でもしたとか?」

 近いかな

 とメッセージを打ち込んだ。

「治るんだよね?」
 清美が恐る恐る訊ねた。
 心配をかけたくなかったので頷いた。
「そっか。早く治るといいね」

 ありがと

 友達との会話がLINEになっただけで、後は普通だった。
 教科書は読めるし、ノートに字も書ける。
 体育の短距離走のタイムが悪いのは元々だ。

 家でも学校でも、小夜は出来る限りいつも通りに過ごした。
 柊矢と楸矢も今まで通りに接してくれるようになった。

 一週間後、柊矢は小夜を連れて病院へ行った。
 楸矢も一緒に行くといってきかないので連れてきた。

 検査結果はまだ出てない、と言われた。既存の薬物ではないらしい。
 医師は小夜を先に診察室から出すと、柊矢に二度と声が出ないかもしれない、と告げた。
 ムーソポイオスの声を潰す毒か。
 長い歴史の間には今回のような対立は何度もあっただろうし、ムーシカで物事の決着が付くことが多いであろうムーシコスなら、声を潰す専用の毒があってもおかしくない。
 ムーシコスに詳しい沙陽ならそう言う毒の存在を知っていても不思議はないだろう。
 となると、解毒剤の在処か作り方を知っていそうなのは……椿矢か。

 小夜は先に診察室を出された時点で、声が戻らないのだと察した。
 でなければ小夜の前で話すはずだ。
 もう歌えないんだ。
 でも聴こえる。今も。
 ムーシカはいつでも優しく響いている。
 そうだ!
 小夜は、

 楸矢さんはピアノが弾けるんですよね?

 と打ち込んだ。

 画面を見た楸矢は、
「うん。弾けるよ」
 と答えた。

 教えてもらえますか?

「勿論。そうか、歌えるようになるまではピアノ弾いてればいいんだよね」
 楸矢はいい考えだ、と言うように頷いた。

「ムーソポイオス専用の毒?」
 小夜に聞かせたくない話は、彼女が風呂に入っているときにするようになった。
 小夜は男二人からすると長風呂だからだ。
「だろうな。沙陽は薬学には詳しくないはずなのに、普通の検査で分からないと言うことは多分、そう言うものがあるんだろう」

 小夜が二度と歌えないかもしれない。
 そう聞いたとき、楸矢は頭をコンクリートの塊で思い切り殴られたような衝撃を受けた。
 自分がフルートを吹けなくなっても、ここまでのショックは受けなかったに違いない。
 小夜がそのことを知ったらどれだけ傷つくだろう。
 たとえピアノが上手くなってムーシカが弾けるようになったとしても、その音色は他のムーシコスには届かない。
 ムーシコスに聴こえる演奏は、キタリステースが特定の楽器で奏でたものだけだ。

「とにかく、何か知ってるとしたら椿矢だ。なんとしてでもあいつを見つけよう」
「分かった。明日からは椿矢を……あ」
「どうした?」
「俺、小夜ちゃんにピアノ教えるって約束しちゃった」
「そうか。なら椿矢は俺だけで捜す」
「柊兄、ゴメン」
 楸矢は手を合わせた。
「いや、ピアノで気が紛れるならそれに越したことはない。どうせ捜すといっても中央公園だけだ」
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