Door

月夜野 すみれ

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第八話

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 歌夜は手紙を見て溜息をいた。
 保育園に入れないという通知だ。
 これで何度目になるか分からない。
 今は星次のバイト代だけで暮らしているからただでさえ家計が苦しいのだ。
 妊娠中の長期入院で仕事をめざるを得なかった。
 働いていないとなると専業主婦と見做みなされて保育園の入園の優先度は低くなってしまう。
 しかし子供を預けられないと仕事も探せないという悪循環におちいるのだ。

 シングルマザーは優先的に入れるからペーパー離婚をしている夫婦もいる。
 歌夜がペーパー離婚の話を持ち出したとき星次は断固として拒否した。
 普段、歌夜の頼みなら何でも聞いてくれる星次がそれだけは強硬に反対した。
 それくらいなら音楽家を諦めて就職するとまで言われてしまうと歌夜もそれ以上は主張出来なかった。
 歌夜としても書類上だけとは言え離婚などしたくない。

 人に言ったことはないものの本当は何よりも欲しかったのは家族だ。
 書類だけだとしても手放すのは嫌だ。
 とはいえ星次のバイト代だけでは食べていけない。
 この状態が続いたら家賃も払えなくなって親子三人で路頭に迷うことになる。
 待機児童が少なく子育て支援の手厚いところに引っ越そうにも、もうその金すら無い。
 完全な手詰まり状態だった。

「こんな生活になっちゃってホントごめん。歌夜ちゃんのこと幸せにしてあげたかったのに……」
 星次が車を運転しながら言った。
「星次さんは今、幸せじゃないの?」
「俺は幸せだよ! 歌夜ちゃんがいて、小夜がいて、それだけで十分だから! けど歌夜ちゃんには楽な暮らしをさせてあげたくて……」
 三人は今、車で演奏会場に向かっていた。
 他県で行われるのだが金がないのでホテルに泊まることすら出来ず、車の中で寝なければならない。
 だから電車ではなく車で向かっているのだ。

「……映画みたいだね」
 歌夜が言った。
「え?」
「前にTVで観た映画。車の中で暮らしながら全国で興行して回る家族の話。ああいうのも悪くないんじゃない?」
「歌夜ちゃん……」
 歌夜の言葉に何度励まされたか分からない。
 歌夜と結婚して子供まで授かることが出来ただけでお釣りが来るくらい幸せだった。
 このまま音楽家になれなかったとしても十分すぎるくらい……。

 そうだ……。

 望んだのは名声でも肩書きでも賞賛でもない。
 あの時、あの人の事は何一つ知らなかった。名前すら。
 感動したのは演奏だ。
 だから自分もクラリネットを始めたのだ。
 子供の頃は吹いてるだけで満足だった。

 歌夜は自分の演奏を聴いて音楽に興味を持ったと言っていた。
 あの人と同じ事が出来たのだ。
 それもこの世で一番大切な人で。
 もうとっくに夢は叶っていた。
 今の望みは歌夜と小夜に安定した生活をさせてやることだ。

 この演奏会が終わったら仕事を探して就職しよう。
 クラリネットは趣味で続ければいいのだ。
 人に聴いてほしいなら公園で吹けばいい。
 通りすがりの人だって立派な聴衆だ。

 歌夜は歌が聴こえてきたのに気付いた。
 いつもと感じが違う歌……。
 何かすごく嫌な感じがする歌だ。
 そう思うのと小夜が泣き出すのは同時だった。
 やっぱり小夜にも聴こえてるの……?

 小夜の泣き声を聞いて車を止めようとした瞬間、星次の目の前が暗くなった。

 突然車が急加速し、歌夜はシートに押し付けられた。
 歌夜が驚いて運転席を見ると星次は目を閉じて頭を垂れていた。
 意識を失ったためアクセルペダルに乗せていた足が思い切り踏み込まれているのだ。
 急な下り坂という事もあって車はどんどん加速していく。
 スピードが上がるにつれて車の揺れが激しくなる。

「星次さん!? 星次さん!」
 歌夜が星次の体を揺するが目を覚まさない。
 前方を見ると遠くにあったはずの壁がすごい勢いで近付いてくる。
 これでは壁に衝突してしまう。
 しかし車の運転が出来ない歌夜には止める方法が分からない。

 このままじゃ小夜も……。

 なんとか小夜だけでも助けたい。
 歌夜は後部座席を振り返った。
 その時、白い森が見えた。

 お願い、小夜を助けて!

 咄嗟とっさにそう願った瞬間、小夜ごとチャイルドシートが消えた。

 助かった。

 直観的ちょっかんてきにそれを悟った。
 誰が、とか、どうして、とかは分からない。
 ただ小夜の無事を本能的に理解した。

 白い森はまだ見えている。
 歌夜も助けてくれようとしているらしい。

 小夜だけでいいよ。

 歌夜は星次に抱き付いた。
 星次のいない世界で生きていくのは嫌だ。
 ずっと星次と一緒にいたい。

 歌夜の想いを悟ったらしい。
 白い森が消えた。

「星次さん、私、すごく幸せだったよ。ありがとう」
 歌夜は意識のない星次にそう囁いた。

 一人にしてごめんね、小夜。
 どうか、あなたも私と同じくらい幸せに……。

 小夜のために祈った瞬間、車が壁に激突した。

 暗闇の中に光が見える。
 どうやら星次が行くべき方向はそっちらしい。
 そう思って足を踏み出そうとした時、歌が聴こえてきた。
 これは前に歌夜が歌っていた歌だ。
 あの時は聴き取れなかったのに何故かそれが分かった。
 歌声の聴こえる方にも光が見える。
 歌夜がいるのは歌が聴こえてくる方だ。
 向こうに歌夜がいる。
 星次は迷わず歌が聴こえてくる方向に進み始めた。

 燃えさかる車の数メートル後方に小夜の乗せられたチャイルドシートが現れた。
 遠くからサイレンの音が近付いてきた。
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