幸福の定義

葉月+(まいかぜ)

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走馬灯の途中

世界の答えと新たな役目

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 世界が平和になってから一年程も経った頃、鈍感な死神ゼスは気が付いた。どういうわけかここ最近、自分の「代行者」であるルカが人を殺してないことに。
 ルカが人を殺さなくなったことに一年も経ってようやく気付いたゼスはけれど、それ自体を問題だとは思わなかった。ただほんの少しだけルカのことを心配して――何故ならゼスは、ルカのように死神と契約して、取り返しのつかないほど心を病んでしまった「代行者」の話をうんざりするほど聞かされていたから――ルカがただ「殺さなくなった」だけだということが分かるとちょっぴりほっとした。
 ゼスの代わりに人を殺すルカはいつだって殺しすぎてしまうから、ゼスはいつの頃から余計な心配をし始めていた。いつかルカが全ての人を殺し尽くしてしまうのではないだろうかと、人を殺すために生まれながら、人を殺すことに飽いてしまった死神のゼスは心配していた。けれどそうなることはなさそうだと分かってほっとして、だからある日、ルカに尋ねた。

「もう人は殺したくないの?」

 尋ねられ、ルカは素直に頷いた。まさかゼスが――ただ人を殺すために世界が望んだ死神ともあろう者が――自らルカに手渡した大鎌――死神の鎌ごと預けられた殺人衝動――の意味をすっかり忘れてしまっているとは、夢にも思わなかったから。
 もう世界は、ルカ――ひいては、ルカを「代行者」とするゼス――が人を減らすために人を殺して回ることを望んでいない――そういうつもりで、ルカは答えた。ゼスが呆れるほどに鈍感で愚かな死神であることは、きっと誰よりもルカが知っていたのに。何故かその時、ルカはその一言で自分の考えていることがそっくりそのまま――何の誤りもなく――ゼスに伝わると、疑いようもなく盲目的なまでにただ信じていた。

「うん」

 けれどゼスはルカの肯定を、正しく額面通りの意味で受け取った。つまり、「もう人は殺したくない」のだという意味で。
 ゼスとルカは、出会ったその日に取り引きをした。ルカがゼスの代わりに人を殺し続ける限り、ゼスはルカを生かし続けると。二人が交わした「契約」はそういうものだった。だからルカがゼスの代わりに殺すことをやめてしまえば、ゼスはもうルカを生かしておいてはあげられない。けれどルカはいつだって――他の死神たちが羨むほど――熱心にゼスの仕事を肩代わりしてきた。自分と同じ人を殺し続け、そんなルカのおかげでゼスは、もう何年も自分の鎌に触れてさえもいない。
 ゼスは心からルカに感謝していた。ルカがいつも殺しすぎてくれたおかげで、多分きっと自分はおそらく、ルカが死んでしまうくらいまでなら仕事をサボっていられるだろうから。
 心からの感謝を込めて、ゼスはルカの頭を撫でてやった。

「おつかれさま」

 もう頑張らなくていいからね――と。

 その一言を聞いた瞬間、ルカは即座に理解した。これは罰だと。
 世界に対してゼスを願った、これが罰。「神」はルカに対価を与えない。その働きさえ当然のものと考えて、分不相応な望みを告げた自分に罰を与えたのだと――理解して、ルカは青褪めた。
 そんなルカに追い打ちをかけるよう、ゼスはルカに「死ぬまで死なない命」を与えると言う。黒衣の魔法もそのままに、預けられた大鎌さえ、ルカが死んでしまうまでは自由に使っていいのだと。
 殺している限り生きられたルカはもういない。ゼスによって生かされ、ゼスのために生きていた自分はもう必要とされていない――そんな事実を他でもないゼスから突き付けられたように感じて、ルカの目の前は真っ暗になった。ゼスがとうに、これまで「ルカとゼス」だった二人が「ルカ」と「ゼス」になった後のことさえ考え始めているのだと――そうとしか思えないようなことを次々告げられて――分かってしまったから。
 ルカはその時、本当にほんの一瞬、ゼスのことを酷く「殺したい」と思った。そしてそんな自分に驚いて――慄いて――ゼスのことを「殺したい」と思った次の瞬間には、逃げるようゼスから離れていた。

「小さいの…?」

 そんな自分にまた驚いて――そんなことができてしまった自分に慄いて――ルカは言葉を詰まらせる。けれどそうでなかったとしても、いったい何が言えたというのだろう。
 ゼスはもう、ルカを必要とはしていないのだ。

「…わかった」

 おつかれさまと、ゼスは言う。もう頑張らなくていいのだと。
 黒衣の中で、ゼスの一部でしかなかったはずの大鎌が、声も高らかに「ゼスを殺せ」と叫んでいた。それはきっと自分が言わせていることなのだろうと、ルカは考える。けれど死神の鎌を解き放ちゼスの命をくれてやるなんて、そんなことができるはずもなかった。
 だからもう、ルカはゼスの傍にいられない。いたくなかった。ゼスさえそれを望まないのだから、いられるはずもない。

「さよなら、ゼス」

 そうしてルカは、ゼスとエスターと三人で何年も暮らした「家」を飛び出した。
 そんなルカを、ゼスも追いかけてはこなかった。

 全てが終わったのだと疑いようもなく知らしめられて、それでもまだゼスのことを愛している――そんな自分に、ルカは声を上げて泣いた。
 ゼスと出会ってから、初めて流す心からの涙だった。

 ルカがゼスとの契約を解消したと、噂はどういうわけかあっという間に伝播した。ついにルカがゼスに愛想を尽かしたのだと妙な歪み方をして、けれどそれを聞いた死神たちは誰もが深い納得を示し、ルカはゼスには過ぎた「代行者」だったと、ルカの選択を称賛さえしながらゼスを「甲斐性なし」と嘲った。
 その頃には、二人を知る死神の誰もがルカの気持ちを知っていた。強く賢く美しい上に献身的なルカにひたと愛されるゼスだけが一人、病的なまで鈍感にルカのことを子供扱いし続けるものだから、誰もがそんなゼスにルカの方が愛想を尽かしてしまったのだろうと思って疑わなかった。真実を知るものなどいないから。
 一人になったルカを何人かの死神が――今度は自分の「代行者」にならないかと――訪ね、その全てをルカは殺した。ゼスでなくとも死神と顔を合わせれば、ルカは相手を殺したくて仕方がなくなるようになっていた。
 それがかつて――世界の意思に従い人を殺していた頃――の殺人衝動と同じ種類の殺意だと気が付いたのは、四人目の死神を殺し終えた後――その時ルカは、一縷の希望を手に入れた。
 増えすぎてしまった人の数に比例して、死神の数もまた増やされていた世界。人が減らされたのだから死神もまたその数を減らされなければならなくて――だから特別な死神のゼスが今度は「死神を殺す死神」にされたのではないだろうかと、ルカは考えた。そしてゼスの大鎌は、未だにルカが持っている。だからゼスが覚えるはずの「殺神」衝動を――これまでの殺人衝動がそうであったよう――自分が肩代わりさせられ、あの時――あの日、ゼスと別れる直前に――大鎌は「ゼスを殺せ」などとおぞましい叫びを上げたのではないだろうかと。
 もしそうならば、また殺していけばいい――そうしてルカは、思うがままに殺し始めた。毎日毎日毎日毎日、ゼスと同じ――けれど確実に、ゼス以外の――死神を、殺したいだけ殺し続けた。

 いつかまた、せめてゼスの姿を遠くから眺めるくらいのことができるようになればと。
 今となってはたったそれだけの望みが、ルカを支えるものの全てだった。




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