蛇飼の魔女

葉月+(まいかぜ)

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本編

花売り女と海の蛇

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 ここはだめだ。
 そう、影が囁く。

 どうしてだめなの。
 あたしは尋ねる。

 どうしても。
 影は言った。

 どうしても、ここを出て行かなければならない。





 逃げたところで、どこへ行くあてもありはしないのに。










「――おい」

 黄昏時だ。
 逢魔が時。
 そんな時分に背後から、声をかけられ振り向いて、一つ、瞬く。

「あら」

 見かけの若い男が立っていた。
 若い、といっても二十かそこら。充分若いが子供ではない。線は細いが程良く肉がつきもした、美丈夫。
 いい男。

「お兄さん、あたしを買ってくれる?」
「あ?」

 これでいいやと、安易に決めた。
 どうせ誰でも構いやしない。
 にこりともせず尋ね、答えを待った。
 不躾な質問にか、愛想の無さにか、男は器用に片方の眉を跳ね上げて見せる。

「…幾らだ?」
「一晩で金貨一枚」
「あんたくらいの器量良しなら、一枚といわず一晩に金貨十枚でも客がつくだろ」
「金貨一枚で一晩あたしを好きにしていいよ。でも、好きにするだけだから」
「へぇ…」

 頭も悪くないらしい。
 発せられた言葉の意味を正しく理解して、男の目に宿る興味がその事実を示す。
 言ってわからない輩も多い。
 そういう意味でも、いい男。
 めっけもの、だ。

「あんたは何もしないのかい」
「あたしくらいの器量良しなら、それでも客がつくもので」
「ハッ」

 これくらいの物言いで、機嫌を損ねるようなこともないだろう。
 そういう打算で放った言葉に、予想と違わず満更でもない顔をする。
 決まりだろうと、どこかで感じた。

「お兄さん、あたしを買ってくれる?」
「いいぜ」

 男は一枚、金貨を放る。

「夜が明けるまで、あんたは俺の女(もん)だ」

 前払いとは、どうやら気前もいいらしい。

「あい」

 夕暮れの焼け付くような色を受けてきらきらと光り、落ちてくる。まぁるい金貨を両手で受け取り、そのとおりだよとにっこり応じる。
 お客に振る舞う愛想はお代のうちだ。

「来な」

 男はいかにも、人を従えるのに慣れた様子で歩き出す。
 従うのに慣れた女がその後ろをついて行こうとすれば、強引なようでいてまったくそうでない、いっそ紳士的なくらいの強さで隣に並ばせた。
 腕を組むよう促され、そのとおり。ついでとばかりしなだれかかると、咎めもせずに放っておかれる。
 やはり、いい男だ。女の方が金を出してでも抱かれたいと思うような。一夜限りの相手など、探すまでもなく群がってくる類の。
 そういう男こそ、己の好みで女を選ぶものだ。そういう男だからこそ、選ぶことができる。選ばざるをえない。

 選ばれるのは気分が良かった。

 宿へしけこむにはちと早い時間。当然のよう食事のできる店へと連れられ、ならばと男に見合う「いい女」を演じ、まるで買われたことなどないよう振舞っている間は、憂鬱で変わり映えしない日常のことを忘れていられた。
 夜が明けるまでは思い出す必要もない。
 食事の最中、男とは長年連れ添った夫婦か恋人同士のよう気兼ねなく話ができた。そんなものがいた試しはないが。いれば、おそらくこんな風だろうというように。
 どれくらいぶりにか質のいい食事にありついて、意味のある会話をこれまでの何年分もした。
 これ以上の男には、きっともう二度と巡り合うことがない。そういう確信は胸の奥の方に生まれ、飲み干すワインの味と混ざり、苦く沈んでいった。

 もちろん、己の分はわきまえている。

 食事を終えて宿へ上がると、あとは、いつものとおり。
 それでも、かけられただけの手間は返しておこうという心持ちになっていた。
 珍しく。おそろしく、殊勝なことに。

「脱ごうか?」

 上着一枚脱ぎ落とした薄着姿。上等な寝台へ腰掛け尋ねると、男は顔色一つ変えることなく奥を指差して言う。

「先に湯を使いな」
「あい」

 入り口と別な扉一枚隔てた向こうには、広い浴室。
 これから抱く女が花売りだから、ではなく、相手が誰であろうと男は先に体を洗わせただろう。そう断言できるほどには言葉を交わし、男のことも理解したという傲慢が、いつもより念入りに肌を磨かせた。

「お先に」
「おう」

 上がれば、代わりに男が浴室へ。
 テーブルに飲みかけの酒とグラスを見つけ、また飲んでいたのかという呆れ半分、これくらいのことで機嫌を損ねるような狭量でもないだろうという打算半分に手を付ける。
 男は二杯目の途中で戻った。
 行水だ。

「あんた、名は?」

 人の飲みかけを一息に煽った男は花売り女の手を引いて、上等な酒へ手をつけたことは咎めもせずに寝台へと誘う。
 抗う理由は何一つとしてなく、また、それが許される立場でもなかった。
 買われた女は大人しく組み敷かれて笑う。

「夜が明けるまではあんたの女(もの)だよ。好きに呼べばいい」
「…そうか」

 今更、何故そんなことを聞くのかと、おかしくもあった。
 あれだけ話をしておいて、そういえば、男の名さえ知りはしない。

「あんたは?」
「俺か? 俺は――」

 訊かなければよかったのに。訊いてしまって、誇らしげに笑う男の目を見た。
 海のよう、青い色をした目の奥底を。

「ヨシュア・ヨルムンガンド」

 こんな夜も悪くない。
 一生に一度くらいは、こんな夜も。

(意外とかわいい名前…)

 覗き込んだだけ覗き返されていることに気付いて、目を閉じた。
 喉の奥でくつりと笑ったのは、覆い被さっている男(ヨシュア)。

 ヨシュア・ヨルムンガンド。

 陸暮らしの花売りさえその名を知っている。
 この男がそうなのか…と、不思議と、疑う気持ちは生まれない。それどころか、すんなり納得してさえいた。
 海の魔物と称される、海運王。この広い大陸で唯一、外海(そとうみ)へと船を出すことのできる男。
 ヨシュア・ヨルムンガンドを捕まえて、そこらの男と比べ物にする方がおこがましいというもの。
 いい男なのも、当然だ。

「お兄さん…?」

 いい「思い出」になるだろう。
 そう思い、目を閉じたのに。
 髪を梳き、下りた手はそのまま肩を素通りして胴を抱えた。
 ごろりと寝台へ横たわるヨシュアに抱き込まれ、視界が濡れた素肌で埋まる。

「なんだい、これ」
「なにって」

 何もおかしいことはしていない、とばかりの声に、混乱は深まった。

「何もしないの?」

 花売り女をただ抱いて眠ろうなんて、酔狂が過ぎる。
 思いの外、幼く他愛のない子供じみた声が零れてしまったことを誤魔化すため殊更強く睨みつけると、ヨシュアは気にした風もなく目を閉じて、それこそ子供でもあやすようバスローブ越しの背中を叩いた。
 そして事も無げに言う。

「金貨一枚なら、こんなもんだろ」

 酷い男だ。




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