3 / 11
本編
抱き枕の自尊
しおりを挟む外海(そとうみ)を統べる海運王。
ヨシュア・ヨルムンガンドは根無し草だ。
彼だけが外海を安全に航海する術を知っている。
だから、彼の家は船の上。陸(おか)には時折、商売のため立ち寄るばかり。
そんな男が袋を差し出す。
ずっしりと重そうな、革の袋だ。
嫌な予感を覚え受け取らずにいると、あっという間に腰を引かれて腕の中。胸の間で潰れた両手に、じゃらりと重い袋が乗せられる。
これ見よがしと緩められた口から、眩いばかりの黄金色が覗く。
「とりあえず三十枚ある」
ざっと3000R。
金額ではなく枚数で告げられたことが、どういうわけか酷く直接的な物言いであるよう思えて仕方なかった。
とりあえず、三十日。
「船に戻れば、もう何百枚か」
それから更に、何百日。
「あたしをどこまで連れてく気?」
「あんたはどこまで行きたい?」
なんて恐ろしいことを平然と言ってのける男だろう。
人を怒らせることにかけては天賦の才がある。
「――御免だね」
これは怒っていい。
ここで怒らなければ。
そう意を決し、袋ごと、夜明け近くに渡された今日の金貨も突き返す。
体の中の《マナ》を意識して、魔力を込めて突き出した腕はなんとか男の体を引き剥がし、また捕まる前にと身を翻した。
「抱き枕が欲しけりゃ他をあたりな!」
宿の一階。
泊まり客でなくとも食事にありつくことのできる食堂でのこと。
遅めの朝食か早めの昼食にあたる食事を終え、そろそろ出ようと動きかけていたところ。
足に合う靴は簡単に、身軽な体を宿の外へと飛び出させた。
言い逃げだ。
服はありがたく貰っておくことにして、通りを横切り、向こう側の路地へと飛び込み建物の影を踏む。
「《闇》よ、たゆたいしもの――」
《闇》に属する「影」を介した空間転移。
闇の精霊による祝福を受けているからこそ許される暴力的なまでの力技で、一息に棲家へと逃げ戻るための魔力を練り上げる。
「我が声を聞け、」
特に意識して方向を定めない限り、注ぎ込んだ魔力の分だけ距離を稼ぎ、出やすい場所に出るのが精霊による転移の常だ。
出やすい場所とは、すなわち魔力の馴染んだ場所。この街中で一夜を明かした宿は数あれど、過ごした時間はどこも本来の棲家に負ける。
「我が身を運べ」
何より使い慣れた魔法を結び損なうはずもなく、影を踏んだ次の瞬間には――練り上げた魔力をごっそりと持っていかれながらも――無事、見慣れた棲家へ戻ることができていた。
暗い室内はこういう時のために締め切られ、念のため、魔力をたっぷり注いだ魔石が目印代わりに置かれてさえいる。
とりあえず、使った分の魔力はその魔石から補填した。
占いに使われる水晶ほどの大きさをした丸い魔石を抱え、ぎしりとスプリングの軋むベッドへ沈む。
(逃げてきちゃった…)
海運王相手にあれはなかった。
下手な貴族に喧嘩を売るより相当不味い。
後の祭りとはよく言ったもので、後悔は後からじわじわ湧いてくる。
ついカッとなってやった。
逃げ足は早かったと思う。
躊躇なく、迅速に、手際よく。
精霊魔法の転移は辿れるほどの痕跡を残さない。通常の魔術による転移と違い、術者の魔力がただ精霊への対価として使われるから。ヨシュアがどれほど優れた魔力の探知能力を有していたとしても、ありもしない足跡は辿れない――はずだ。
考えれば考えるほど不安になって、体を起こす。
抱えていた魔石を部屋の暗さと混ざった影の中へと放り込み、部屋を飛び出した。
行くあてなどない。
ないからこそ、どこへでも行ける。
まず、向かう先は結界都市を結ぶ《門(ゲート)》のある神殿。
金はかかるが、手っ取り早く距離を稼ぐのに《門》以上のものもない。この際、大枚叩いて海のない内陸の《フィーアラル》か、《ティーディリアス》の領域まで足を伸ばしても良かった。そうすれば、自前の船で外海を大陸の縁に沿って移動するヨシュアと出会す可能性など皆無に等しい。クレイズ商会の航海は、海運王の存在なしに成り立たないともっぱらの噂だ。
海沿いの街になんて二度と来るものか。
そういう決意の下、《門》への門番を務める神官へ昨日の稼ぎを丸ごと弾いて地下へと下りる。
《門》が地下にあるのは大陸中、どこの結界都市でも共通していた。
《門》のある部屋を囲むよう伸びる長い螺旋階段を駆け下り、中央に「ノリエラ」とミッドガルド最北端の街の名が記された床を踏む。
床にはあと六つ、この部屋から行ける街の名が記されていた。その中から選ぶのは当然、ノリエラから見て最も内陸の街。
黒く塗り潰された壁のようにしか見えない《門》をくぐる直前、何を必死になって逃げているのだろう…と、馬鹿馬鹿しく思いもした。追ってくるわけがない――と。
それでも、再び顔を合わせる可能性が少しでもあるような街にはいられない。あんなにも女としてのプライドを踏み躙られた街で、この先、何喰わぬ顔で花売りを続けられるはずもなかった。
(嗚呼、腹立つ…)
ほんの一歩。《門》の向こうへそれだけ踏み出すと、そこはもう見知らぬ街。
立て続けに幾つもの《門》を抜け、その実感もないまま数百キロの距離を移動した。
《クロスロード》から《フィーアラル》へ、領の境を《門》で越えるには煩雑な手続きが必要となる。それは公務による使用でない限り、《門》を使わず歩いた方が早く済むほど冗長な手続きだ。その上、待つだけ待たされて許可が下りないということもままある。むしろ余程のコネがない限り、そういうものだというのが世間一般の認識。だから《クロスロード》の端で《門》による移動を終え、残りは地道な徒歩移動へ切り替える。
領の境を越えた先。次の街で落ち着こう。
そう考えて、夜を待つ。
日が沈むと街壁(がいへき)の門は閉ざされて使えない。かといって、夜明けを待つつもりも毛頭なかった。
夜の闇に紛れ近付いてくる魔物を恐れて縮こまるのは、力ない人のすることだ。
真当な人外には夜の暗さも、魔物の脅威も関係がない。
客を探すでもなく街の隅で息を潜めて夜を待ち、周囲が充分暗くなってから、建物伝いに街壁を越えた。
十数メートルの高さから飛び降りて音も無く着地を果たし、影の中から引き出した濃い色の外套で体を包むと、街道沿いの森へ飛び込む。
次の街まで、今夜いっぱい休まず走れば夜明け前に街壁を飛び越えられるだろうという距離。もちろん馬鹿正直に歩きはしない。途中で何度か精霊魔法の転移を挟み、小狡く距離を稼いだ。
夜ほど闇が深ければ精霊の力も強まって、多少距離が伸びようとも昼間の街中ほど対価(まりょく)は求められない。
そうして夜明けを待たず、目的の街へと踏み込んだ。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
6
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる