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2021年8月24日。矛盾に満ちたヤバい自分。
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エッセイ8月24日。
Twitterの遊びハッシュタグで『フォロワーがあまり知らなそうなことを自己紹介』とあるので暇があれば書き記している。最近は絵描きアカウントを中心に多くフォローし、またフォローし返されてるので。新規フォロワーへ自己紹介だ。
暇があるならエッセイなり小説なり書けって? それを言っちゃあおしめぇよォ~。自分のペースでやりますよォ~。
何か自分の身上を表せるものはあるか、と考え込んでいると、趣味、性癖、過去の経験など色々出てくるが、今日考えてみて気付いたことは……僕は酷く矛盾した感情や思想が常に混在している、という困った特徴だ。
現実世界での恒久和平や安寧を願っているはずが、TVやらネットやらで戦争や犯罪や生々しい人の業を見聞きすると「ああ、もう、この世なんて勝手に滅べばいいのに……」などと悪態をついている自分もいる。
真摯に、調和の取れた生き方を望んでいるはずが、一方で酷く混沌として刺激を求め、不誠実な自分。
もっと自己の内面や我を解放したいと思いつつ、他者との交流で波風を立たせたくなくて仮面(ペルソナ)に仮面を何重にも被り、虚実が入り交じる。それが例え親しい友人や家族であっても。
愛しいものを想像する時、優しく愛情を持って愛でる自分のたおやかで静かな心と、サディスティックにメチャメチャに引き裂きたいとすら思ってしまう残虐な心。
そう思って自己の内面を見ると、何と混迷を極めた度し難い人間だろう。
『人間はそんな単純には出来てないさ。色んな面があるのさ』
という声も聞こえてきそうだが、ここまで極端に二面性が混在していると……それも残酷さと信実という、『白と黒』『陰と陽』ぐらいの相反するモノを抱えてしまっている自分は、かなり危険なんじゃあないかと思うことがある。自分自身の精神や肉体は勿論、他者に対しても。
そもそも自分は30数年ばかり生きてきて(割りと昔からそうなのだが)、厭世観が強く人間嫌いな方だ。この世に酷く絶望しつつも、『何か』にしがみつくようにして生への執着を捨てない。人が創る世界など、ろくなものでは無い。
などと言ってはみるものの、現実世界で僕はそんなに思い切った行動を取れないし、人当たりもからくなれない。
他者との交流の中でも、人嫌いな癖に他者からの厚意や共感、またこちらからの好意や信実などを交換することを全くと言っていいほどやめていないのだ。
人はゴミみたいなものだ。
でもどこか愛おしい。
自分は酷くつまらない人間だ。
でも誰かに愛して欲しい。
辛い時は放っておいて欲しい。
でも目いっぱいかまって欲しい。
そんななけなしの希望のようなものにしがみつくようにして生きているのかもしれない。
これはやはり僕が特殊な、酷く醜い人間だからなのか。それとも大半の人はそうなのか。
ところで、漫画にしろ小説にしろ、創作活動というものは『究極的な自己と対話や向かい合うこと』らしい。
ならば、日々暇を与えられると紙とペン、モニターになにごとか書き込んでいる(描き込んでいる)、そして様々な人物の人生や心情、ドラマを夢想している僕のような人間は穴が空くほど自分と対話していることになる。無論、このエッセイを書いている最中も。
これをずっとずっと……何年も何十年も続けるとどうなってしまうのだ? そこに人間的な成長はあるのか? 塵芥のような僕にも成長があるのか?
少なくとも、自分と対話していることによってこのような矛盾に満ちたヤバい人物像ぐらいは見えている。
こんな世界で、こんな人間が居ていいのか?
ただひとつ言えることは。
創作は楽しい、そして歪み切った僕のような人間への癒しだ。
図々しいかもしれないけども、創作への没頭をつらい時の慰みにして生きていきたいものだ。幸い、創作は創作で仲間との話のタネにはなる。
Twitterの遊びハッシュタグで『フォロワーがあまり知らなそうなことを自己紹介』とあるので暇があれば書き記している。最近は絵描きアカウントを中心に多くフォローし、またフォローし返されてるので。新規フォロワーへ自己紹介だ。
暇があるならエッセイなり小説なり書けって? それを言っちゃあおしめぇよォ~。自分のペースでやりますよォ~。
何か自分の身上を表せるものはあるか、と考え込んでいると、趣味、性癖、過去の経験など色々出てくるが、今日考えてみて気付いたことは……僕は酷く矛盾した感情や思想が常に混在している、という困った特徴だ。
現実世界での恒久和平や安寧を願っているはずが、TVやらネットやらで戦争や犯罪や生々しい人の業を見聞きすると「ああ、もう、この世なんて勝手に滅べばいいのに……」などと悪態をついている自分もいる。
真摯に、調和の取れた生き方を望んでいるはずが、一方で酷く混沌として刺激を求め、不誠実な自分。
もっと自己の内面や我を解放したいと思いつつ、他者との交流で波風を立たせたくなくて仮面(ペルソナ)に仮面を何重にも被り、虚実が入り交じる。それが例え親しい友人や家族であっても。
愛しいものを想像する時、優しく愛情を持って愛でる自分のたおやかで静かな心と、サディスティックにメチャメチャに引き裂きたいとすら思ってしまう残虐な心。
そう思って自己の内面を見ると、何と混迷を極めた度し難い人間だろう。
『人間はそんな単純には出来てないさ。色んな面があるのさ』
という声も聞こえてきそうだが、ここまで極端に二面性が混在していると……それも残酷さと信実という、『白と黒』『陰と陽』ぐらいの相反するモノを抱えてしまっている自分は、かなり危険なんじゃあないかと思うことがある。自分自身の精神や肉体は勿論、他者に対しても。
そもそも自分は30数年ばかり生きてきて(割りと昔からそうなのだが)、厭世観が強く人間嫌いな方だ。この世に酷く絶望しつつも、『何か』にしがみつくようにして生への執着を捨てない。人が創る世界など、ろくなものでは無い。
などと言ってはみるものの、現実世界で僕はそんなに思い切った行動を取れないし、人当たりもからくなれない。
他者との交流の中でも、人嫌いな癖に他者からの厚意や共感、またこちらからの好意や信実などを交換することを全くと言っていいほどやめていないのだ。
人はゴミみたいなものだ。
でもどこか愛おしい。
自分は酷くつまらない人間だ。
でも誰かに愛して欲しい。
辛い時は放っておいて欲しい。
でも目いっぱいかまって欲しい。
そんななけなしの希望のようなものにしがみつくようにして生きているのかもしれない。
これはやはり僕が特殊な、酷く醜い人間だからなのか。それとも大半の人はそうなのか。
ところで、漫画にしろ小説にしろ、創作活動というものは『究極的な自己と対話や向かい合うこと』らしい。
ならば、日々暇を与えられると紙とペン、モニターになにごとか書き込んでいる(描き込んでいる)、そして様々な人物の人生や心情、ドラマを夢想している僕のような人間は穴が空くほど自分と対話していることになる。無論、このエッセイを書いている最中も。
これをずっとずっと……何年も何十年も続けるとどうなってしまうのだ? そこに人間的な成長はあるのか? 塵芥のような僕にも成長があるのか?
少なくとも、自分と対話していることによってこのような矛盾に満ちたヤバい人物像ぐらいは見えている。
こんな世界で、こんな人間が居ていいのか?
ただひとつ言えることは。
創作は楽しい、そして歪み切った僕のような人間への癒しだ。
図々しいかもしれないけども、創作への没頭をつらい時の慰みにして生きていきたいものだ。幸い、創作は創作で仲間との話のタネにはなる。
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