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話があるんだ
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ずっと、決めていたことがあった。
それは、自分がバンドを始めた時─いや、多分もっと前から、恐らくギターを弾き始めた時から、決めていたことだ。それはメンバーの誰にも言ってこなかったし、隠していたわけではないが、なんとなく言わずにいた。
若い頃に通っていたCDショップ。今はもうシャッターが閉まっていて、外壁には、落書きを消したような跡があった。【CDショップ アンテナ】とか、確かそんな感じの名前だった気がする。看板はもう当然ない。
「テナント募集」と書いたポスターが長いこと貼ってあるが、すでにだいぶ黄ばんでいた。電話番号が申し訳程度に記載してはあるが、電話して、果たして繋がるのだろうか。昭和屋不動産。
そして、そのすぐ真横に、「Now on sale」と書かれたCDアルバムを宣伝するポスターが貼ってあった。誰が貼ったのかは知らないが、まあなんとなく想像はつくが、そのA4サイズくらいのポスターが宣伝するCDアルバムは、通算20作目の、自分たちのバンドのアルバムだ。
─20枚もアルバムをこの世に送り出せるなんて。
そんな事を言う大御所バンドをいくつか見てきた。若い頃はあんなに尖っていたのに、歳を取ったら、そんなふうにちゃんとおじさんになって感傷に浸るんだな、なんて思っていたが、自分も、そして恐らくメンバーたちも、立派にそんな大御所バンドたちと同じようになっている。
久しぶりに電車に乗って、あえて少し手前の駅で降りて、そしてここまで歩いて来るのに、何人かとすれ違った。誰も、自分を「ヘブンズ」のギタリストだと認識してはおらず、握手もサインも、撮影も、頼まれはしなかった。長いことバンドをやっていても、まあ、自分はギタリストでフロントマンではないし、ファンでもない限り、わからないのは当然だろうと思う。20枚、アルバムを出していても、そんなものなのだ。
A4サイズのポスターがちょっと右下がりに貼ってあるような気がしたので、ちゃんと貼り直してから、再び歩きだした。
アンテナのおっちゃん、元気だろうか。そんな事を思いながら、懐かしいような、変わらないような、目新しいような、いや目新しくはないな。東京の下町、小さな商店街を歩く。落ち葉がカサカサと転がっている。やっぱり今日、ちゃんと言おう。なんとなくそう思った。
本当に小さな商店街だ。だからこそ、シャッターが閉まっている店がよく目立つ。だけどその奥で、何か作業をしている音がする。閉店はするさ。永遠に続く店なんてない。時は流れているのだから。だけど、また新しくなって、若い奴か、そうでもない奴か、まあとにかく新しい店となって、循環していく。
アンテナの跡地で、自分が、小さなCDショップでも開こうかな。そうだな、CDだけじゃこのご時世、やっていけないだろうから、古本も並べてみたい。少し古くて、凝った雑誌も良い。写真集なんかもとても良いと思う。中古のギターを置いてもいい。多少の不具合なら直せるし。週末は、若い奴らを呼んで、小さなコンサートを開いたっていい。自分はもう弾かないけれど。辞めたって、もう少し、恐らく人生は続くのだ。多少の金はあるから、十年くらいは儲けがなくてもなんとかなるだろう。くだらないような真剣なような妄想をしながら、歩き続けた。
事務所のドアを開ける前に、腕時計を見た。ああ、35分も遅刻している。相変わらずいつもそうだ。だけどメンバーは、そんな自分を許してくれる。良い奴らに会えた。
30年。そして、20枚のアルバム。
「バンド、辞めようと思ってるんだ」
ドアを開ける前に、目を閉じてから、自分にしか聞こえない声で、小さく呟いた。
ヘブンズというバンドは、ギターの長岡が考えた名前だ。
確か、俺らの音楽が、天国まで届くようにとかなんとか、そんな事を言っていた気がする。響きがかっこよかったので、それを採用した。他にかっこいい名前のアイディアがなかった、というのも大きな理由だ。
「ザ・バグズ」とか、「ヘビトカゲズ」だとか、意味のわからない名前のアイディアばかりでどうしようもなかった気がする。なにしろもう30年以上も昔の話だ。インタビュアーも、バンド名の由来は?なんて、そんな事を今さら聞いてはこない。
「バンド名はヘブンズがいい」
長岡の一言で、あっさり決まったバンド名。異論なんてもちろんなかった。
それで、はじめにバンドをやろうと言い出したのは誰だったか。俺か?俺じゃないよな?いや、俺かもしれない。そうだな、確かに俺だった。
そうだ、フラれたんだ。七回くらいは告白したと思う。同じ女の子に。手紙も含めていいのであれば、十数回を超えるかもしれない。今思うと、マジで引く。ただ、俺は本気だった。本気で自分の女にしたかったのだ。
しかしある日、他校の男と一緒に歩いている所を目撃して、俺は撃沈した。攻撃された訳ではないが、どんな砲弾よりも強い攻撃を受けたように、俺の船には大穴があき、勝手に沈没した。あんなに悔しい思いをしたのは、後にも先にもなかった気がする。
だが、自分の中からとめどなく溢れてくる情熱、あの子に対する愛、みたいな言葉は、ずっと俺の中に生まれ続けていた。今考えてみれば物凄く独りよがりで自分勝手な言葉たちだと思うが、俺は彼らに死に場所を与えてやりたかった。
そういった意味でも、バンドというのはうってつけの存在だった。死に場所を探していた言葉たちだったが、逆に彼らはメロディに乗って生き生きとし始めたのだ。女の子の事は、今でもずっと忘れていない。可愛くて綺麗だった。だが、バンドをやっている時だけは、その子の事を忘れられた。あれはどうしてなんだろう。言葉をメロディに乗せて歌っているだけなのに。
あの子の名前は京子といった。今頃は同じ50歳になっていて、顔に皺も増えたんだろう。卒業してから一度も会ってはいない。でも、俺たち、ヘブンズの音楽は、絶対に耳に届いているはずだ。多少有名にはなったし。
俺は、ずっとここにいるぜ。
「バンド、辞めようと思ってるんだ」
長岡が事務所のドアを開けて、不意に、そう言った。自分でメンバーを集めておきながら、平気で遅刻してくる。長岡はそういう男だ。
「そうか」
短く、ドラムの阿久津が答えた。あれ、今日ってなんで、俺たちここに集まっているんだっけ?俺は少し、戸惑っていた。
「辞める?」
「ああ。辞めたいと思ってる」
ベースの黒川が言って、長岡はもう一度、ちゃんと答えた。聞き間違えではないようだ。
「理由は?」
なんだか取り調べみたいだな、と言いそうになったが、口を噤んだ。まあ実際、取り調べを受けたことがないから、本当の空気感は知らないし、そういう事を言うような場の空気ではなかったからだ。
長いことバンドをやっていれば、何度もこういう空気が流れた事はある。そのたびに話し合って、手は出さないけど後ろから引っ叩きたくなる事は多々あって、でもなんとかなってきた。30年という数字は、伊達ではないのだ。俺たちも大人になったし、何より最近は、言い合いをしたり、喧嘩をする体力もなくなってきたのだ。正直なところ。
「バンドを始めた時、いやもっと前だな。ギターを弾き始めた時から、決めていたんだよ。五十になったら、辞めるって」
いつもの声で、いつものように、まるで昨日食った晩飯が美味かったんだよ、とでも言うように、長岡は言った。
「いつまでもこのまま、という訳にはいかないだろう。何にだって終わりは来る。だったら俺は、完全に朽ち果てる前に終わりにしたい」
静かになった。当たり前だ。まさかこんな話を─とは、正直なところあまり思わなかった。辞めたいと、初めにいう男はきっとこいつだろうと、なんとなくずっと前から思っていたような気は確かにしていた。
「そうか」
また同じ事をぽつりと言って、阿久津は、タバコを吸おうとしたのか、ポケットに手を突っ込んでガサゴソしていた。でもどうやら無かったようで、あからさまにがっかりしていた。というか、事務所内は禁煙だ。この空気の中、阿久津は外に出ようとしていたのか。逃げるなよ。
「何やるんだ、バンドを辞めたら」
黒川はずっと冷静だった。彼は、ヘブンズに最後に加入した。出会ったのは高校の時で、楽器は持っておらず、サッカーをやっていた。一年の時に確か怪我をした、とかで辞めて、プラプラしているところを、俺と長岡で、バンドにスカウトしたのだった。理由は特になくて、暇そうだったから、とか、近くにいたから、とかそんな感じだった。
「そうだなあ。さっきここに来る途中で思いついたんだけど、アンテナってCDショップあっただろ、昔。あの跡地で、小さな店でもやるかな。CDを売ったり、本を売る」
「お前、本気で言ってるのか?」
思わず、俺は口を開いていた。
「まあ、店をやるかどうかはわからないけど、バンドは辞める。これは本気だ」
「はいはいそうですか、って、言えるわけないだろう。三十年だぞ、三十年。三十周年のライブだって、控えてるのに」
まだ少し先の話にはなるが、武道館で、ヘブンズの三十周年記念ライブが開催される事は、もう一昨年から決まっていた。すでにファンクラブではチケットの先行予約が始まっていて、ほとんど売り切れているという事は聞いている。
「ああ。これは提案なんだが、三十周年記念ライブで解散、というのはどうだろう?唐突すぎるか?」
「お前」
思わず、立ち上がっていた。それは無意識のもので、頭に血が登っているのがすぐにわかった。
「末柄、お前だって、もう若い頃のように声が出なくなっているだろう。いつまでも全盛期が続くわけじゃないんだ。引き際ってやつさ」
「わかってる。でも、それがなんだ。俺は、ジジィになってもずっと、ヘブンズをやれるって思ってたぞ」
「カート・コバーンもジミヘンも、若くして死んだから伝説になった。俺たちはもう、長くやりすぎてるくらいさ。観たいか?枯れ木のようになったミュージシャンが、みっともなくライブをやっている姿を」
「俺は、観たい。いつまでもステージにしがみつく老いぼれバンドを」
「俺にはわからないな」
長岡が言った後、また、空間が静かになっていた。俺は立っていたはずだったが、いつの間にか座っている。少しは黒川のように、冷静になれたのかもしれない。
「わかるよ、ナガ。俺も、少し、考えてた」
黒川が、途切れ途切れに言った。カタコトみたいだったぞ、と、心の中で突っ込む。やはりそれを声に出して言えるような雰囲気ではない。
「田舎に帰ろうとは思っていたんだ。90になるお袋もいるし」
ああ、現実だなあ。そう思った。俺の両親はすでに亡くなっているし、独り身だから、そういう面倒な事は何も考えなくて済む。
「ただそれが、いつになるかはわからなかった。でもナガが今日、言ってくれたおかげで、なんか俺も踏ん切りがついたというか」
黒川が、少し微笑みながら言っていた。そうかこいつも、本当は辞めたかったのか。
「俺たちは、何者かに、なれたのか?」
誰に聞いたわけでもない。あえて言うならこの冷え切った空間に、俺は問いを投げていた。
「なれたと、俺は思っているよ。ヘブンズというバンド名は、まあ日本のロック史に一応刻まれてはいるだろ?音楽だけでずっと飯が食えてきたんだし。ドラマのタイアップもついたし、もう望むことなんてないだろ」
「オリコン一位もとったしな」
「そういう事じゃねえよ」
「じゃあなんだよ、海外進出してない、とかか?日本語の歌詞しか書けないのに」
もう話す事はねえよ、と、声にはしなかったが、横を向いた。
「アク、お前はどう思ってる?」
じっと、両手をポケットに突っ込んだまま話を聞いていた阿久津に振る。
「すぐには何も言えねえよ。まあ、事務所にも色々言わなきゃならねえだろうし、一旦持ち帰ろう。頭を冷やして、もう一度話し合うべきだ」
無言で頷き、結局その日はそれで解散となった。一人になった。屁をしたが一人だ。
「解散か」
まるで悪い夢を見ているみたいだ。冗談であれば良いと思う。
「解、散」
ぽつり呟いてもやはり、一人だ。
負い目、が、確かに自分の中にずっとある。高校を出てからろくに就職もせず、ひたすら音楽だけをやってきた。成功できたからよかったものの、もし売れなかったら、と考えると、冷や汗が出てくる。今頃、何をやっていただろうか。バイトの延長で、多分、居酒屋の店長あたりだろうか。
俺たちが育った場所は田舎だった。それはもう本当に田舎で、田舎という形容詞がとてもよく似合う田舎で、近所にはスーパーとか、寂れた洋服屋とか、そんなものしかなかった。田んぼのカエルはうるさいし、肥料のにおいだってそれはもうプンプンだった。
サッカーをやっていた。田舎の中ではそこそこ上手い方だったという自覚もあった。ただ、高校一年の時に大きな怪我をして、そこから思うようにボールを蹴れなくなった。一気につまらなくなって、辞めてしまった。今ではサッカーの事を思い出す事はほとんどない。テレビなどでも試合を観ることはない。ワールドカップはさすがにちょっと気になるが、日本が勝ったか負けたか、でも気にするのはそれくらいだ。
サッカーを辞めたあと、抜け殻のようになっていた自分に声をかけてきたのは、ギターを担当する長岡と、ボーカルの末柄だった。バンドを組むから、ベースをやってくれと、突然言ってきた。頭がおかしいのか?と思ったが、なんとなく流れで、ベースをやる事になった。それから三十年以上もベースを弾くことになろうとは、本当に人生というものはわからない。武道館、東京ドーム、一介の田舎者が、そういったステージにも立ってきた。冷静に考えて、ちょっと信じられない。
事務所の帰り道である。タクシーを捕まえて、乗り込んだ。前の客を降ろした直後なのか、座席に皺が寄っている。
運転手に行き先を短く伝え、腕を組んでから窓の外を見た。長岡が言った言葉を、頭の中で反芻する。
長岡がヘブンズを辞める。それはつまり、ヘブンズの解散に直結していると思った。長岡が辞めるだけで、三人になったヘブンズが、活動を続けられるか。それは絶対に無理だし、長岡はヘブンズの楽曲のほぼ全てのメロディを制作しているのだ。大黒柱ってやつである。
「失礼ですがお客様、ヘブンズの、黒川さんですか?」
ルームミラーを見る。運転手と、鏡越しに目があった。
「ええ、そうですが」
「娘が、ファンなんですよ。それで私も聴くようになって」
運転手はそう言うと、左手でガサゴソと何かを探し出し、手に取ったCDをこちらに向けた。
「新しいアルバムです、良いですね、これは」
「ああ、ありがとうございます」
「もう活動されてどれくらいになりますか?」
「30年です」
「私のタクシー人生よりも長いですね」
「良かったらサインしますよ」
「いいんですか」
CDを受け取り、カバンからペンを取り出した。たまにではあるが、街を歩いている時、サインを求められたりする事もあるのだ。だから一応、ペンは持ち歩くようにしている。
「娘にプレゼントしますよ」
運転手は明らかに嬉しそうにしていた。
とても機嫌が良い運転手の、とてつもなく優しい運転で目的地に辿り着き、なんとなくこちらも穏やかな気持ちになっていた。
事務所から自宅までは、別に歩いても帰れる距離ではある。しかし最近は横着が身に染み付いてしまっていて、どこに行くにもタクシーを呼んでしまう。金は余るほどにあるからだ。
タクシーを気兼ねなく、いつでも呼べるほどの金があるのは何故か。バンドが成功したからだ。売れたからだ。
バンドを続けられたのは何故か。高校の時、長岡と末柄が声をかけてくれて、阿久津もいて、この三人がいたからだ。
では、バンドを始められたのは何故か。両親が、音楽で食っていくと決めた自分を止めなかったからだ。
実家には、ほとんど帰らなかった。父の死に目にも、会う事はできなかった。ライブがあって、あの時は九州にいたのだ。仕事だ、と割り切ってはいたが、本当は悲しかった。
ずっと自分の中心には、高校生の時から、ヘブンズに加入した時から、音楽があった。それを無くす、ということが、果たしてできるだろうか。自分の中に、深く深く根を張った、この巨大な大木を、切り倒すことができるだろうか。
田舎に帰る。その選択をして、後悔はないだろうか。田舎にある実家をリフォームして、そこに住むのだ。ずっと忙しなく動いてきた。もう五十だ。休みたい、という気持ちもどこかにある。確実にある。もう明らかに先が短いお袋のそばにいてやる。それで、自分の負い目は少し、薄れるだろうか。
イヤホンを耳につける。流れてくるのは、自分たちの楽曲だ。
【ライムライト】
末柄は相変わらず、良い詩を書く。
自分達の楽曲なんて、普段はほとんど聴かないのだが、今日はなんとなく客観的に聴けるだろうかと思って、聴いている。ステージの上。スポットライトを浴びる自分。万雷の拍手と歓声。目を閉じれば、そういう自分が浮かんでしまうのだった。
「へ?解散するの?」
いつものトーンで、妻の静香が言った。
「そうなんだよ。ナガがさ、言うんだよ、もう辞めたいって」
「どうすんの?まだローン残ってるけど」
お前がこのマンションに住みたいって言ったんだろうが、という言葉だけは、絶対に発してはならないと決めている。危なかった、言ってしまうところだった。言ったらもう、戦争である。大敗が決まっている戦争の始まりである。なぜなら、向こうには娘二人が味方につくからだ。
何度も反対した。しかし、東京のど真ん中の高層マンションに住みたいと、絶対に譲らなかった。バンドなんて、いつ売れなくなるかわからない。今はいいかもしれないが、そもそもいつまで続くかもわからない水モノなのだ。
しかし静香に押されて、ちょっと無理をしてローンを組んだ。長女が生まれたばかりの頃だった。
もともと、バンドが軌道に乗るまでは、静香とは下北沢のボロアパートに住んでいた。正直、住まいなど、どうでも良いのだ。いや、どうでも良くはないが、ほどほどでいい。ただ絶対に高層でなくていい。
別にドラムセットも置けなくていい。事務所が作ったスタジオがあるのだし、いつでも無料で使えるのだから、練習はそこですればいい。自宅スタジオなんていらなかったし、毎日練習をするほど、自分はストイックでもない。
今のこの住まいは、見渡す限り白・白・白だ。壁も白いし、家電も白い。電話の横に置いているペンも、ペン立ても白い。もちろん電話も白い。子機すら白い。ソファーなどの家具も白い。時々、薄い木目が入る。照明だけはオレンジ色である。
もう正直頭がおかしくなりそうである。あの頃の静香は一体どこに行ってしまったのだろうか。四畳半のボロアパートで、ボロ毛布にくるまって、肩を寄せ合って過ごした、あの頃の静香は一体、どこに行ってしまったのか。
たまに思う時がある。そして今まさに思っている。が、そういう事も口にはしない。俺は平和主義者なのである。
「ライブももうやんないの?」
「まあ、解散したら、もうやらないだろうな」
「どうすんのよ。お金は?」
「そりゃあまあ、どこかのバンドのサポートドラムでも請け負うか、あとはドラム教室でも開くか」
「信じらんない。意味わかんない。麻衣子は留学させたいし」
「いや、そんな事言っても」
「なんとかして」
すでに、何発か、撃ち込まれたような気分だった。静香の顔を見ないように、とりあえずソファーに横になって、ヘブンズの、いや、長岡の事を考える。
「50歳になったから、バンドを辞める」
ああ、確かに、言いたい事はわかるよ。わかる。ナガ、でもな、俺には家族がいるんだ。子無しで離婚して自由なお前にはわからないかもしれないけどな、子どもって、びっくりするほど金がかかるんだぜ。俺にはな、おまけに金がかかる嫁もいるんだ。家のローンもてんこ盛り。こんな状況で解散してみろ?俺はもう、破産よ、破産。
「せめて解散は、60まで待ってくれねえかなぁ」
ため息と一緒に、心の声が漏れてしまったことに、苦笑した。
俺はまだドラムを叩けるし、なんなら新しい事にだって挑戦したいと思ってる。俺は曲を書いたりはできないけど、曲に忠実に叩くぜ。
「観たいか?枯れ木のようになったミュージシャンが、みっともなくライブをやっている姿を」
長岡が言った言葉が、頭の中を駆け巡る。確かにそうだ。かつて、あの日憧れたミュージシャン達は、もちろん伝説になった者もいれば、いまだにずっと現役を続けている者もいる。
─あぁ、あんな感じになっちゃったのか。
あんなにカリスマ性があって、あんなにかっこよかったのに、どんなに若作りをしてもやはり、見た目には限界がある。プレイも、昔のようなキレはなくなっている。一番顕著に劣化が現れるのはボーカルの声だろう。それを恐れる長岡の気持ちは痛いほどよくわかる。
長岡の存在は、ヘブンズの大黒柱と同じである。ヘブンズは、長岡が抜ければ瞬時に崩れ去るということは、誰の目にも明らかだ。いわゆる替えがきかない存在というやつだ。
「まあ、あそこまで言い切ってたら、もう説得なんてできないだろうなぁ」
また、ため息と一緒に声が漏れていた。ああ、こうやって口やら何やらの人体の穴というのは緩くなって漏らしてゆくのだなあと思って苦笑した。
「ラーメン屋でもやるのも手かなぁ」
静香の、刺すような鋭い視線が飛んできているような気がするが、気のせいということにしておく。
白いテーブルに置いていた携帯から不意に音が出て、おかしいな、いつもマナーモードにしているから音は鳴らないはずなのに、と思ったが、画面を見てすぐに出た。
「おぉ、ナガ。どうした?」
「アク、新曲ができたんだよ。今回は作詞も俺だ」
「マジかよ、作詞もか。いや、そんなことより、いやそんなことじゃないな、すまん。ところで、今日の話は」
「驚かせて悪かったよ。でも本気なんだ。もう続けたくない。だからこの曲は、俺の人生最後の曲になると思う」
「そうか。まあ、お前がそこまで言うなら、もう、無理なんだろう。クロも田舎に帰りたいって言ってたしな。スエをどうやって説得するか、だな」
「もう一度、俺からもスエには言うよ。ところで一回、ドラムだけでも合わせたいんだけど、時間ある?近々」
「明日でもいいよ、スタジオで。タイトルは?」
「街の灯」
電話は思いの外あっさりと終わって、携帯を再びテーブルに置いた。
そういえばタバコを切らしてたんだったと思い、起き上がってみる。
静香はいないようだった。
同じような朝がきて、それは本当に、ちょっと引いてしまうくらいにいつもと変わらない朝だった。いつものように珈琲を飲んでから左側のポケットに財布を入れて、携帯だけは左手に持って玄関のドアに手をかけた。
昨日、確かに自分は、バンドを辞めたいと、メンバーに伝えた。
まるでそんな事はなかったかのように、「飲み会のノリで、冗談で言ったんでしょ?」とでも言うかのように、ベランダの手すりに器用に止まる雀はちゅんちゅんと鳴いている。
「冗談じゃないさ」
そう呟いてから、玄関を出て鍵をかけた。
最近はいわゆる老眼というやつで、携帯の画面の文字がよく見えなかったりする時もある。「おじさん画面の文字でか~い」と、姪っ子に言われないか、少し心配している。心配するくらいなら文字はデフォルトのサイズで頑張りなさいよとも言われそうだが、それで大事な打ち合わせやバンドの練習をすっぽかしてしまっては申し訳が立たない。「携帯の文字がよく見えなくて」なんて言い訳が通用するわけがないのだ。
「11時にはつくよ」
携帯でそう文字を打って、タクシーでいつものスタジオに向かった。タクシーの運転手が女性で、そこだけはいつもの朝と違った。どちらまで?と問われた声が綺麗で、それはとても優しい声で、きっと運転も優しいのだろうなと思ったが、百メートルくらい走ってからその考えは覆った。ブレーキが何というか、きついのだ。がっくん、となって、スタジオの近くの交差点で停まる。
「あ、ここで大丈夫ですよ」
「え、あ、でもまだ」
「歩いていける距離ですから」
正直もう、これ以上乗り続けたら、酔ってしまいそうだった。だから財布から、いつものように2千円を取り出して、
「お釣りは結構です」
と短く伝え、タクシーを降りた。背中越しに聞こえた「ありがとうございました」の声だけは、やはり優しかった。
それは、自分がバンドを始めた時─いや、多分もっと前から、恐らくギターを弾き始めた時から、決めていたことだ。それはメンバーの誰にも言ってこなかったし、隠していたわけではないが、なんとなく言わずにいた。
若い頃に通っていたCDショップ。今はもうシャッターが閉まっていて、外壁には、落書きを消したような跡があった。【CDショップ アンテナ】とか、確かそんな感じの名前だった気がする。看板はもう当然ない。
「テナント募集」と書いたポスターが長いこと貼ってあるが、すでにだいぶ黄ばんでいた。電話番号が申し訳程度に記載してはあるが、電話して、果たして繋がるのだろうか。昭和屋不動産。
そして、そのすぐ真横に、「Now on sale」と書かれたCDアルバムを宣伝するポスターが貼ってあった。誰が貼ったのかは知らないが、まあなんとなく想像はつくが、そのA4サイズくらいのポスターが宣伝するCDアルバムは、通算20作目の、自分たちのバンドのアルバムだ。
─20枚もアルバムをこの世に送り出せるなんて。
そんな事を言う大御所バンドをいくつか見てきた。若い頃はあんなに尖っていたのに、歳を取ったら、そんなふうにちゃんとおじさんになって感傷に浸るんだな、なんて思っていたが、自分も、そして恐らくメンバーたちも、立派にそんな大御所バンドたちと同じようになっている。
久しぶりに電車に乗って、あえて少し手前の駅で降りて、そしてここまで歩いて来るのに、何人かとすれ違った。誰も、自分を「ヘブンズ」のギタリストだと認識してはおらず、握手もサインも、撮影も、頼まれはしなかった。長いことバンドをやっていても、まあ、自分はギタリストでフロントマンではないし、ファンでもない限り、わからないのは当然だろうと思う。20枚、アルバムを出していても、そんなものなのだ。
A4サイズのポスターがちょっと右下がりに貼ってあるような気がしたので、ちゃんと貼り直してから、再び歩きだした。
アンテナのおっちゃん、元気だろうか。そんな事を思いながら、懐かしいような、変わらないような、目新しいような、いや目新しくはないな。東京の下町、小さな商店街を歩く。落ち葉がカサカサと転がっている。やっぱり今日、ちゃんと言おう。なんとなくそう思った。
本当に小さな商店街だ。だからこそ、シャッターが閉まっている店がよく目立つ。だけどその奥で、何か作業をしている音がする。閉店はするさ。永遠に続く店なんてない。時は流れているのだから。だけど、また新しくなって、若い奴か、そうでもない奴か、まあとにかく新しい店となって、循環していく。
アンテナの跡地で、自分が、小さなCDショップでも開こうかな。そうだな、CDだけじゃこのご時世、やっていけないだろうから、古本も並べてみたい。少し古くて、凝った雑誌も良い。写真集なんかもとても良いと思う。中古のギターを置いてもいい。多少の不具合なら直せるし。週末は、若い奴らを呼んで、小さなコンサートを開いたっていい。自分はもう弾かないけれど。辞めたって、もう少し、恐らく人生は続くのだ。多少の金はあるから、十年くらいは儲けがなくてもなんとかなるだろう。くだらないような真剣なような妄想をしながら、歩き続けた。
事務所のドアを開ける前に、腕時計を見た。ああ、35分も遅刻している。相変わらずいつもそうだ。だけどメンバーは、そんな自分を許してくれる。良い奴らに会えた。
30年。そして、20枚のアルバム。
「バンド、辞めようと思ってるんだ」
ドアを開ける前に、目を閉じてから、自分にしか聞こえない声で、小さく呟いた。
ヘブンズというバンドは、ギターの長岡が考えた名前だ。
確か、俺らの音楽が、天国まで届くようにとかなんとか、そんな事を言っていた気がする。響きがかっこよかったので、それを採用した。他にかっこいい名前のアイディアがなかった、というのも大きな理由だ。
「ザ・バグズ」とか、「ヘビトカゲズ」だとか、意味のわからない名前のアイディアばかりでどうしようもなかった気がする。なにしろもう30年以上も昔の話だ。インタビュアーも、バンド名の由来は?なんて、そんな事を今さら聞いてはこない。
「バンド名はヘブンズがいい」
長岡の一言で、あっさり決まったバンド名。異論なんてもちろんなかった。
それで、はじめにバンドをやろうと言い出したのは誰だったか。俺か?俺じゃないよな?いや、俺かもしれない。そうだな、確かに俺だった。
そうだ、フラれたんだ。七回くらいは告白したと思う。同じ女の子に。手紙も含めていいのであれば、十数回を超えるかもしれない。今思うと、マジで引く。ただ、俺は本気だった。本気で自分の女にしたかったのだ。
しかしある日、他校の男と一緒に歩いている所を目撃して、俺は撃沈した。攻撃された訳ではないが、どんな砲弾よりも強い攻撃を受けたように、俺の船には大穴があき、勝手に沈没した。あんなに悔しい思いをしたのは、後にも先にもなかった気がする。
だが、自分の中からとめどなく溢れてくる情熱、あの子に対する愛、みたいな言葉は、ずっと俺の中に生まれ続けていた。今考えてみれば物凄く独りよがりで自分勝手な言葉たちだと思うが、俺は彼らに死に場所を与えてやりたかった。
そういった意味でも、バンドというのはうってつけの存在だった。死に場所を探していた言葉たちだったが、逆に彼らはメロディに乗って生き生きとし始めたのだ。女の子の事は、今でもずっと忘れていない。可愛くて綺麗だった。だが、バンドをやっている時だけは、その子の事を忘れられた。あれはどうしてなんだろう。言葉をメロディに乗せて歌っているだけなのに。
あの子の名前は京子といった。今頃は同じ50歳になっていて、顔に皺も増えたんだろう。卒業してから一度も会ってはいない。でも、俺たち、ヘブンズの音楽は、絶対に耳に届いているはずだ。多少有名にはなったし。
俺は、ずっとここにいるぜ。
「バンド、辞めようと思ってるんだ」
長岡が事務所のドアを開けて、不意に、そう言った。自分でメンバーを集めておきながら、平気で遅刻してくる。長岡はそういう男だ。
「そうか」
短く、ドラムの阿久津が答えた。あれ、今日ってなんで、俺たちここに集まっているんだっけ?俺は少し、戸惑っていた。
「辞める?」
「ああ。辞めたいと思ってる」
ベースの黒川が言って、長岡はもう一度、ちゃんと答えた。聞き間違えではないようだ。
「理由は?」
なんだか取り調べみたいだな、と言いそうになったが、口を噤んだ。まあ実際、取り調べを受けたことがないから、本当の空気感は知らないし、そういう事を言うような場の空気ではなかったからだ。
長いことバンドをやっていれば、何度もこういう空気が流れた事はある。そのたびに話し合って、手は出さないけど後ろから引っ叩きたくなる事は多々あって、でもなんとかなってきた。30年という数字は、伊達ではないのだ。俺たちも大人になったし、何より最近は、言い合いをしたり、喧嘩をする体力もなくなってきたのだ。正直なところ。
「バンドを始めた時、いやもっと前だな。ギターを弾き始めた時から、決めていたんだよ。五十になったら、辞めるって」
いつもの声で、いつものように、まるで昨日食った晩飯が美味かったんだよ、とでも言うように、長岡は言った。
「いつまでもこのまま、という訳にはいかないだろう。何にだって終わりは来る。だったら俺は、完全に朽ち果てる前に終わりにしたい」
静かになった。当たり前だ。まさかこんな話を─とは、正直なところあまり思わなかった。辞めたいと、初めにいう男はきっとこいつだろうと、なんとなくずっと前から思っていたような気は確かにしていた。
「そうか」
また同じ事をぽつりと言って、阿久津は、タバコを吸おうとしたのか、ポケットに手を突っ込んでガサゴソしていた。でもどうやら無かったようで、あからさまにがっかりしていた。というか、事務所内は禁煙だ。この空気の中、阿久津は外に出ようとしていたのか。逃げるなよ。
「何やるんだ、バンドを辞めたら」
黒川はずっと冷静だった。彼は、ヘブンズに最後に加入した。出会ったのは高校の時で、楽器は持っておらず、サッカーをやっていた。一年の時に確か怪我をした、とかで辞めて、プラプラしているところを、俺と長岡で、バンドにスカウトしたのだった。理由は特になくて、暇そうだったから、とか、近くにいたから、とかそんな感じだった。
「そうだなあ。さっきここに来る途中で思いついたんだけど、アンテナってCDショップあっただろ、昔。あの跡地で、小さな店でもやるかな。CDを売ったり、本を売る」
「お前、本気で言ってるのか?」
思わず、俺は口を開いていた。
「まあ、店をやるかどうかはわからないけど、バンドは辞める。これは本気だ」
「はいはいそうですか、って、言えるわけないだろう。三十年だぞ、三十年。三十周年のライブだって、控えてるのに」
まだ少し先の話にはなるが、武道館で、ヘブンズの三十周年記念ライブが開催される事は、もう一昨年から決まっていた。すでにファンクラブではチケットの先行予約が始まっていて、ほとんど売り切れているという事は聞いている。
「ああ。これは提案なんだが、三十周年記念ライブで解散、というのはどうだろう?唐突すぎるか?」
「お前」
思わず、立ち上がっていた。それは無意識のもので、頭に血が登っているのがすぐにわかった。
「末柄、お前だって、もう若い頃のように声が出なくなっているだろう。いつまでも全盛期が続くわけじゃないんだ。引き際ってやつさ」
「わかってる。でも、それがなんだ。俺は、ジジィになってもずっと、ヘブンズをやれるって思ってたぞ」
「カート・コバーンもジミヘンも、若くして死んだから伝説になった。俺たちはもう、長くやりすぎてるくらいさ。観たいか?枯れ木のようになったミュージシャンが、みっともなくライブをやっている姿を」
「俺は、観たい。いつまでもステージにしがみつく老いぼれバンドを」
「俺にはわからないな」
長岡が言った後、また、空間が静かになっていた。俺は立っていたはずだったが、いつの間にか座っている。少しは黒川のように、冷静になれたのかもしれない。
「わかるよ、ナガ。俺も、少し、考えてた」
黒川が、途切れ途切れに言った。カタコトみたいだったぞ、と、心の中で突っ込む。やはりそれを声に出して言えるような雰囲気ではない。
「田舎に帰ろうとは思っていたんだ。90になるお袋もいるし」
ああ、現実だなあ。そう思った。俺の両親はすでに亡くなっているし、独り身だから、そういう面倒な事は何も考えなくて済む。
「ただそれが、いつになるかはわからなかった。でもナガが今日、言ってくれたおかげで、なんか俺も踏ん切りがついたというか」
黒川が、少し微笑みながら言っていた。そうかこいつも、本当は辞めたかったのか。
「俺たちは、何者かに、なれたのか?」
誰に聞いたわけでもない。あえて言うならこの冷え切った空間に、俺は問いを投げていた。
「なれたと、俺は思っているよ。ヘブンズというバンド名は、まあ日本のロック史に一応刻まれてはいるだろ?音楽だけでずっと飯が食えてきたんだし。ドラマのタイアップもついたし、もう望むことなんてないだろ」
「オリコン一位もとったしな」
「そういう事じゃねえよ」
「じゃあなんだよ、海外進出してない、とかか?日本語の歌詞しか書けないのに」
もう話す事はねえよ、と、声にはしなかったが、横を向いた。
「アク、お前はどう思ってる?」
じっと、両手をポケットに突っ込んだまま話を聞いていた阿久津に振る。
「すぐには何も言えねえよ。まあ、事務所にも色々言わなきゃならねえだろうし、一旦持ち帰ろう。頭を冷やして、もう一度話し合うべきだ」
無言で頷き、結局その日はそれで解散となった。一人になった。屁をしたが一人だ。
「解散か」
まるで悪い夢を見ているみたいだ。冗談であれば良いと思う。
「解、散」
ぽつり呟いてもやはり、一人だ。
負い目、が、確かに自分の中にずっとある。高校を出てからろくに就職もせず、ひたすら音楽だけをやってきた。成功できたからよかったものの、もし売れなかったら、と考えると、冷や汗が出てくる。今頃、何をやっていただろうか。バイトの延長で、多分、居酒屋の店長あたりだろうか。
俺たちが育った場所は田舎だった。それはもう本当に田舎で、田舎という形容詞がとてもよく似合う田舎で、近所にはスーパーとか、寂れた洋服屋とか、そんなものしかなかった。田んぼのカエルはうるさいし、肥料のにおいだってそれはもうプンプンだった。
サッカーをやっていた。田舎の中ではそこそこ上手い方だったという自覚もあった。ただ、高校一年の時に大きな怪我をして、そこから思うようにボールを蹴れなくなった。一気につまらなくなって、辞めてしまった。今ではサッカーの事を思い出す事はほとんどない。テレビなどでも試合を観ることはない。ワールドカップはさすがにちょっと気になるが、日本が勝ったか負けたか、でも気にするのはそれくらいだ。
サッカーを辞めたあと、抜け殻のようになっていた自分に声をかけてきたのは、ギターを担当する長岡と、ボーカルの末柄だった。バンドを組むから、ベースをやってくれと、突然言ってきた。頭がおかしいのか?と思ったが、なんとなく流れで、ベースをやる事になった。それから三十年以上もベースを弾くことになろうとは、本当に人生というものはわからない。武道館、東京ドーム、一介の田舎者が、そういったステージにも立ってきた。冷静に考えて、ちょっと信じられない。
事務所の帰り道である。タクシーを捕まえて、乗り込んだ。前の客を降ろした直後なのか、座席に皺が寄っている。
運転手に行き先を短く伝え、腕を組んでから窓の外を見た。長岡が言った言葉を、頭の中で反芻する。
長岡がヘブンズを辞める。それはつまり、ヘブンズの解散に直結していると思った。長岡が辞めるだけで、三人になったヘブンズが、活動を続けられるか。それは絶対に無理だし、長岡はヘブンズの楽曲のほぼ全てのメロディを制作しているのだ。大黒柱ってやつである。
「失礼ですがお客様、ヘブンズの、黒川さんですか?」
ルームミラーを見る。運転手と、鏡越しに目があった。
「ええ、そうですが」
「娘が、ファンなんですよ。それで私も聴くようになって」
運転手はそう言うと、左手でガサゴソと何かを探し出し、手に取ったCDをこちらに向けた。
「新しいアルバムです、良いですね、これは」
「ああ、ありがとうございます」
「もう活動されてどれくらいになりますか?」
「30年です」
「私のタクシー人生よりも長いですね」
「良かったらサインしますよ」
「いいんですか」
CDを受け取り、カバンからペンを取り出した。たまにではあるが、街を歩いている時、サインを求められたりする事もあるのだ。だから一応、ペンは持ち歩くようにしている。
「娘にプレゼントしますよ」
運転手は明らかに嬉しそうにしていた。
とても機嫌が良い運転手の、とてつもなく優しい運転で目的地に辿り着き、なんとなくこちらも穏やかな気持ちになっていた。
事務所から自宅までは、別に歩いても帰れる距離ではある。しかし最近は横着が身に染み付いてしまっていて、どこに行くにもタクシーを呼んでしまう。金は余るほどにあるからだ。
タクシーを気兼ねなく、いつでも呼べるほどの金があるのは何故か。バンドが成功したからだ。売れたからだ。
バンドを続けられたのは何故か。高校の時、長岡と末柄が声をかけてくれて、阿久津もいて、この三人がいたからだ。
では、バンドを始められたのは何故か。両親が、音楽で食っていくと決めた自分を止めなかったからだ。
実家には、ほとんど帰らなかった。父の死に目にも、会う事はできなかった。ライブがあって、あの時は九州にいたのだ。仕事だ、と割り切ってはいたが、本当は悲しかった。
ずっと自分の中心には、高校生の時から、ヘブンズに加入した時から、音楽があった。それを無くす、ということが、果たしてできるだろうか。自分の中に、深く深く根を張った、この巨大な大木を、切り倒すことができるだろうか。
田舎に帰る。その選択をして、後悔はないだろうか。田舎にある実家をリフォームして、そこに住むのだ。ずっと忙しなく動いてきた。もう五十だ。休みたい、という気持ちもどこかにある。確実にある。もう明らかに先が短いお袋のそばにいてやる。それで、自分の負い目は少し、薄れるだろうか。
イヤホンを耳につける。流れてくるのは、自分たちの楽曲だ。
【ライムライト】
末柄は相変わらず、良い詩を書く。
自分達の楽曲なんて、普段はほとんど聴かないのだが、今日はなんとなく客観的に聴けるだろうかと思って、聴いている。ステージの上。スポットライトを浴びる自分。万雷の拍手と歓声。目を閉じれば、そういう自分が浮かんでしまうのだった。
「へ?解散するの?」
いつものトーンで、妻の静香が言った。
「そうなんだよ。ナガがさ、言うんだよ、もう辞めたいって」
「どうすんの?まだローン残ってるけど」
お前がこのマンションに住みたいって言ったんだろうが、という言葉だけは、絶対に発してはならないと決めている。危なかった、言ってしまうところだった。言ったらもう、戦争である。大敗が決まっている戦争の始まりである。なぜなら、向こうには娘二人が味方につくからだ。
何度も反対した。しかし、東京のど真ん中の高層マンションに住みたいと、絶対に譲らなかった。バンドなんて、いつ売れなくなるかわからない。今はいいかもしれないが、そもそもいつまで続くかもわからない水モノなのだ。
しかし静香に押されて、ちょっと無理をしてローンを組んだ。長女が生まれたばかりの頃だった。
もともと、バンドが軌道に乗るまでは、静香とは下北沢のボロアパートに住んでいた。正直、住まいなど、どうでも良いのだ。いや、どうでも良くはないが、ほどほどでいい。ただ絶対に高層でなくていい。
別にドラムセットも置けなくていい。事務所が作ったスタジオがあるのだし、いつでも無料で使えるのだから、練習はそこですればいい。自宅スタジオなんていらなかったし、毎日練習をするほど、自分はストイックでもない。
今のこの住まいは、見渡す限り白・白・白だ。壁も白いし、家電も白い。電話の横に置いているペンも、ペン立ても白い。もちろん電話も白い。子機すら白い。ソファーなどの家具も白い。時々、薄い木目が入る。照明だけはオレンジ色である。
もう正直頭がおかしくなりそうである。あの頃の静香は一体どこに行ってしまったのだろうか。四畳半のボロアパートで、ボロ毛布にくるまって、肩を寄せ合って過ごした、あの頃の静香は一体、どこに行ってしまったのか。
たまに思う時がある。そして今まさに思っている。が、そういう事も口にはしない。俺は平和主義者なのである。
「ライブももうやんないの?」
「まあ、解散したら、もうやらないだろうな」
「どうすんのよ。お金は?」
「そりゃあまあ、どこかのバンドのサポートドラムでも請け負うか、あとはドラム教室でも開くか」
「信じらんない。意味わかんない。麻衣子は留学させたいし」
「いや、そんな事言っても」
「なんとかして」
すでに、何発か、撃ち込まれたような気分だった。静香の顔を見ないように、とりあえずソファーに横になって、ヘブンズの、いや、長岡の事を考える。
「50歳になったから、バンドを辞める」
ああ、確かに、言いたい事はわかるよ。わかる。ナガ、でもな、俺には家族がいるんだ。子無しで離婚して自由なお前にはわからないかもしれないけどな、子どもって、びっくりするほど金がかかるんだぜ。俺にはな、おまけに金がかかる嫁もいるんだ。家のローンもてんこ盛り。こんな状況で解散してみろ?俺はもう、破産よ、破産。
「せめて解散は、60まで待ってくれねえかなぁ」
ため息と一緒に、心の声が漏れてしまったことに、苦笑した。
俺はまだドラムを叩けるし、なんなら新しい事にだって挑戦したいと思ってる。俺は曲を書いたりはできないけど、曲に忠実に叩くぜ。
「観たいか?枯れ木のようになったミュージシャンが、みっともなくライブをやっている姿を」
長岡が言った言葉が、頭の中を駆け巡る。確かにそうだ。かつて、あの日憧れたミュージシャン達は、もちろん伝説になった者もいれば、いまだにずっと現役を続けている者もいる。
─あぁ、あんな感じになっちゃったのか。
あんなにカリスマ性があって、あんなにかっこよかったのに、どんなに若作りをしてもやはり、見た目には限界がある。プレイも、昔のようなキレはなくなっている。一番顕著に劣化が現れるのはボーカルの声だろう。それを恐れる長岡の気持ちは痛いほどよくわかる。
長岡の存在は、ヘブンズの大黒柱と同じである。ヘブンズは、長岡が抜ければ瞬時に崩れ去るということは、誰の目にも明らかだ。いわゆる替えがきかない存在というやつだ。
「まあ、あそこまで言い切ってたら、もう説得なんてできないだろうなぁ」
また、ため息と一緒に声が漏れていた。ああ、こうやって口やら何やらの人体の穴というのは緩くなって漏らしてゆくのだなあと思って苦笑した。
「ラーメン屋でもやるのも手かなぁ」
静香の、刺すような鋭い視線が飛んできているような気がするが、気のせいということにしておく。
白いテーブルに置いていた携帯から不意に音が出て、おかしいな、いつもマナーモードにしているから音は鳴らないはずなのに、と思ったが、画面を見てすぐに出た。
「おぉ、ナガ。どうした?」
「アク、新曲ができたんだよ。今回は作詞も俺だ」
「マジかよ、作詞もか。いや、そんなことより、いやそんなことじゃないな、すまん。ところで、今日の話は」
「驚かせて悪かったよ。でも本気なんだ。もう続けたくない。だからこの曲は、俺の人生最後の曲になると思う」
「そうか。まあ、お前がそこまで言うなら、もう、無理なんだろう。クロも田舎に帰りたいって言ってたしな。スエをどうやって説得するか、だな」
「もう一度、俺からもスエには言うよ。ところで一回、ドラムだけでも合わせたいんだけど、時間ある?近々」
「明日でもいいよ、スタジオで。タイトルは?」
「街の灯」
電話は思いの外あっさりと終わって、携帯を再びテーブルに置いた。
そういえばタバコを切らしてたんだったと思い、起き上がってみる。
静香はいないようだった。
同じような朝がきて、それは本当に、ちょっと引いてしまうくらいにいつもと変わらない朝だった。いつものように珈琲を飲んでから左側のポケットに財布を入れて、携帯だけは左手に持って玄関のドアに手をかけた。
昨日、確かに自分は、バンドを辞めたいと、メンバーに伝えた。
まるでそんな事はなかったかのように、「飲み会のノリで、冗談で言ったんでしょ?」とでも言うかのように、ベランダの手すりに器用に止まる雀はちゅんちゅんと鳴いている。
「冗談じゃないさ」
そう呟いてから、玄関を出て鍵をかけた。
最近はいわゆる老眼というやつで、携帯の画面の文字がよく見えなかったりする時もある。「おじさん画面の文字でか~い」と、姪っ子に言われないか、少し心配している。心配するくらいなら文字はデフォルトのサイズで頑張りなさいよとも言われそうだが、それで大事な打ち合わせやバンドの練習をすっぽかしてしまっては申し訳が立たない。「携帯の文字がよく見えなくて」なんて言い訳が通用するわけがないのだ。
「11時にはつくよ」
携帯でそう文字を打って、タクシーでいつものスタジオに向かった。タクシーの運転手が女性で、そこだけはいつもの朝と違った。どちらまで?と問われた声が綺麗で、それはとても優しい声で、きっと運転も優しいのだろうなと思ったが、百メートルくらい走ってからその考えは覆った。ブレーキが何というか、きついのだ。がっくん、となって、スタジオの近くの交差点で停まる。
「あ、ここで大丈夫ですよ」
「え、あ、でもまだ」
「歩いていける距離ですから」
正直もう、これ以上乗り続けたら、酔ってしまいそうだった。だから財布から、いつものように2千円を取り出して、
「お釣りは結構です」
と短く伝え、タクシーを降りた。背中越しに聞こえた「ありがとうございました」の声だけは、やはり優しかった。
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