君を選べば、時給が下がる

モノカ

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第1話 月末の残高

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放課後、教室の窓際でスマホの家計アプリを開いた。

残高、87,240円。

目標まで、あと12,760円。

今月はシフトを多めに入れたはずなのに、思ったより伸びていない。電気代が上がったのが痛い。母さんは何も言わないが、請求書の封筒を裏返してテーブルに置く癖がある。あれは「見なかったことにしてほしい」の合図だ。

俺は見なかったふりをしながら、ちゃんと計算する。

目標は10万円。

理由は誰にも言っていない。

言えばたぶん、「まだ高校生なのに」と笑われる。

笑われるのは、嫌いだ。

「ねえ、またそれ?」

声が近い。

顔を上げると、机に肘をついた女子がこちらを覗き込んでいた。

クラスメイトの三浦彩乃。
肩までの茶色がかった髪。目が大きく、笑うと少しだけ意地悪そうに見える。距離が近い。今日も近い。

「残高チェック。そんなに大事?」

「大事だよ。生きるのに必要だから」

「うわ、リアル」

彩乃は笑っている。

俺はスマホを伏せた。画面を見られるのは好きじゃない。

「今日シフト一緒だよね?」

「ああ。18時から」

「テスト前なのに働きすぎじゃない?」

「テストは計画的にやればどうにかなる。シフトは削れない」

言いながら、俺は頭の中で今週の労働時間を計算していた。22時間。まだいける。法律の範囲内だ。

「ねえ」

彩乃は机を指でとんとん叩く。

「そんなにお金って必要?」

質問の意図を測る。

からかいか、本気か。

「必要」

短く答えると、彼女は少しだけ真顔になった。

「そっか」

それ以上は踏み込んでこなかった。

チャイムが鳴る。

帰宅する生徒たちの足音が廊下に広がる。

俺は鞄を肩にかけた。

「じゃ、あとで」

彩乃は軽く手を振る。

俺は頷いて教室を出た。

――

家に寄って制服のままエプロンを鞄に詰める。

台所のテーブルには請求書が一枚。ガス代。

母さんはまだ仕事から帰っていない。

封筒の端を指で押して、金額を確認する。

想定内。

少しだけ息を吐く。

俺が10万円を目標にしている理由。

それは「もしものため」だ。

父さんがいなくなった日のことを、俺は覚えている。

玄関のドアが閉まる音。
母さんの沈黙。
机の上の通帳。

借金があった。

詳しい額は知らない。

聞かなかった。

聞けば、現実になる気がした。

だから俺は決めた。

いざというとき、金があれば選択肢は減らない。

恋より、夢より、まず金だ。

スマホが震える。

通知。

【アルバイト先グループ】

“本日18時~、人手不足のため1時間延長できる人?”

店長からだ。

俺は即座に返信する。

“可能です”

既読がつく。

少しして、別の通知。

彩乃から個別メッセージ。

“延長入れた?”

“入れた”

“やっぱりね。がんばりすぎ”

“稼げるときに稼ぐだけ”

既読がつくが、返信は来ない。

俺はスマホをポケットに入れた。

感情より効率。

それが一番安全だ。

――

午後6時過ぎ。

レジに立つ。

蛍光灯の光。
揚げ物の匂い。
自動ドアの開閉音。

いつもの環境。

ここでは感情は必要ない。

バーコードを通し、袋に入れ、合計を伝える。

単純作業。

計算できる。

予測できる。

「お疲れ」

背後から声。

振り向くと、一学年上の先輩――黒木先輩がエプロンを結んでいた。

長い黒髪を後ろで一つにまとめている。目が鋭いが、声は落ち着いている。

「今日延長入ったの?」

「はい」

「無理しすぎないでね」

なぜか、少しだけ心配そうに見えた。

俺はうなずく。

「大丈夫です。目標あるんで」

「目標?」

言ってしまった、と一瞬思う。

「貯金です」

先輩は数秒、俺を見る。

「偉いね」

それだけ言って、バックヤードへ消えた。

偉い。

その言葉は、少しだけ胸に残った。

――

午後8時前。

客足が落ち着く。

彩乃がレジ横に立つ。

「ねえ、さっきの延長さ」

「うん」

「その分、今度どこか付き合ってよ」

「どこ?」

「映画とか」

損得を瞬時に計算する。

チケット代。時間。帰宅時間。

「考えとく」

「それ、断るやつ」

彩乃は笑う。

笑っているけれど、ほんの少しだけ目が揺れた気がした。

俺は視線をレジ画面に戻す。

そのとき、バックヤードから店長の声が聞こえた。

「来月から夜シフト減らすから」

誰に向けた声かは分からない。

けれど、心臓が一瞬だけ強く跳ねた。

夜シフトが減る。

それは、収入が減るという意味だ。

俺はレジの金額を打ち間違えた。

「すみません」

打ち直す。

冷静に。

感情は、いらない。

だが、もしシフトが削られたら――

目標の10万円は、遠のく。

そしてその瞬間、俺は初めて考えた。

もし金を優先できなくなったら、俺は何を選ぶんだろう。

レジの向こうで、彩乃がこちらを見ていた。

何かを言いたげな目で。

俺はその視線の意味を、まだ計算できていなかった。
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