「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上

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第1話:妻の献身

  アッシュフォード伯爵家の執務室は、常に微かなインクと古い紙、そして遠くの鉱山から運ばれてくる土の匂いが混じり合っていた。

 重厚なマホガニーの机に向かうヴィクトリア・アッシュフォードの背筋は、定規で引いたように真っ直ぐだ。

 窓から差し込む午後の光が、彼女の結い上げたプラチナブロンドの髪を照らし、まるで研磨された銀細工のような冷ややかな輝きを放っている。

 彼女の手元にあるのは、詩集でも刺繍の図案でもない。
 分厚い帳簿と、黒い革表紙の技術報告書だった。

「……硫黄の含有率低下による脆性の改善、成功ね」

 ヴィクトリアはひとりごちると、羽ペンの先をインク壺に浸した。
 カツカツ、という硬質な音が静寂に響く。

 彼女が書き込んだ数字は、この国の平均的な貴族令嬢が見れば頭痛を訴えるような複雑な計算式の結果であり、同時に、このアッシュフォード領にとっての救済を意味していた。

(脱硫工程における石灰投入のタイミングを三十分遅らせる。たったそれだけのことで、歩留まりが十五パーセントも向上するなんて)

 ヴィクトリアの口元に、微かな笑みが浮かぶ。

 それは社交界で見せる愛想の良い微笑みとは違う、職人が会心の出来栄えを確認した時の、誇り高い笑みだった。

 彼女は元々、スターリング伯爵家の娘である。
 スターリング家は代々、鉱山経営と製鉄技術に長けた家系だった。

 父である前伯爵は変わり者で、娘であるヴィクトリアにドレスや宝石を与える代わりに、鉱石の標本と化学の専門書を与えた。

「美しいだけの飾り物になるな。鉄のように強く、銀のように高潔であれ」というのが父の口癖だった。

 その教え通り、ヴィクトリアは冶金の知識を身につけ、若くして領地経営の実務を叩き込まれた。
 そんな彼女がアッシュフォード伯爵家嫡男、ギルバートのもとへ嫁いだのは三年前のことだ。

 当時のアッシュフォード家は、破産寸前だった。

 広大な領地と歴史ある鉱山を持ちながら、旧態依然とした採掘法と放漫経営により、借金は雪だるま式に膨れ上がっていた。

 ギルバート・アッシュフォードは、見目麗しく、誰にでも優しい理想の貴公子だったが、残念ながら数字を見ると目が泳ぎ、決断を迫られると胃を痛める繊細な青年だった。

 両家の利害は一致した。

 スターリング家は、アッシュフォード家の持つ未開発の鉱脈への採掘権を。
 アッシュフォード家は、借金の肩代わりと経営再建の手腕を。

 所謂、政略結婚。
 あるいは、事業提携としての白い結婚だったはずだ。

 その当初は……。

 ヴィクトリアは帳簿を閉じ、ふぅ、と小さく息を吐いた。
 窓の外を見る。

 領地の向こうに見える山の端から、黒煙ではなく、管理された白い蒸気が上がっているのが見えた。
 あれこそが、彼女が導入した新型溶鉱炉が順調に稼働している証だ。

「……終わったわ」

 借金の完済。
 そして、今期の黒字化。

 嫁いでから二年、ヴィクトリアは寝る間も惜しんで働いた。
 現場の荒くれ者たちを論理と実力でねじ伏せ、無駄な経費を削減し、新たな精錬法を確立した。

 その過酷な日々の原動力となったのは、単なる義務感だけではない。

『ヴィクトリア、君はすごいな。僕には何が書いてあるのかさっぱりだ』

『君がいると、屋敷が明るくなるようだ』

『無理をしないで。君が倒れたら、僕は生きていけない』

 夫、ギルバートの言葉だった。
 彼は無能ではあったが、善良だった。

 政略結婚の妻に対し、彼は最初から敬意を払い、優しく接した。
 ヴィクトリアが夜遅くまで執務室に籠もれば、自ら夜食を運び、冷えた手を温めてくれた。

 知識をひけらかす女は可愛げがないと疎まれるのが貴族社会の常識だが、ギルバートは彼女の知性を「魔法のようだ」と無邪気に称賛した。

 冷徹な鉄の女として育てられたヴィクトリアにとって、その陽だまりのような温かさは、初めて触れる安らぎだった。

 だからこそ、彼女は恋をしたのだ。
 契約上の夫を、本当のパートナーとして愛し始めた。

 彼が苦手なことは全て自分が背負おうと決めた。
 彼がその美しい笑顔を曇らせることのないよう、泥臭い仕事も、冷酷な決断も、全て引き受けた。

 その結果が、この帳簿にある。
 過去最高益。

 これでアッシュフォード家は安泰だ。
 ギルバートも、もう借金取りの影に怯える必要はない。

 何もかも順調。
 そのはずだったが……。

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