「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上

文字の大きさ
2 / 37

第2話:悪気のない夫の残酷な言葉

 控えめなノックの音がした。

「ヴィクトリア? 入ってもいいかい?」

 その声を聞いた瞬間、ヴィクトリアの表情から職人の厳しさが消え、柔らかな妻の顔へと切り替わる。

「ええ、どうぞ。ギルバート様」

 扉が開き、ギルバートが入ってきた。
 今日も彼は絵画から抜け出してきたように美しい。

 蜂蜜色の瞳が優しく細められ、手には銀のトレイを持っている。
 ふわりと、甘い焼き菓子の香りが漂った。

「休憩にしようと思って。料理長に頼んで、君の好きな木苺のタルトを焼いてもらったんだ」

「まあ……、ありがとうございます。ちょうど、仕事も一段落したところです」

 ヴィクトリアは椅子から立ち上がり、ソファへ移動する。

 ギルバートは慣れない手つきでティーカップに紅茶を注いだ。
 少しこぼれそうになったが、ヴィクトリアは何も言わずに微笑んで見守る。

 向かい合ってソファに座る。
 ギルバートは心配そうにヴィクトリアの顔を覗き込んだ。

「顔色が少し悪いよ。また根を詰めていたんだろう? 目の下に隈ができている」

「申し訳ありません。ですが、どうしても今月中に確認しておきたいデータがありまして」

 ヴィクトリアは紅茶を一口含み、意を決して切り出した。

 今日こそ、彼に本当の意味での成果を報告できる。
 彼もきっと喜んでくれるはずだ。

「ギルバート様。ご報告があります」

「うん? なんだい?」

「先ほど確認を終えましたが、新しい精錬法による収益が確定しました。……今期、アッシュフォード家の負債は全て完済され、純利益としても過去最高額を記録しました」

 ヴィクトリアの声は、抑えようとしても僅かに弾んだ。
 彼女は机の上の帳簿を指し示した。

「これで、領地の運営費も十分に賄えますし、以前から仰っていた本邸の修繕も可能です。もう、何も心配なさいません」

 彼女は待った。
 夫からの言葉を。

「よくやった」「さすがだ」「君の知識が家を救った」という、対等なパートナーとしての賞賛を。

 しかし、ギルバートの反応は、ヴィクトリアの予想とは違っていた。
 彼はきょとんとした顔で帳簿を一瞥もしないまま、安堵の息を漏らしたのだ。

「ああ、そうか。借金がなくなったのか」

 感想は、それだけだった。
 まるで「今日の天気は晴れだ」と聞いた時のような、拍子抜けするほど軽い反応。

 そして彼は、ヴィクトリアの手を取り、その白く細い指を包み込んだ。

「それならヴィクトリア、もうこんな汚いインクの匂いがする部屋に籠る必要はないね」

 ヴィクトリアの背筋が、ピクリと強張る。

「……え?」

「君には苦労をかけた。本当なら、こんな仕事なんてさせたくなかったんだ。君のような美しい女性は、花を愛でたり、お茶を楽しんだりして過ごすべきなのに」

 ギルバートの瞳は、慈愛に満ちていた。
 一点の曇りもなく、彼は本心からそう言っているのだ。

 彼はヴィクトリアの指先についた、僅かなインクの染みを親指で擦った。

「見てごらん。こんなに汚れて。……可哀想に。僕が無力なせいで、君を労働者のように扱ってしまった」

 ヴィクトリアの心臓が、冷たい水に浸されたように縮んだ。

あなたにおすすめの小説

白い結婚のまま、旦那様は薔薇のような美人に夢中になりました

柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢リディアは、美貌で有名な侯爵レオンハルトに嫁いだ。 けれど結婚して二年、夫婦は一度も結ばれないまま――白い結婚だった。 それでも旦那様は優しかった。 冷たいわけではない。気づかいの言葉も、穏やかな笑顔もくれる。 だからリディアは、愛されてはいなくても、いつか少しは夫婦になれるのではないかと信じていた。 そんなある日、彼女は知ってしまう。 旦那様が薔薇の君と呼ばれる絶世の美女に心を奪われていることを。 彼が触れなかったのは私にだけだったのだと。 都合のいい奥方として、役に立っていたと悟る 静かに離縁を決意したリディアは、実家へ戻ったあと、女子学院で働き始める。 すると侯爵夫人時代には当たり前だった実務のすべてが、外では驚くほど必要とされていた。 感謝され、認められ、自分の足で立ち始めた彼女は、少しずつ見違えるほど美しくなっていく

【完結】白い結婚を終えて自由に生きてまいります

なか
恋愛
––アロルド、私は貴方が結婚初日に告げた言葉を今でも覚えている。  忘れもしない、あの時貴方は確かにこう言った。  「初めに言っておく、俺達の婚姻関係は白い結婚として……この関係は三年間のみとする」 「白い結婚ですか?」 「実は俺には……他に愛する女性がいる」   それは「公爵家の令嬢との問題」を理由に、三年間だけの白い結婚を強いるもの。 私の意思を無視して三家が取り決めたものであったが、私は冷静に合意を決めた ――それは自由を得るため、そして『私自身の秘密を隠すため』の計算でもあった。 ところが、三年の終わりが近づいたとき、アロルドは突然告白する。「この三年間で君しか見えなくなった。白い結婚の約束をなかったことにしてくれ」と。 「セシーリア、頼む……どうか、どうか白い結婚の合意を無かった事にしてくれ」 アロルド、貴方は何を言い出すの? なにを言っているか、分かっているの? 「俺には君しかいないと、この三年間で分かったんだ」 私の答えは決まっていた。 受け入れられるはずがない。  自由のため、私の秘密を守るため、貴方の戯言に付き合う気はなかった。    ◇◇◇ 設定はゆるめです。 とても強い主人公が自由に暮らすお話となります。 もしよろしければ、読んでくださると嬉しいです!

【完結】五年苦しんだの、次は貴方の番です。~王太子妃は許す気はありません~

なか
恋愛
「フィリア、頼む」  私の名前を呼びながら、彼が両膝を地面に落とす。  真紅の髪に添えられた碧色の瞳が、乞うように私を見上げていた。  彼––エリクはハーヴィン王国の王太子であり、隣国のシルヴァン国の王女の私––フィリアは彼の元へ嫁いだ。  しかし嫁いだ先にて……私は『子が産めない』身である事を告げられる。  絶望の中でエリクは、唯一の手を差し伸べてくれた。  しかし待っていたのは苦しみ、耐え続けねばならぬ日々。 『子が産めない』私は、全ての苦痛を耐え続けた……全ては祖国の民のため。  しかし、ある事実を知ってその考えは変わる。  そして…… 「頼む。俺と離婚してほしい」  その言葉を、他でもないエリクから告げさせる事が叶った。  実り叶ったこの瞬間、頭を落として頼み込むエリクに、私は口元に微笑みを刻む。    これまで苦しんできた日々、約五年。  それがようやく報われる。  でもね、許す気はない。  さぁ、エリク。 『次は貴方の番です』    ◇◇◇◇  ざまぁを多めにしたお話。  強い女性が活躍する爽快さを目指しております。  読んでくださると嬉しいです!

幼馴染が最優先な婚約者など、私の人生には不要です。

たると
恋愛
シュタイン伯爵家の長女エルゼは、公爵子息フィリップに恋をしていた。 彼の婚約者として選ばれた時は涙を流して喜んだが、その喜びもいまは遠い。 『君は一人でも大丈夫だろう。この埋め合わせは必ずする。愛している』 「……『愛している』、ですか」 いつも幼馴染を優先するアルベルトに、恋心はすっかり冷めてしまった。

《完結》氷の侯爵令息 あなたが子供はいらないと言ったから

ヴァンドール
恋愛
氷の侯爵令息と言われたアラン。彼は結婚相手の伯爵令嬢にとにかく冷たい態度で接する。 彼女は義姉イライザから夫が子供はいらないと言ったと聞き、衝撃を受けるが気持ちを切り替え生きていく。

結婚初夜、「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と夫に言われました

ましゅぺちーの
恋愛
侯爵令嬢のアリサは婚約者だった王太子テオドールと結婚した。 ちょうどその半年前、アリサの腹違いの妹のシアは不慮の事故で帰らぬ人となっていた。 王太子が婚約者の妹のシアを愛していたのは周知の事実だった。 そんな彼は、結婚初夜、アリサに冷たく言い放った。 「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と。

一番悪いのは誰

jun
恋愛
結婚式翌日から屋敷に帰れなかったファビオ。 ようやく帰れたのは三か月後。 愛する妻のローラにやっと会えると早る気持ちを抑えて家路を急いだ。 出迎えないローラを探そうとすると、執事が言った、 「ローラ様は先日亡くなられました」と。 何故ローラは死んだのは、帰れなかったファビオのせいなのか、それとも・・・

幼馴染しか見えない婚約者と白い結婚したので、夜明け前にさよならしました

ゆぷしろん
恋愛
公爵令嬢レティシアは、家同士の都合で伯爵アルフレッドに嫁ぐ。 けれど夫は結婚後もずっと幼馴染のシルヴィばかりを優先し、婚礼の夜から夫婦として触れ合おうともしなかった。名ばかりの妻として伯爵家を支え、領地経営まで立て直しても、彼にとってレティシアは“都合のいい伯爵夫人”でしかない。 やがて結婚一周年の夜、アルフレッドが自分を手放す気はない一方で、幼馴染を屋敷に迎え入れようとしている会話を聞いてしまったレティシアは、ついに決意する。 ――もう、この結婚には見切りをつけよう。 夜明け前、彼女は離縁の準備を整え、伯爵邸を出奔。 身を寄せた北の港町で薬舗を手伝いながら、自分の力で生きる穏やかな日々を手に入れていく。そこで出会ったのは、身分ではなく一人の女性として彼女を尊重してくれる青年医師ノアだった。 一方、都合よく尽くしてくれる妻を失ったアルフレッドは、ようやく自分が何を失ったのかを思い知ることになる。 幼馴染ばかりを優先する婚約者との白い結婚に終止符を打ち、傷ついた公爵令嬢が新天地で本当の幸せを掴む、離縁から始まる逆転ラブストーリー。