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第3話:錆び付き始めた妻の心
汚れて?
可哀想?
労働者?
違う、そうではない。
ヴィクトリアは叫びたかった。
この指先の汚れは、新しい合金の配合を試行錯誤した証だ。
この部屋の匂いは、領民たちの生活を支える産業の息吹だ。
ヴィクトリアはさせられていたのではない。
彼女は成し遂げたのだ。
彼女の知識が、彼女の計算が、彼女の意志が、この家を救ったのだ。
けれど、ギルバートには伝わらない。
彼にとって、ヴィクトリアの成し遂げた偉業は、単なる苦役でしかなかった。
彼が見ているのは、有能な経営者としてのヴィクトリアではなく、夫の代わりに泥仕事をしてくれた健気な妻だった。
「これからは僕が君を守るよ。もう、難しい数字なんて見なくていい。普通の、幸せな奥様に戻っていいんだよ」
ギルバートは優しく微笑み、ヴィクトリアの手の甲に口づけた。
それは絵になる、完璧な夫婦のワンシーンだっただろう。
傍目には……。
ヴィクトリアの胸の奥で、カチン、と何かが凍りつく音がした。
熱を持っていた達成感が、急速に冷却されていく。
(ああ、この方は……)
ヴィクトリアは悟ってしまった。
この優しい夫は、一生かかっても自分を理解することはないだろうと。
彼は悪気なく、ヴィクトリアの誇りを可哀想なことへと変換し、足元に捨ててしまったのだ。
「……ありがとうございます、ギルバート様」
ヴィクトリアは完璧な淑女の微笑みを浮かべた。
訓練された表情筋は、一ミリの動揺も見せない。
ただ、そのアイスブルーの瞳だけが、冬の湖面のように静まり返っていた。
「貴方のお優しいお言葉、胸に沁みますわ」
「うん、うん。これからはゆっくりしよう。……ああそうだ、来週から雨が続くらしいね」
ギルバートは満足そうにタルトを頬張った。
ヴィクトリアは、自分の手を見つめる。
インクの染みは、彼女にとっては勲章だった。
だが、彼にとってはただの汚れであり、拭い去るべき不幸なのだ。
二人の間にあるテーブルは小さい。
手を伸ばせば届く距離だ。
けれど、精神的な距離は、絶望的なほどに遠かった。
ヴィクトリアは静かに紅茶を飲んだ。
口の中に広がる甘さが、なぜかひどく苦く感じられた。
窓の外では、空が灰色に曇り始めていた。
まるで、これから訪れる嵐を予感させるように。
鋼鉄は錆びないと思われているが、それは間違いだ。
適切な手入れをされず、理解のない環境に放置されれば、どんなに強固な鋼も内側から腐食していく。
この時のヴィクトリアはまだ、自分の心が錆びつき始めていることに気づかない振りをしていた。
ただ、執務室の空気が先ほどまでとは違って、ひどく澱んで感じられただけだった。
可哀想?
労働者?
違う、そうではない。
ヴィクトリアは叫びたかった。
この指先の汚れは、新しい合金の配合を試行錯誤した証だ。
この部屋の匂いは、領民たちの生活を支える産業の息吹だ。
ヴィクトリアはさせられていたのではない。
彼女は成し遂げたのだ。
彼女の知識が、彼女の計算が、彼女の意志が、この家を救ったのだ。
けれど、ギルバートには伝わらない。
彼にとって、ヴィクトリアの成し遂げた偉業は、単なる苦役でしかなかった。
彼が見ているのは、有能な経営者としてのヴィクトリアではなく、夫の代わりに泥仕事をしてくれた健気な妻だった。
「これからは僕が君を守るよ。もう、難しい数字なんて見なくていい。普通の、幸せな奥様に戻っていいんだよ」
ギルバートは優しく微笑み、ヴィクトリアの手の甲に口づけた。
それは絵になる、完璧な夫婦のワンシーンだっただろう。
傍目には……。
ヴィクトリアの胸の奥で、カチン、と何かが凍りつく音がした。
熱を持っていた達成感が、急速に冷却されていく。
(ああ、この方は……)
ヴィクトリアは悟ってしまった。
この優しい夫は、一生かかっても自分を理解することはないだろうと。
彼は悪気なく、ヴィクトリアの誇りを可哀想なことへと変換し、足元に捨ててしまったのだ。
「……ありがとうございます、ギルバート様」
ヴィクトリアは完璧な淑女の微笑みを浮かべた。
訓練された表情筋は、一ミリの動揺も見せない。
ただ、そのアイスブルーの瞳だけが、冬の湖面のように静まり返っていた。
「貴方のお優しいお言葉、胸に沁みますわ」
「うん、うん。これからはゆっくりしよう。……ああそうだ、来週から雨が続くらしいね」
ギルバートは満足そうにタルトを頬張った。
ヴィクトリアは、自分の手を見つめる。
インクの染みは、彼女にとっては勲章だった。
だが、彼にとってはただの汚れであり、拭い去るべき不幸なのだ。
二人の間にあるテーブルは小さい。
手を伸ばせば届く距離だ。
けれど、精神的な距離は、絶望的なほどに遠かった。
ヴィクトリアは静かに紅茶を飲んだ。
口の中に広がる甘さが、なぜかひどく苦く感じられた。
窓の外では、空が灰色に曇り始めていた。
まるで、これから訪れる嵐を予感させるように。
鋼鉄は錆びないと思われているが、それは間違いだ。
適切な手入れをされず、理解のない環境に放置されれば、どんなに強固な鋼も内側から腐食していく。
この時のヴィクトリアはまだ、自分の心が錆びつき始めていることに気づかない振りをしていた。
ただ、執務室の空気が先ほどまでとは違って、ひどく澱んで感じられただけだった。
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