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第16話:妻の悲しい悟り
「……ふざけないで」
ヴィクトリアは絞り出すように言った。
「え?」
「ふざけないでくださいッ!!」
ヴィクトリアの絶叫が、執務室に響き渡った。
シルヴィアが「ひっ」と短い悲鳴を上げ、後ずさる。
ヴィクトリアは顔を上げ、シルヴィアを睨みつけた。
そのアイスブルーの瞳には、これまで見せたことのない激しい炎が宿っていた。
「あれが何だと思っていたのですか! 私が半年かけて、睡眠時間を削って、血を吐く思いで集めたデータです! それを……、それを、貴女のその浅はかな判断で! ゴミとして捨てたのですか!?」
「だ、だって……、汚くて、散らかっていたから……。私、ヴィクトリア様のために……」
「私のため!? 自分の自己満足のためでしょう! 何も分からないなら、余計なことをしないで! ただ座っていてと言ったはずです!」
ヴィクトリアは一歩、また一歩とシルヴィアに詰め寄った。
シルヴィアは涙目になり、震えながら壁際へと追い詰められていく。
「ご、ごめんなさい……。そんなつもりじゃ……、ううっ……」
「謝って済む問題ではありません! 貴女が捨てたのは紙切れじゃない、この領地の未来です! アッシュフォード家の財産そのものです! どうやって償うつもりですか! 泣けば許されると思っているのですかッ!」
ヴィクトリアは、その愚かさを理解させたかった。
「ヴィクトリア! 何をしている!」
扉が乱暴に開かれた。
ギルバートだ。
彼は真っ赤な顔で部屋に飛び込み、ヴィクトリアとシルヴィアの間に割って入った。
「ギルバート様ぁっ! 怖いっ!」
シルヴィアがギルバートの背中にしがみつき、わっと泣き出した。
ギルバートは彼女を庇うように両手を広げ、ヴィクトリアを睨みつけた。
その目は、妻を見る目ではなく、狂人を見る目だった。
「信じられない……。君は、暴力まで振るうようになったのか!?」
「……暴力?」
怒りで荒くなっていた呼吸が、一瞬で止まった。
「違います。私はただ、彼女に問いただしていただけです。彼女が何をしたか、ご存じなのですか!?」
ヴィクトリアは訴えた。
夫なら、この家の当主なら、失われたものの価値を理解してくれるはずだ。
いや、理解しなければならない。
「彼女は、開発中の新合金のデータを全て捨てたのです! 私の半年間の努力を、全て灰にしたのですよ!?」
だが、ギルバートの反応は、ヴィクトリアの期待を裏切るものだった。
彼は眉をひそめ、呆れたようにため息をついたのだ。
「またか。またその話か」
「……え?」
「たかが紙切れだろう! 前も言ったはずだ! シルヴィアは、君のために掃除をしてくれたんだろう!?」
ギルバートは大声で、自信満々に言い放った。
「見ろ、この部屋を! 君が散らかしていた本や書類が、こんなに綺麗に整頓されているじゃないか! 彼女は朝早くから、君が気持ちよく働けるようにと頑張ってくれたんだ。その善意に対して、君は礼を言うどころか怒鳴りつけるのか!?」
「……善意?」
ヴィクトリアの頭の中で、何かがプツンと切れる音がした。
「そうですか……。貴方には、これが綺麗な部屋に見えるのですね」
「当たり前だ! 君は研究に没頭しすぎて、美的感覚がおかしくなっているんじゃないか? データの損失なんて、またやり直せばいいだけの話だ。だが、傷つけた人の心は元には戻らないんだぞ!」
ギルバートは正義感に酔っていた。
か弱い女性を守り、ヒステリックな妻を諌める、理想的な夫として。
ヴィクトリアは、震えるシルヴィアの頭を優しく撫でる夫の姿を見た。
シルヴィアは彼の胸で安堵し、「ごめんなさい、私が悪いの……」とあざとく呟いている。
それを見て、ギルバートはさらに愛おしそうに彼女を抱きしめる。
ああ、駄目だ。
言葉が通じない。
この人たちとは、生きている世界が違う。
住んでいる次元が違う。
ヴィクトリアの体の中で燃え盛っていた怒りの炎が、急速に、あまりにも急速に冷えていった。
それは鎮火ではない。
絶対零度への凍結だった。
(ああ……、もう、いい)
ヴィクトリアの瞳から、光が消えた。
怒りも、悲しみも、焦燥も、そして夫への情も。
全てが凍りつき、砕け散り、後に残ったのは、どこまでも透明で冷たい無関心だけだった。
もう、終わりだ。
ヴィクトリアは、静かに瞼を閉じた。
ヴィクトリアは絞り出すように言った。
「え?」
「ふざけないでくださいッ!!」
ヴィクトリアの絶叫が、執務室に響き渡った。
シルヴィアが「ひっ」と短い悲鳴を上げ、後ずさる。
ヴィクトリアは顔を上げ、シルヴィアを睨みつけた。
そのアイスブルーの瞳には、これまで見せたことのない激しい炎が宿っていた。
「あれが何だと思っていたのですか! 私が半年かけて、睡眠時間を削って、血を吐く思いで集めたデータです! それを……、それを、貴女のその浅はかな判断で! ゴミとして捨てたのですか!?」
「だ、だって……、汚くて、散らかっていたから……。私、ヴィクトリア様のために……」
「私のため!? 自分の自己満足のためでしょう! 何も分からないなら、余計なことをしないで! ただ座っていてと言ったはずです!」
ヴィクトリアは一歩、また一歩とシルヴィアに詰め寄った。
シルヴィアは涙目になり、震えながら壁際へと追い詰められていく。
「ご、ごめんなさい……。そんなつもりじゃ……、ううっ……」
「謝って済む問題ではありません! 貴女が捨てたのは紙切れじゃない、この領地の未来です! アッシュフォード家の財産そのものです! どうやって償うつもりですか! 泣けば許されると思っているのですかッ!」
ヴィクトリアは、その愚かさを理解させたかった。
「ヴィクトリア! 何をしている!」
扉が乱暴に開かれた。
ギルバートだ。
彼は真っ赤な顔で部屋に飛び込み、ヴィクトリアとシルヴィアの間に割って入った。
「ギルバート様ぁっ! 怖いっ!」
シルヴィアがギルバートの背中にしがみつき、わっと泣き出した。
ギルバートは彼女を庇うように両手を広げ、ヴィクトリアを睨みつけた。
その目は、妻を見る目ではなく、狂人を見る目だった。
「信じられない……。君は、暴力まで振るうようになったのか!?」
「……暴力?」
怒りで荒くなっていた呼吸が、一瞬で止まった。
「違います。私はただ、彼女に問いただしていただけです。彼女が何をしたか、ご存じなのですか!?」
ヴィクトリアは訴えた。
夫なら、この家の当主なら、失われたものの価値を理解してくれるはずだ。
いや、理解しなければならない。
「彼女は、開発中の新合金のデータを全て捨てたのです! 私の半年間の努力を、全て灰にしたのですよ!?」
だが、ギルバートの反応は、ヴィクトリアの期待を裏切るものだった。
彼は眉をひそめ、呆れたようにため息をついたのだ。
「またか。またその話か」
「……え?」
「たかが紙切れだろう! 前も言ったはずだ! シルヴィアは、君のために掃除をしてくれたんだろう!?」
ギルバートは大声で、自信満々に言い放った。
「見ろ、この部屋を! 君が散らかしていた本や書類が、こんなに綺麗に整頓されているじゃないか! 彼女は朝早くから、君が気持ちよく働けるようにと頑張ってくれたんだ。その善意に対して、君は礼を言うどころか怒鳴りつけるのか!?」
「……善意?」
ヴィクトリアの頭の中で、何かがプツンと切れる音がした。
「そうですか……。貴方には、これが綺麗な部屋に見えるのですね」
「当たり前だ! 君は研究に没頭しすぎて、美的感覚がおかしくなっているんじゃないか? データの損失なんて、またやり直せばいいだけの話だ。だが、傷つけた人の心は元には戻らないんだぞ!」
ギルバートは正義感に酔っていた。
か弱い女性を守り、ヒステリックな妻を諌める、理想的な夫として。
ヴィクトリアは、震えるシルヴィアの頭を優しく撫でる夫の姿を見た。
シルヴィアは彼の胸で安堵し、「ごめんなさい、私が悪いの……」とあざとく呟いている。
それを見て、ギルバートはさらに愛おしそうに彼女を抱きしめる。
ああ、駄目だ。
言葉が通じない。
この人たちとは、生きている世界が違う。
住んでいる次元が違う。
ヴィクトリアの体の中で燃え盛っていた怒りの炎が、急速に、あまりにも急速に冷えていった。
それは鎮火ではない。
絶対零度への凍結だった。
(ああ……、もう、いい)
ヴィクトリアの瞳から、光が消えた。
怒りも、悲しみも、焦燥も、そして夫への情も。
全てが凍りつき、砕け散り、後に残ったのは、どこまでも透明で冷たい無関心だけだった。
もう、終わりだ。
ヴィクトリアは、静かに瞼を閉じた。
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