3 / 36
第3話:妻の心を傷つける夫の言葉
時計は深夜二時を回っていた。
地下工房の空気は、昼間よりもさらに冷え込み、重く沈殿している。
クララは作業台に突っ伏しそうになる体を、強引に叱咤して起こしていた。
目の奥が焼けつくように熱い。
指先は感覚を失いかけ、微細な震えを帯びている。
それでも、研磨機を止めるわけにはいかなかった。
明日の朝までに、あと三枚のレンズを仕上げなければならない。
それは、夫マティアスが一方的に決めた合理的なスケジュールだった。
廊下から、規則的で硬質な足音が近づいてくる。
クララはその音を聞いただけで、背筋が強張るのを感じた。
マティアスだ。
彼の歩き方には迷いがない。
常に最短距離を、一定の速度で移動する。
まるで精密機械のように。
扉がノックもなしに開いた。
「まだ起きているのか」
入ってきたマティアスは、完璧にプレスされたダークネイビーのスーツを着こなしていた。
銀縁眼鏡の奥にある瞳は、氷のように冷ややかで、深夜の残業に励む妻を労う色は微塵もない。
彼は部屋の隅に置かれた古時計を一瞥し、眉をわずかにひそめた。
「効率が悪いな、クララ。予定では一時間前に終了しているはずだ」
クララは椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
作業着のエプロンは研磨剤で白く汚れ、髪もほつれている。
対するマティアスは、塵ひとつついていない。
この部屋の中で、彼だけが異質なほど清潔で、無機質だった。
「申し訳ありません、旦那様。今回仕入れた原石の中に、予想よりも硬度が高いものが混じっておりまして……、加工に時間がかかっております」
「硬度?」
マティアスは鼻で笑った。
「素材の質は前回のロットと同じはずだ。君の技術が鈍っているのではないか? あるいは、無駄な工程を増やしているかだ」
クララは唇を噛んだ。
違う。
今回の原石は安価な代わりに不純物が多く、それを避けて削り出すために、通常の三倍の手間がかかっているのだ。
それはマティアスがコスト削減のために仕入先を変えた結果だった。
「いえ、決してそのようなことは。不純物を取り除くために、どうしても慎重なカッティングが必要なのです。もし速度を上げれば、熱でヒビが入る恐れが――」
「言い訳は聞きたくない」
マティアスの声は平坦で、鋭利な刃物のようだった。
彼は作業台に歩み寄り、研磨中のレンズを指先で弾いた。
チン、と硬質な音が響く。
「私は結果を求めている。過程である君の苦労など、顧客には関係ないし、経営においては何の価値もない。君が寝ていようが起きていようが、納期に間に合わなければゼロだ」
彼はクララを見下ろした。
その視線は、壊れかけた機械を検分するような冷たさを帯びていた。
「それに、イザベラは言っていたぞ。『私なら、もっと上手くやれますわ』とな」
クララの心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。
まただ。
また、あの名前が出る。
「イザベラ様は……、研磨の技術をお持ちではありません。彼女には、現場の厳しさが――」
「彼女は優秀な広報だ。そして何より、ポジティブだ」
マティアスはクララの言葉を遮り、諭すように言った。
まるで、わからずやの子供に言い聞かせるように……。
そして、さらにクララの心を傷つける言葉を吐いた。
地下工房の空気は、昼間よりもさらに冷え込み、重く沈殿している。
クララは作業台に突っ伏しそうになる体を、強引に叱咤して起こしていた。
目の奥が焼けつくように熱い。
指先は感覚を失いかけ、微細な震えを帯びている。
それでも、研磨機を止めるわけにはいかなかった。
明日の朝までに、あと三枚のレンズを仕上げなければならない。
それは、夫マティアスが一方的に決めた合理的なスケジュールだった。
廊下から、規則的で硬質な足音が近づいてくる。
クララはその音を聞いただけで、背筋が強張るのを感じた。
マティアスだ。
彼の歩き方には迷いがない。
常に最短距離を、一定の速度で移動する。
まるで精密機械のように。
扉がノックもなしに開いた。
「まだ起きているのか」
入ってきたマティアスは、完璧にプレスされたダークネイビーのスーツを着こなしていた。
銀縁眼鏡の奥にある瞳は、氷のように冷ややかで、深夜の残業に励む妻を労う色は微塵もない。
彼は部屋の隅に置かれた古時計を一瞥し、眉をわずかにひそめた。
「効率が悪いな、クララ。予定では一時間前に終了しているはずだ」
クララは椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
作業着のエプロンは研磨剤で白く汚れ、髪もほつれている。
対するマティアスは、塵ひとつついていない。
この部屋の中で、彼だけが異質なほど清潔で、無機質だった。
「申し訳ありません、旦那様。今回仕入れた原石の中に、予想よりも硬度が高いものが混じっておりまして……、加工に時間がかかっております」
「硬度?」
マティアスは鼻で笑った。
「素材の質は前回のロットと同じはずだ。君の技術が鈍っているのではないか? あるいは、無駄な工程を増やしているかだ」
クララは唇を噛んだ。
違う。
今回の原石は安価な代わりに不純物が多く、それを避けて削り出すために、通常の三倍の手間がかかっているのだ。
それはマティアスがコスト削減のために仕入先を変えた結果だった。
「いえ、決してそのようなことは。不純物を取り除くために、どうしても慎重なカッティングが必要なのです。もし速度を上げれば、熱でヒビが入る恐れが――」
「言い訳は聞きたくない」
マティアスの声は平坦で、鋭利な刃物のようだった。
彼は作業台に歩み寄り、研磨中のレンズを指先で弾いた。
チン、と硬質な音が響く。
「私は結果を求めている。過程である君の苦労など、顧客には関係ないし、経営においては何の価値もない。君が寝ていようが起きていようが、納期に間に合わなければゼロだ」
彼はクララを見下ろした。
その視線は、壊れかけた機械を検分するような冷たさを帯びていた。
「それに、イザベラは言っていたぞ。『私なら、もっと上手くやれますわ』とな」
クララの心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。
まただ。
また、あの名前が出る。
「イザベラ様は……、研磨の技術をお持ちではありません。彼女には、現場の厳しさが――」
「彼女は優秀な広報だ。そして何より、ポジティブだ」
マティアスはクララの言葉を遮り、諭すように言った。
まるで、わからずやの子供に言い聞かせるように……。
そして、さらにクララの心を傷つける言葉を吐いた。
あなたにおすすめの小説
「通訳など辞書で足りる」と追放された令嬢——三国会談で、婚約者は一言も話せなくなった
歩人
ファンタジー
宮廷通訳官エレノーラは五つの言語を操り、婚約者クラウスの外交を陰で支えてきた。
だがクラウスは言った。「通訳など辞書で足りる。お前は要らない」
追放されたエレノーラは隣国で新たな道を歩み始める。
一方、クラウスは三国会談の場で辞書片手に立ち往生。
誤訳が外交問題に発展し、窮地に陥ったその場に、隣国の通訳官として現れたのは——。
「その言葉は、もう翻訳できません」
結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です
柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。
そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。
真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。
けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。
「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」
彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。
アンリは実は、亡き国王の婚外子。
皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。
必要とされなくても、私はここにいます
あう
恋愛
辺境公爵カーネル・クリスのもとへ嫁ぐことになったフィレ・バーナード。
けれど彼女は、理想の妻になろうとも、誰かの上に立とうともしなかった。
口出ししない。
判断を奪わない。
必要以上に関わらない。
ただ静かに、そこにいるだけ。
そんな彼女の在り方は、少しずつ屋敷の空気を変えていく。
張りつめていた人々の距離はやわらぎ、日々の営みは穏やかに整いはじめる。
何かを勝ち取る物語ではない。
誰かを打ち負かす物語でもない。
それでも確かに、彼女がいることで守られていくものがある。
これは、
声高に愛を叫ばなくても伝わる想いと、
何も奪わないからこそ育っていく信頼を描く、
静かでやさしい結婚生活の物語。
幼馴染が最優先な婚約者など、私の人生には不要です。
たると
恋愛
シュタイン伯爵家の長女エルゼは、公爵子息フィリップに恋をしていた。
彼の婚約者として選ばれた時は涙を流して喜んだが、その喜びもいまは遠い。
『君は一人でも大丈夫だろう。この埋め合わせは必ずする。愛している』
「……『愛している』、ですか」
いつも幼馴染を優先するアルベルトに、恋心はすっかり冷めてしまった。
「病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?
さんけい
恋愛
婚約者リチャードは、約束のたびに「病弱な従妹エミリーが」と言ってイブリンを後回しにした。最初は思いやりだと信じていた。だが、それが一度や二度ではなく、婚約者としての敬意も誠実さも踏みにじられ続けた末、イブリンはついに婚約の継続を拒む。
ところが、事はただの婚約破棄では終わらなかった。
弱々しく見える従妹エミリーは、どうにも“ただ可哀想なだけの娘”ではない。人によって態度を変え、相手の良心につけ込み、じわじわと人間関係を侵していくその姿に、イブリンの家族は次第に違和感を強めていく。やがてその違和感は、婚約者個人の未熟さだけでなく、相手の家そのものが抱える歪みへとつながっていき――。
家族に守られながら婚約解消へ進むヒロインと、見えているのに見誤り続けた婚約者。
そして“病弱な従妹”の奥に潜んでいたものとは。
婚約破棄から始まる、じわりと不穏で、最後にはきっちり決着する人間ドラマ。
全90回。予約投稿済みです。
6時と17時に更新致します。
何もしなかっただけです
希臘楽園
ファンタジー
公爵令嬢であり王太子の婚約者であった私は、「地味だ」という理由で婚約を破棄され、王宮を去った。
それまで私が担っていた役目を、誰も知らないまま。
――ただ何もしなくなっただけで、すべては静かに崩れていく。
AIに書かせてみた第14弾は、「追放ざまぁ」系の短編。
婚約破棄された悪役令嬢ですが、面倒なので全部放置します
かきんとう
恋愛
王都の大広間に、どよめきが広がった。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、何百もの蝋燭の光を反射し、きらきらと輝いている。その光の中心に立つ私は、妙に他人事のような気分で、その場の空気を眺めていた。
「エレノア・フォン・リーベルト! 私は貴様との婚約をここに破棄する!」
高らかに宣言したのは、第一王子であり私の婚約者でもあったアルベルト殿下だった。
周囲の貴族たちが一斉に息を呑み、次の瞬間には小声のざわめきが連鎖のように広がっていく。
――ああ、ついに来たのね。