4 / 36
第4話:磨耗する妻の心
「彼女は『できます』と言った。君のようにできない理由を並べ立てたりしない。それがビジネスにおける正しい姿勢だ。君も少しは彼女の爪の垢を煎じて飲むといい。いつも陰気な顔をして、専門用語ばかり並べるから、仕事が遅くなるんだ」
クララは言葉を失った。
イザベラが「できます」と言えるのは、彼女が何も知らないからだ。
ガラスの脆さも、研磨剤の配合も、ミクロン単位の調整の難しさも、何も理解していないから、無責任に肯定できるだけだ。
けれど、マティアスにとってはその無知な肯定こそが、心地よい正解なのだ。
クララが積み上げてきた知識も、経験も、指先の感覚も、すべてが陰気な言い訳として切り捨てられる。
彼女の中で、何かが音を立てて崩れ落ちそうになった。
反論したい。
叫びたい。
「私が夜を徹して支えているから、あなたの商会は回っているのよ」と。
だが、クララは喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
言っても無駄だ。
この男は、数字と効率というフィルターを通してしか世界を見ていない。
そこに人の心や技術への敬意が入り込む余地はない。
「……承知いたしました。朝までに、必ず仕上げます」
クララは感情を押し殺し、再び深々と頭を下げた。
それが、マティアスが望む正解だと知っていたからだ。
「よろしい」
マティアスは満足げに頷いた。
「君は手を動かしていればいい。思考や経営判断は、私がする。それが適材適所というものだ。君のためを思って言っているんだぞ? 君はコミュニケーションが苦手だから、裏方で守ってやっているんだ」
恩着せがましいその言葉は、クララの自尊心を粉々に踏み躙るには十分だった。
(守っている? いいえ、あなたは私を閉じ込めているだけ。ただ都合の良い道具として……)
「ああ、そうだ」
部屋を出て行こうとしたマティアスが、思い出したように立ち止まった。
「来週の夜会だが、イザベラを同伴する。君は招待状が来ても断っておくように。どうせ、そんな汚れた手で参加しても、商会の品位を下げるだけだからな」
彼は振り返ることなく、扉を閉めた。
再び訪れた静寂の中で、クララは自分の手を見つめた。
研磨剤で黒く変色し、皮膚が荒れた手。
マティアスはそれを「汚い」と言った。
けれど、この汚れは、彼が誇るゲイル商会の輝きを作り出すために付いたものだ。
クララは乾いた笑みを漏らした。
涙は出なかった。
ただ、胸の奥で、何かが噛み合わなくなる音がした。
それは、彼女が夫に対して抱いていた、最後の、ごく僅かな期待の欠片が、完全に砕け散った音だったのかもしれない。
クララは黙って研磨機のスイッチを入れた。
回転音が虚しく響く。
彼女はもう、マティアスのために心を痛めることをやめようと思った。
ただの機械になればいい。
感情を持たない、便利な研磨機に。
そうすれば、この痛みも消えるはずだから……。
クララは言葉を失った。
イザベラが「できます」と言えるのは、彼女が何も知らないからだ。
ガラスの脆さも、研磨剤の配合も、ミクロン単位の調整の難しさも、何も理解していないから、無責任に肯定できるだけだ。
けれど、マティアスにとってはその無知な肯定こそが、心地よい正解なのだ。
クララが積み上げてきた知識も、経験も、指先の感覚も、すべてが陰気な言い訳として切り捨てられる。
彼女の中で、何かが音を立てて崩れ落ちそうになった。
反論したい。
叫びたい。
「私が夜を徹して支えているから、あなたの商会は回っているのよ」と。
だが、クララは喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
言っても無駄だ。
この男は、数字と効率というフィルターを通してしか世界を見ていない。
そこに人の心や技術への敬意が入り込む余地はない。
「……承知いたしました。朝までに、必ず仕上げます」
クララは感情を押し殺し、再び深々と頭を下げた。
それが、マティアスが望む正解だと知っていたからだ。
「よろしい」
マティアスは満足げに頷いた。
「君は手を動かしていればいい。思考や経営判断は、私がする。それが適材適所というものだ。君のためを思って言っているんだぞ? 君はコミュニケーションが苦手だから、裏方で守ってやっているんだ」
恩着せがましいその言葉は、クララの自尊心を粉々に踏み躙るには十分だった。
(守っている? いいえ、あなたは私を閉じ込めているだけ。ただ都合の良い道具として……)
「ああ、そうだ」
部屋を出て行こうとしたマティアスが、思い出したように立ち止まった。
「来週の夜会だが、イザベラを同伴する。君は招待状が来ても断っておくように。どうせ、そんな汚れた手で参加しても、商会の品位を下げるだけだからな」
彼は振り返ることなく、扉を閉めた。
再び訪れた静寂の中で、クララは自分の手を見つめた。
研磨剤で黒く変色し、皮膚が荒れた手。
マティアスはそれを「汚い」と言った。
けれど、この汚れは、彼が誇るゲイル商会の輝きを作り出すために付いたものだ。
クララは乾いた笑みを漏らした。
涙は出なかった。
ただ、胸の奥で、何かが噛み合わなくなる音がした。
それは、彼女が夫に対して抱いていた、最後の、ごく僅かな期待の欠片が、完全に砕け散った音だったのかもしれない。
クララは黙って研磨機のスイッチを入れた。
回転音が虚しく響く。
彼女はもう、マティアスのために心を痛めることをやめようと思った。
ただの機械になればいい。
感情を持たない、便利な研磨機に。
そうすれば、この痛みも消えるはずだから……。
あなたにおすすめの小説
「通訳など辞書で足りる」と追放された令嬢——三国会談で、婚約者は一言も話せなくなった
歩人
ファンタジー
宮廷通訳官エレノーラは五つの言語を操り、婚約者クラウスの外交を陰で支えてきた。
だがクラウスは言った。「通訳など辞書で足りる。お前は要らない」
追放されたエレノーラは隣国で新たな道を歩み始める。
一方、クラウスは三国会談の場で辞書片手に立ち往生。
誤訳が外交問題に発展し、窮地に陥ったその場に、隣国の通訳官として現れたのは——。
「その言葉は、もう翻訳できません」
結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です
柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。
そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。
真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。
けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。
「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」
彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。
アンリは実は、亡き国王の婚外子。
皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。
必要とされなくても、私はここにいます
あう
恋愛
辺境公爵カーネル・クリスのもとへ嫁ぐことになったフィレ・バーナード。
けれど彼女は、理想の妻になろうとも、誰かの上に立とうともしなかった。
口出ししない。
判断を奪わない。
必要以上に関わらない。
ただ静かに、そこにいるだけ。
そんな彼女の在り方は、少しずつ屋敷の空気を変えていく。
張りつめていた人々の距離はやわらぎ、日々の営みは穏やかに整いはじめる。
何かを勝ち取る物語ではない。
誰かを打ち負かす物語でもない。
それでも確かに、彼女がいることで守られていくものがある。
これは、
声高に愛を叫ばなくても伝わる想いと、
何も奪わないからこそ育っていく信頼を描く、
静かでやさしい結婚生活の物語。
幼馴染が最優先な婚約者など、私の人生には不要です。
たると
恋愛
シュタイン伯爵家の長女エルゼは、公爵子息フィリップに恋をしていた。
彼の婚約者として選ばれた時は涙を流して喜んだが、その喜びもいまは遠い。
『君は一人でも大丈夫だろう。この埋め合わせは必ずする。愛している』
「……『愛している』、ですか」
いつも幼馴染を優先するアルベルトに、恋心はすっかり冷めてしまった。
「病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?
さんけい
恋愛
婚約者リチャードは、約束のたびに「病弱な従妹エミリーが」と言ってイブリンを後回しにした。最初は思いやりだと信じていた。だが、それが一度や二度ではなく、婚約者としての敬意も誠実さも踏みにじられ続けた末、イブリンはついに婚約の継続を拒む。
ところが、事はただの婚約破棄では終わらなかった。
弱々しく見える従妹エミリーは、どうにも“ただ可哀想なだけの娘”ではない。人によって態度を変え、相手の良心につけ込み、じわじわと人間関係を侵していくその姿に、イブリンの家族は次第に違和感を強めていく。やがてその違和感は、婚約者個人の未熟さだけでなく、相手の家そのものが抱える歪みへとつながっていき――。
家族に守られながら婚約解消へ進むヒロインと、見えているのに見誤り続けた婚約者。
そして“病弱な従妹”の奥に潜んでいたものとは。
婚約破棄から始まる、じわりと不穏で、最後にはきっちり決着する人間ドラマ。
全90回。予約投稿済みです。
6時と17時に更新致します。
何もしなかっただけです
希臘楽園
ファンタジー
公爵令嬢であり王太子の婚約者であった私は、「地味だ」という理由で婚約を破棄され、王宮を去った。
それまで私が担っていた役目を、誰も知らないまま。
――ただ何もしなくなっただけで、すべては静かに崩れていく。
AIに書かせてみた第14弾は、「追放ざまぁ」系の短編。
婚約破棄された悪役令嬢ですが、面倒なので全部放置します
かきんとう
恋愛
王都の大広間に、どよめきが広がった。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、何百もの蝋燭の光を反射し、きらきらと輝いている。その光の中心に立つ私は、妙に他人事のような気分で、その場の空気を眺めていた。
「エレノア・フォン・リーベルト! 私は貴様との婚約をここに破棄する!」
高らかに宣言したのは、第一王子であり私の婚約者でもあったアルベルト殿下だった。
周囲の貴族たちが一斉に息を呑み、次の瞬間には小声のざわめきが連鎖のように広がっていく。
――ああ、ついに来たのね。