「君は地味な裏方だ」と愛人を優遇するサイコパス気質の夫。〜私が去った後、商会の技術が全て私の手によるものだと気づいても、もう手遅れです〜

水上

文字の大きさ
5 / 36

第5話:存在しない妻の居場所

 ゲイル商会の応接室は、午後の日差しが降り注ぎ、残酷なほど明るかった。

 磨き上げられたマホガニーのテーブル、ベルベットのソファ、そしてテーブルの中央に鎮座する、クララが三日三晩かけて研磨したクリスタルガラスのデキャンタ。

 すべてが光り輝いている中で、部屋の隅に控えるクララだけが、まるで影のように色を失っていた。

 今日のクララの役目は書記係だ。

 夫であるマティアスから、「技術的な質問が出た時のためだけに同席しろ。それ以外は口を開くな」と厳命されていた。

 彼女は膝の上で手帳を広げ、速記用のペンを握りしめている。
 その指先には、昨夜の研磨作業でできた小さな切り傷が、絆創膏の下でズキズキと痛んでいた。

「素晴らしい……! まるで水そのものを切り取ったようだ」

 感嘆の声を上げたのは、取引先であるバーナム子爵だった。
 彼は恰幅の良い体を揺らしながら、デキャンタを太陽の光にかざしている。

 ガラスの表面には、微細な虹色の光沢が走っていた。

 それは、クララが計算し尽くした四十五度の交差研磨と、特殊な酸化セリウムの配合によってのみ実現できる、物理学の結晶だ。

「ゲイル男爵、一体どうすればこれほどの透明度が出せるのですかな? 他の工房の製品は、どうしても僅かな濁りや歪みが残るものですが」

 子爵が興味津々に尋ねた。
 マティアスがちらりとクララに視線を投げる。

 技術的な説明をしろ、という合図だ。
 クララは音もなく立ち上がり、一歩前へ出た。

 喉が渇いていたが、プロとして完璧な回答を用意していた。

「お褒めにあずかり光栄です。その透明度は、素材の冷却時間を通常の倍に取り、内部応力を完全に除去した上で、三種類の異なる粒度の研磨剤を使って――」

「あら、子爵様ったら!」

 クララの言葉は、鈴を転がすような甘い声によって唐突に断ち切られた。

 イザベラだった。
 彼女はマティアスの隣で、まるで自分がこの商会の女主人であるかのように振る舞っていた。

 鮮やかなコーラルピンクのドレスが、クララの地味な灰色のワンピースを視界の端へと追いやる。

 イザベラは子爵の手からデキャンタを優しく受け取ると、愛おしげに頬を寄せた。

「そんな難しいお話、退屈でしょう? この輝きの秘密はね、もっと単純なことなんですの」

「ほほう? 単純、とは?」

 子爵が身を乗り出す。イザベラは悪戯っぽくウィンクしてみせた。

「それは愛ですわ! 私たちが、この子たちに『綺麗になぁれ』って、毎日魔法をかけているんですもの。だから、他のお店の商品とは育ちが違うんです」

 クララは、呼吸を止めた。

 愛? 

 魔法?

 そんな曖昧で非科学的な言葉で、あの極限の精密作業を片付けるというのか。

 指紋がすり減るほどの摩擦熱も、顕微鏡とにらめっこをした眼精疲労も、配合を間違えれば有毒ガスが発生する危険な薬品処理も、すべて魔法の一言で塗りつぶされていく。

 だが、子爵の反応は劇的だった。
 彼は破顔一笑し、手を叩いたのだ。

「はっはっは! なるほど、愛か! 技術論ばかり並べる職人とは違って、君の説明は実に心に響く。そうだ、客が求めているのはそういう物語なんだよ!」

 マティアスが満足げに頷き、イザベラの腰に手を回した。

「ええ、その通りです。彼女は我が商会の女神ですから。彼女の感性が、無機質なガラスに命を吹き込むのです」

 二人は顔を見合わせ、美男美女の絵画のように微笑み合う。

 そこに、実際に手を動かし、汗と油にまみれて命を吹き込んだ、クララの居場所はなかった。

あなたにおすすめの小説

「通訳など辞書で足りる」と追放された令嬢——三国会談で、婚約者は一言も話せなくなった

歩人
ファンタジー
宮廷通訳官エレノーラは五つの言語を操り、婚約者クラウスの外交を陰で支えてきた。 だがクラウスは言った。「通訳など辞書で足りる。お前は要らない」 追放されたエレノーラは隣国で新たな道を歩み始める。 一方、クラウスは三国会談の場で辞書片手に立ち往生。 誤訳が外交問題に発展し、窮地に陥ったその場に、隣国の通訳官として現れたのは——。 「その言葉は、もう翻訳できません」

結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です

柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。 そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。 真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。 けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。 「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」 彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。 アンリは実は、亡き国王の婚外子。 皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。

必要とされなくても、私はここにいます

あう
恋愛
辺境公爵カーネル・クリスのもとへ嫁ぐことになったフィレ・バーナード。 けれど彼女は、理想の妻になろうとも、誰かの上に立とうともしなかった。 口出ししない。 判断を奪わない。 必要以上に関わらない。 ただ静かに、そこにいるだけ。 そんな彼女の在り方は、少しずつ屋敷の空気を変えていく。 張りつめていた人々の距離はやわらぎ、日々の営みは穏やかに整いはじめる。 何かを勝ち取る物語ではない。 誰かを打ち負かす物語でもない。 それでも確かに、彼女がいることで守られていくものがある。 これは、 声高に愛を叫ばなくても伝わる想いと、 何も奪わないからこそ育っていく信頼を描く、 静かでやさしい結婚生活の物語。

幼馴染が最優先な婚約者など、私の人生には不要です。

たると
恋愛
シュタイン伯爵家の長女エルゼは、公爵子息フィリップに恋をしていた。 彼の婚約者として選ばれた時は涙を流して喜んだが、その喜びもいまは遠い。 『君は一人でも大丈夫だろう。この埋め合わせは必ずする。愛している』 「……『愛している』、ですか」 いつも幼馴染を優先するアルベルトに、恋心はすっかり冷めてしまった。

「病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?

さんけい
恋愛
婚約者リチャードは、約束のたびに「病弱な従妹エミリーが」と言ってイブリンを後回しにした。最初は思いやりだと信じていた。だが、それが一度や二度ではなく、婚約者としての敬意も誠実さも踏みにじられ続けた末、イブリンはついに婚約の継続を拒む。 ところが、事はただの婚約破棄では終わらなかった。 弱々しく見える従妹エミリーは、どうにも“ただ可哀想なだけの娘”ではない。人によって態度を変え、相手の良心につけ込み、じわじわと人間関係を侵していくその姿に、イブリンの家族は次第に違和感を強めていく。やがてその違和感は、婚約者個人の未熟さだけでなく、相手の家そのものが抱える歪みへとつながっていき――。 家族に守られながら婚約解消へ進むヒロインと、見えているのに見誤り続けた婚約者。 そして“病弱な従妹”の奥に潜んでいたものとは。 婚約破棄から始まる、じわりと不穏で、最後にはきっちり決着する人間ドラマ。 全90回。予約投稿済みです。 6時と17時に更新致します。

何もしなかっただけです

希臘楽園
ファンタジー
公爵令嬢であり王太子の婚約者であった私は、「地味だ」という理由で婚約を破棄され、王宮を去った。 それまで私が担っていた役目を、誰も知らないまま。 ――ただ何もしなくなっただけで、すべては静かに崩れていく。 AIに書かせてみた第14弾は、「追放ざまぁ」系の短編。

婚約破棄された悪役令嬢ですが、面倒なので全部放置します

かきんとう
恋愛
 王都の大広間に、どよめきが広がった。  天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、何百もの蝋燭の光を反射し、きらきらと輝いている。その光の中心に立つ私は、妙に他人事のような気分で、その場の空気を眺めていた。 「エレノア・フォン・リーベルト! 私は貴様との婚約をここに破棄する!」  高らかに宣言したのは、第一王子であり私の婚約者でもあったアルベルト殿下だった。  周囲の貴族たちが一斉に息を呑み、次の瞬間には小声のざわめきが連鎖のように広がっていく。  ――ああ、ついに来たのね。

私が支えた国が崩壊する様を見届けさせていただきますわ !

ルミナス
恋愛
悪役令嬢×婚約破棄×ざまぁ 20話で完結します。