18 / 36
第18話:苛立つ男
工房は、かつてないほど綺麗に片付いていた。
床にはガラスの粉ひとつ落ちておらず、作業台は磨き上げられ、工具類は整然と棚に収まっている。
空気は冷たく澄んでおり、生活感というものが一切排除されていた。
まるで、最初から誰もいなかったかのような無の空間。
「なんだ、これは……」
マティアスは部屋の中央にある事務机に歩み寄った。
何もない広い机の上に、ポツンと置かれた三つの物体が目に留まる。
一枚の書類。
銀色の指輪。
そして、分厚い革表紙のファイル。
彼はまず、書類を手に取った。
一番上に記された文字が、網膜に焼き付く。
――離婚届。
マティアスの口元が歪んだ。
恐怖でも悲しみでもない。
苛立ちだ。
署名欄には、クララ・ゲイルの名が、定規で引いたように几帳面な文字で記されている。
「……馬鹿馬鹿しい」
彼は吐き捨てるように言った。
これは、彼女なりの抗議活動なのだろう。
パーティーで紹介されなかったこと、裏方に徹しろと言われたことへの、幼稚な反発だ。
家出して、離婚届を突きつければ、慌てて迎えに来るとでも思ったのか?
「感情的になるなとあれほど言ったのに。これだから女は扱いにくい」
マティアスは、躊躇なく離婚届を破り捨てた。
ビリビリという乾いた音が、静寂の工房に響く。
破片を屑籠に放り込むと、彼は次に指輪を手に取った。
ひやりとした金属の感触。
彼はそれを、無造作に机の上に放り投げた。
「金が尽きれば戻ってくる。その時、自分で拾わせよう」
謝罪の言葉と共に、この指輪を拾い、指にはめ直すクララの姿が目に浮かぶようだ。
彼は、自分がいかに寛大な夫であるかを彼女に説いてやらねばならない。
社会の厳しさも、一人で生きることの困難さも知らない箱入り娘には、少しばかりのお灸が必要だ。
そして最後に、彼は分厚いファイルに目をやった。
『業務引継書・完全版』
マティアスは、ようやく安堵の笑みを浮かべた。
「なんだ、やるべきことはやっているじゃないか」
彼はパラパラとページをめくった。
中には、びっしりと書き込まれた数式と工程表が並んでいる。
内容は一瞥しただけでは理解できない専門的なものだったが、その分量は圧倒的だった。
これさえあれば、製造は止まらない。
「流石はクララだ。責任感だけはある」
マティアスはファイルを閉じ、満足げに頷いた。
彼女は出て行ったが、商会の心臓部である技術はここに残していったのだ。
これなら、彼女が戻ってくるまでの間、外部の職人を雇ってこのマニュアル通りに作らせればいい。
あるいは、イザベラに少し勉強させてもいいかもしれない。
誰がやっても同じだ。
設計図さえあれば、あとは単純作業なのだから。
マティアスは踵を返し、工房を出ようとした。
その時、ふと背筋に寒気が走った。
振り返る。
しかし、誰もいない。
ただ、整然と並んだ機械たちが、沈黙を守っているだけだ。
何かがおかしい。
いつもなら、この部屋にはもっと熱があった。
研磨機の熱、摩擦熱、そしてクララが発する静かな集中力という熱気。
それが完全に失われている。
この部屋は、まるで死体安置所のように冷え切っていた。
マティアスはジャケットの襟を正し、その違和感を強引に振り払った。
彼は知らない。
この寒さが、物理的な気温のせいではないことを。
そして、机に残されたあの分厚いファイルが、誰にも解読できない呪いの書であることを。
彼は扉を閉め、鍵をかけた。
その音は、ゲイル商会の終わりの始まりを告げる合図だったが、自信に満ちた男爵の耳には届かなかった。
マティアスは軽快な足取りで階段を駆け上がっていく。
足元から崩れ去ろうとしている砂上の楼閣に、彼はまだ気づいていなかった。
床にはガラスの粉ひとつ落ちておらず、作業台は磨き上げられ、工具類は整然と棚に収まっている。
空気は冷たく澄んでおり、生活感というものが一切排除されていた。
まるで、最初から誰もいなかったかのような無の空間。
「なんだ、これは……」
マティアスは部屋の中央にある事務机に歩み寄った。
何もない広い机の上に、ポツンと置かれた三つの物体が目に留まる。
一枚の書類。
銀色の指輪。
そして、分厚い革表紙のファイル。
彼はまず、書類を手に取った。
一番上に記された文字が、網膜に焼き付く。
――離婚届。
マティアスの口元が歪んだ。
恐怖でも悲しみでもない。
苛立ちだ。
署名欄には、クララ・ゲイルの名が、定規で引いたように几帳面な文字で記されている。
「……馬鹿馬鹿しい」
彼は吐き捨てるように言った。
これは、彼女なりの抗議活動なのだろう。
パーティーで紹介されなかったこと、裏方に徹しろと言われたことへの、幼稚な反発だ。
家出して、離婚届を突きつければ、慌てて迎えに来るとでも思ったのか?
「感情的になるなとあれほど言ったのに。これだから女は扱いにくい」
マティアスは、躊躇なく離婚届を破り捨てた。
ビリビリという乾いた音が、静寂の工房に響く。
破片を屑籠に放り込むと、彼は次に指輪を手に取った。
ひやりとした金属の感触。
彼はそれを、無造作に机の上に放り投げた。
「金が尽きれば戻ってくる。その時、自分で拾わせよう」
謝罪の言葉と共に、この指輪を拾い、指にはめ直すクララの姿が目に浮かぶようだ。
彼は、自分がいかに寛大な夫であるかを彼女に説いてやらねばならない。
社会の厳しさも、一人で生きることの困難さも知らない箱入り娘には、少しばかりのお灸が必要だ。
そして最後に、彼は分厚いファイルに目をやった。
『業務引継書・完全版』
マティアスは、ようやく安堵の笑みを浮かべた。
「なんだ、やるべきことはやっているじゃないか」
彼はパラパラとページをめくった。
中には、びっしりと書き込まれた数式と工程表が並んでいる。
内容は一瞥しただけでは理解できない専門的なものだったが、その分量は圧倒的だった。
これさえあれば、製造は止まらない。
「流石はクララだ。責任感だけはある」
マティアスはファイルを閉じ、満足げに頷いた。
彼女は出て行ったが、商会の心臓部である技術はここに残していったのだ。
これなら、彼女が戻ってくるまでの間、外部の職人を雇ってこのマニュアル通りに作らせればいい。
あるいは、イザベラに少し勉強させてもいいかもしれない。
誰がやっても同じだ。
設計図さえあれば、あとは単純作業なのだから。
マティアスは踵を返し、工房を出ようとした。
その時、ふと背筋に寒気が走った。
振り返る。
しかし、誰もいない。
ただ、整然と並んだ機械たちが、沈黙を守っているだけだ。
何かがおかしい。
いつもなら、この部屋にはもっと熱があった。
研磨機の熱、摩擦熱、そしてクララが発する静かな集中力という熱気。
それが完全に失われている。
この部屋は、まるで死体安置所のように冷え切っていた。
マティアスはジャケットの襟を正し、その違和感を強引に振り払った。
彼は知らない。
この寒さが、物理的な気温のせいではないことを。
そして、机に残されたあの分厚いファイルが、誰にも解読できない呪いの書であることを。
彼は扉を閉め、鍵をかけた。
その音は、ゲイル商会の終わりの始まりを告げる合図だったが、自信に満ちた男爵の耳には届かなかった。
マティアスは軽快な足取りで階段を駆け上がっていく。
足元から崩れ去ろうとしている砂上の楼閣に、彼はまだ気づいていなかった。
あなたにおすすめの小説
「通訳など辞書で足りる」と追放された令嬢——三国会談で、婚約者は一言も話せなくなった
歩人
ファンタジー
宮廷通訳官エレノーラは五つの言語を操り、婚約者クラウスの外交を陰で支えてきた。
だがクラウスは言った。「通訳など辞書で足りる。お前は要らない」
追放されたエレノーラは隣国で新たな道を歩み始める。
一方、クラウスは三国会談の場で辞書片手に立ち往生。
誤訳が外交問題に発展し、窮地に陥ったその場に、隣国の通訳官として現れたのは——。
「その言葉は、もう翻訳できません」
結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です
柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。
そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。
真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。
けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。
「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」
彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。
アンリは実は、亡き国王の婚外子。
皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。
「病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?
さんけい
恋愛
婚約者リチャードは、約束のたびに「病弱な従妹エミリーが」と言ってイブリンを後回しにした。最初は思いやりだと信じていた。だが、それが一度や二度ではなく、婚約者としての敬意も誠実さも踏みにじられ続けた末、イブリンはついに婚約の継続を拒む。
ところが、事はただの婚約破棄では終わらなかった。
弱々しく見える従妹エミリーは、どうにも“ただ可哀想なだけの娘”ではない。人によって態度を変え、相手の良心につけ込み、じわじわと人間関係を侵していくその姿に、イブリンの家族は次第に違和感を強めていく。やがてその違和感は、婚約者個人の未熟さだけでなく、相手の家そのものが抱える歪みへとつながっていき――。
家族に守られながら婚約解消へ進むヒロインと、見えているのに見誤り続けた婚約者。
そして“病弱な従妹”の奥に潜んでいたものとは。
婚約破棄から始まる、じわりと不穏で、最後にはきっちり決着する人間ドラマ。
全90回。予約投稿済みです。
6時と17時に更新致します。
幼馴染が最優先な婚約者など、私の人生には不要です。
たると
恋愛
シュタイン伯爵家の長女エルゼは、公爵子息フィリップに恋をしていた。
彼の婚約者として選ばれた時は涙を流して喜んだが、その喜びもいまは遠い。
『君は一人でも大丈夫だろう。この埋め合わせは必ずする。愛している』
「……『愛している』、ですか」
いつも幼馴染を優先するアルベルトに、恋心はすっかり冷めてしまった。
必要とされなくても、私はここにいます
あう
恋愛
辺境公爵カーネル・クリスのもとへ嫁ぐことになったフィレ・バーナード。
けれど彼女は、理想の妻になろうとも、誰かの上に立とうともしなかった。
口出ししない。
判断を奪わない。
必要以上に関わらない。
ただ静かに、そこにいるだけ。
そんな彼女の在り方は、少しずつ屋敷の空気を変えていく。
張りつめていた人々の距離はやわらぎ、日々の営みは穏やかに整いはじめる。
何かを勝ち取る物語ではない。
誰かを打ち負かす物語でもない。
それでも確かに、彼女がいることで守られていくものがある。
これは、
声高に愛を叫ばなくても伝わる想いと、
何も奪わないからこそ育っていく信頼を描く、
静かでやさしい結婚生活の物語。
何もしなかっただけです
希臘楽園
ファンタジー
公爵令嬢であり王太子の婚約者であった私は、「地味だ」という理由で婚約を破棄され、王宮を去った。
それまで私が担っていた役目を、誰も知らないまま。
――ただ何もしなくなっただけで、すべては静かに崩れていく。
AIに書かせてみた第14弾は、「追放ざまぁ」系の短編。
婚約者の王太子が平民と結婚するそうです──どうぞ、ご勝手に【完結保証】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王太子エドモンが平民との“真実の愛“を宣言した日、王国の均衡は崩れた。
エドモンの婚約者である公爵令嬢エヴァは、公衆の面前で婚約破棄され、更には婚約者のいるクラウディオ・レンツ公爵との結婚を命じられる。
──そして舞踏会の夜。
王太子妃になった元平民ナタリーは、王宮の礼儀も政治も知らぬまま混乱を引き起こす。
ナタリーの暴走により、王家はついにエヴァを敵に回した。
王族は焦り、貴族は離反し、反王派は勢力を拡大。
王国は“内乱寸前”へと傾いていく。
そんな中、エヴァの前に跪いたのは王太子の従弟アレクシス・レンツ。
「僕と結婚してほしい。
僕以外が王になれば、この国は沈む」
冷静で聡明な少年は、エヴァを“未来の国母”に据えるためチャンスを求めた。
「3ヶ月以内に、私をその気にさせてご覧なさい」
エヴァは、アレクシスに手を差し伸べた。
それからの2人は──?
⚠️ 本作は AI の生成した文章を一部に使っています。視点が頻繁に変わります。
婚約破棄された悪役令嬢ですが、面倒なので全部放置します
かきんとう
恋愛
王都の大広間に、どよめきが広がった。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、何百もの蝋燭の光を反射し、きらきらと輝いている。その光の中心に立つ私は、妙に他人事のような気分で、その場の空気を眺めていた。
「エレノア・フォン・リーベルト! 私は貴様との婚約をここに破棄する!」
高らかに宣言したのは、第一王子であり私の婚約者でもあったアルベルト殿下だった。
周囲の貴族たちが一斉に息を呑み、次の瞬間には小声のざわめきが連鎖のように広がっていく。
――ああ、ついに来たのね。