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第21話:翻訳できない言葉
その日、ゲイル商会の応接室には、重苦しい沈黙が張り詰めていた。
窓から差し込む午後の日差しは、以前と変わらず明るい。
しかし、マホガニーのテーブルの上に置かれたそれが、部屋の空気を凍りつかせていた。
カチャン、と硬質な音が響く。
取引先である鉄道省の技師長、グラハム卿が、先ほど納品されたばかりのレンズをテーブルに放り出したのだ。
「……ゲイル男爵。これは、冗談かね?」
低く、地を這うような声だった。
マティアスは眉間の皺を指で押し広げ、努めて冷静な経営者の仮面を被り直した。
背中を冷や汗が伝うのを、完璧な仕立てのスーツで隠す。
「冗談とは手厳しいですね、卿。それは我が商会が誇る星屑のレンズの最新ロットです。多少、製造ラインの入れ替えがありまして、仕様変更を行いましたが――」
「仕様変更?」
グラハム卿は鼻で笑った。
彼は片眼鏡の位置を直し、テーブルの上のレンズを指差した。
そこにあるのは、かつてクララが磨いた氷のように澄んだ結晶ではない。
イザベラと、急遽雇い入れた三流の職人たちが、クララのマニュアルを解読できずに見よう見まねで作った、濁ったガラス塊だった。
「これを変更と呼ぶなら、君の目は節穴だ。透明度は三割減、球面収差に至っては許容範囲を大きく超えている」
マティアスは言葉に詰まった。
反論したくても、彼にはそのための語彙がなかった。
彼は経営と数字のプロであって、光の屈折や研磨の物理学については、素人に毛が生えた程度の知識しか持っていない。
これまでは、その不足分をすべてクララが埋めていたのだ。
マティアスは視線を横に流した。
そこには、いつものように華やかに着飾ったイザベラが座っている。
今日の彼女は、鮮やかなエメラルドグリーンのドレスに身を包み、この場の空気を読まずにニコニコと微笑んでいた。
(頼むぞ、イザベラ)
マティアスは目線で合図を送った。
以前、バーナム子爵との商談で見せたあの魔法を。
窮地を救う、愛嬌とハッタリに満ちたあの翻訳を。
彼女なら、この気難しい技師長も手玉に取れるはずだ。
そう計算していた。
イザベラはマティアスの視線に気づき、自信満々に頷いた。
彼女は自分が勝利の女神であると信じて疑っていなかった。
「まぁ、グラハム様ったら! そんな怖い顔をなさらないでくださいな」
イザベラは鈴を転がすような声で割り込んだ。
彼女は立ち上がり、グラハム卿の腕にそっと手を添えようとする――が、卿は露骨に身を引いてそれを避けた。
イザベラの笑顔が、一瞬だけ引きつる。
「……何の真似だ?」
「い、いえ……、その、このレンズについてご説明しようと思いまして! 実はですね、この少し白く見える部分は、職人たちが込めた情熱の証なんですの!」
イザベラは身振り手振りを交えて語り始めた。いつもの常套句だ。
「あまりにも強い愛と祈りを込めて磨いたので、ガラスがその熱に反応して、少し照れて頬を染めた……、みたいな? ふふっ、ロマンチックでしょう?」
彼女は小首を傾げ、完璧な角度でウィンクしてみせた。
貴族のサロンなら、これで拍手喝采だったかもしれない。
しかし、相手は実務家であり、論理の信奉者だった。
グラハム卿の表情から、完全に感情が消えた。
窓から差し込む午後の日差しは、以前と変わらず明るい。
しかし、マホガニーのテーブルの上に置かれたそれが、部屋の空気を凍りつかせていた。
カチャン、と硬質な音が響く。
取引先である鉄道省の技師長、グラハム卿が、先ほど納品されたばかりのレンズをテーブルに放り出したのだ。
「……ゲイル男爵。これは、冗談かね?」
低く、地を這うような声だった。
マティアスは眉間の皺を指で押し広げ、努めて冷静な経営者の仮面を被り直した。
背中を冷や汗が伝うのを、完璧な仕立てのスーツで隠す。
「冗談とは手厳しいですね、卿。それは我が商会が誇る星屑のレンズの最新ロットです。多少、製造ラインの入れ替えがありまして、仕様変更を行いましたが――」
「仕様変更?」
グラハム卿は鼻で笑った。
彼は片眼鏡の位置を直し、テーブルの上のレンズを指差した。
そこにあるのは、かつてクララが磨いた氷のように澄んだ結晶ではない。
イザベラと、急遽雇い入れた三流の職人たちが、クララのマニュアルを解読できずに見よう見まねで作った、濁ったガラス塊だった。
「これを変更と呼ぶなら、君の目は節穴だ。透明度は三割減、球面収差に至っては許容範囲を大きく超えている」
マティアスは言葉に詰まった。
反論したくても、彼にはそのための語彙がなかった。
彼は経営と数字のプロであって、光の屈折や研磨の物理学については、素人に毛が生えた程度の知識しか持っていない。
これまでは、その不足分をすべてクララが埋めていたのだ。
マティアスは視線を横に流した。
そこには、いつものように華やかに着飾ったイザベラが座っている。
今日の彼女は、鮮やかなエメラルドグリーンのドレスに身を包み、この場の空気を読まずにニコニコと微笑んでいた。
(頼むぞ、イザベラ)
マティアスは目線で合図を送った。
以前、バーナム子爵との商談で見せたあの魔法を。
窮地を救う、愛嬌とハッタリに満ちたあの翻訳を。
彼女なら、この気難しい技師長も手玉に取れるはずだ。
そう計算していた。
イザベラはマティアスの視線に気づき、自信満々に頷いた。
彼女は自分が勝利の女神であると信じて疑っていなかった。
「まぁ、グラハム様ったら! そんな怖い顔をなさらないでくださいな」
イザベラは鈴を転がすような声で割り込んだ。
彼女は立ち上がり、グラハム卿の腕にそっと手を添えようとする――が、卿は露骨に身を引いてそれを避けた。
イザベラの笑顔が、一瞬だけ引きつる。
「……何の真似だ?」
「い、いえ……、その、このレンズについてご説明しようと思いまして! 実はですね、この少し白く見える部分は、職人たちが込めた情熱の証なんですの!」
イザベラは身振り手振りを交えて語り始めた。いつもの常套句だ。
「あまりにも強い愛と祈りを込めて磨いたので、ガラスがその熱に反応して、少し照れて頬を染めた……、みたいな? ふふっ、ロマンチックでしょう?」
彼女は小首を傾げ、完璧な角度でウィンクしてみせた。
貴族のサロンなら、これで拍手喝采だったかもしれない。
しかし、相手は実務家であり、論理の信奉者だった。
グラハム卿の表情から、完全に感情が消えた。
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