「君は地味な裏方だ」と愛人を優遇するサイコパス気質の夫。〜私が去った後、商会の技術が全て私の手によるものだと気づいても、もう手遅れです〜

水上

文字の大きさ
34 / 36

第34話:彼が入ることの許されない世界

「けれど、あなたは言いましたね。『感情は邪魔だ』と。その言葉が、私の心にあったあなたへの期待という最後の灯火を吹き消したのです」

「だ、だから! 今、こうして伝えているじゃないか! 火が消えたなら、もう一度つければいい! 私たちはやり直せる!」

 マティアスは必死に食い下がった。
 しかし、クララは悲しげに微笑み、首を横に振った。

「いいえ。一度炭になった木は、二度と芽吹くことはありません」

 彼女の言葉は詩的でありながら、物理的な事実のように絶対的だった。

「今のあなたの叫びを聞いても、私の心は何も感じません。嬉しくもなければ、辛くもない。ただ『ああ、空気が振動しているなと、音という物理現象として鼓膜に届くだけなのです」

 ――ただの音。

 マティアスは息を呑んだ。
 愛の告白が、雑音と同じだと断じられたのだ。

 それは、「嫌い」と言われるよりも遥かに深い絶望だった。
 憎しみは愛の裏返しだが、無関心は関係の死を意味するからだ。

「ああ……」

 マティアスの喉から、ひゅー、ひゅーという掠れた音が漏れた。
 彼は理解した。

 目の前にいる女性は、もう自分の妻ではない。
 外見は同じでも、中身は完全に別の生き物になってしまった。

 彼自身の冷酷さが、彼女をそう作り変えてしまったのだ。

「あの刻印を彫った私は、もういません。彼女を殺したのは、他ならぬあなたです」

 クララはそう言い残し、去っていった。
 彼女の視線の先には、工房の奥で待つ新しい仲間たちと、まだ見ぬ未来の輝きがあった。

 彼女の背中は、マティアスを拒絶するために向けているのではない。
 ただ、自分の道を進むために、彼を過去に置いていくのだ。

「さようなら。どうか、お元気で」

 それが最後の言葉だった。
 彼女は一度も振り返らず、光の中へと歩き出した。

 その歩調は軽やかで、迷いがない。

 マティアスは手を伸ばした。
 しかし、その手は空を掴むだけだった。

 平行線。
 二人の人生は、もう二度と交わることはない。

 彼女は光の射す明日へ。
 彼は影の落ちる昨日へ。

 どれほど叫んでも、どれほど手を伸ばしても、異なる次元にある線は決して接触しないのだ。

 取り残されたマティアスは、崩れ落ちるように床に突っ伏した。
 広い工房に、彼の嗚咽だけが虚しく反響していた。

 かつて彼が「うるさい」と切り捨てた作業音こそが、彼の人生を支える音楽だったと気づいた時には、演奏者はもう舞台を降りていた。

 扉の向こうから、職人たちの笑い声が聞こえる。

 そこは、もう彼が入ることの許されない、温かくて眩しい世界だった。

あなたにおすすめの小説

「通訳など辞書で足りる」と追放された令嬢——三国会談で、婚約者は一言も話せなくなった

歩人
ファンタジー
宮廷通訳官エレノーラは五つの言語を操り、婚約者クラウスの外交を陰で支えてきた。 だがクラウスは言った。「通訳など辞書で足りる。お前は要らない」 追放されたエレノーラは隣国で新たな道を歩み始める。 一方、クラウスは三国会談の場で辞書片手に立ち往生。 誤訳が外交問題に発展し、窮地に陥ったその場に、隣国の通訳官として現れたのは——。 「その言葉は、もう翻訳できません」

結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です

柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。 そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。 真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。 けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。 「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」 彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。 アンリは実は、亡き国王の婚外子。 皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。

「病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?

さんけい
恋愛
婚約者リチャードは、約束のたびに「病弱な従妹エミリーが」と言ってイブリンを後回しにした。最初は思いやりだと信じていた。だが、それが一度や二度ではなく、婚約者としての敬意も誠実さも踏みにじられ続けた末、イブリンはついに婚約の継続を拒む。 ところが、事はただの婚約破棄では終わらなかった。 弱々しく見える従妹エミリーは、どうにも“ただ可哀想なだけの娘”ではない。人によって態度を変え、相手の良心につけ込み、じわじわと人間関係を侵していくその姿に、イブリンの家族は次第に違和感を強めていく。やがてその違和感は、婚約者個人の未熟さだけでなく、相手の家そのものが抱える歪みへとつながっていき――。 家族に守られながら婚約解消へ進むヒロインと、見えているのに見誤り続けた婚約者。 そして“病弱な従妹”の奥に潜んでいたものとは。 婚約破棄から始まる、じわりと不穏で、最後にはきっちり決着する人間ドラマ。 全90回。予約投稿済みです。 6時と17時に更新致します。

幼馴染が最優先な婚約者など、私の人生には不要です。

たると
恋愛
シュタイン伯爵家の長女エルゼは、公爵子息フィリップに恋をしていた。 彼の婚約者として選ばれた時は涙を流して喜んだが、その喜びもいまは遠い。 『君は一人でも大丈夫だろう。この埋め合わせは必ずする。愛している』 「……『愛している』、ですか」 いつも幼馴染を優先するアルベルトに、恋心はすっかり冷めてしまった。

必要とされなくても、私はここにいます

あう
恋愛
辺境公爵カーネル・クリスのもとへ嫁ぐことになったフィレ・バーナード。 けれど彼女は、理想の妻になろうとも、誰かの上に立とうともしなかった。 口出ししない。 判断を奪わない。 必要以上に関わらない。 ただ静かに、そこにいるだけ。 そんな彼女の在り方は、少しずつ屋敷の空気を変えていく。 張りつめていた人々の距離はやわらぎ、日々の営みは穏やかに整いはじめる。 何かを勝ち取る物語ではない。 誰かを打ち負かす物語でもない。 それでも確かに、彼女がいることで守られていくものがある。 これは、 声高に愛を叫ばなくても伝わる想いと、 何も奪わないからこそ育っていく信頼を描く、 静かでやさしい結婚生活の物語。

何もしなかっただけです

希臘楽園
ファンタジー
公爵令嬢であり王太子の婚約者であった私は、「地味だ」という理由で婚約を破棄され、王宮を去った。 それまで私が担っていた役目を、誰も知らないまま。 ――ただ何もしなくなっただけで、すべては静かに崩れていく。 AIに書かせてみた第14弾は、「追放ざまぁ」系の短編。

婚約者の王太子が平民と結婚するそうです──どうぞ、ご勝手に【完結保証】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王太子エドモンが平民との“真実の愛“を宣言した日、王国の均衡は崩れた。 エドモンの婚約者である公爵令嬢エヴァは、公衆の面前で婚約破棄され、更には婚約者のいるクラウディオ・レンツ公爵との結婚を命じられる。 ──そして舞踏会の夜。 王太子妃になった元平民ナタリーは、王宮の礼儀も政治も知らぬまま混乱を引き起こす。 ナタリーの暴走により、王家はついにエヴァを敵に回した。 王族は焦り、貴族は離反し、反王派は勢力を拡大。 王国は“内乱寸前”へと傾いていく。 そんな中、エヴァの前に跪いたのは王太子の従弟アレクシス・レンツ。 「僕と結婚してほしい。  僕以外が王になれば、この国は沈む」 冷静で聡明な少年は、エヴァを“未来の国母”に据えるためチャンスを求めた。 「3ヶ月以内に、私をその気にさせてご覧なさい」 エヴァは、アレクシスに手を差し伸べた。 それからの2人は──? ⚠️ 本作は AI の生成した文章を一部に使っています。視点が頻繁に変わります。

婚約破棄された悪役令嬢ですが、面倒なので全部放置します

かきんとう
恋愛
 王都の大広間に、どよめきが広がった。  天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、何百もの蝋燭の光を反射し、きらきらと輝いている。その光の中心に立つ私は、妙に他人事のような気分で、その場の空気を眺めていた。 「エレノア・フォン・リーベルト! 私は貴様との婚約をここに破棄する!」  高らかに宣言したのは、第一王子であり私の婚約者でもあったアルベルト殿下だった。  周囲の貴族たちが一斉に息を呑み、次の瞬間には小声のざわめきが連鎖のように広がっていく。  ――ああ、ついに来たのね。