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第3話:妻の手柄の透明化と、狼狽え始める夫
ウィンズレット商会の応接室には、重厚な沈黙と、上質な茶葉の香りが漂っていた。
部屋の空気を支配しているのは、商会の最大の上客であり、王国随一の味覚を持つ大貴族、アルベール・ルグラン侯爵だ。
ロマンスグレイの髪を撫で付けた落ち着いた佇まいの彼は、手元の分厚い書類に鋭い視線を落としていた。
エルナ・ウィンズレットは、応接室の隅で静かに控えていた。
ルグラン侯爵の手にあるのは、エルナが数ヶ月にわたる実験と検証を繰り返し、昨晩ついに徹夜で書き上げた新商品の成分配合と抽出工程に関する詳細資料である。
エルダーフラワーの微細な香りを逃さず、かつ保存性を高めるためのペクチンとクエン酸の完璧な比率。
それを導き出すために、彼女は何度失敗作を廃棄し、何度指先を火傷したか知れない。
「素晴らしい……」
侯爵が低く重厚な声で呟いた。
「この浸透圧の計算、そして薬効を損なわないための温度管理の緻密さ。ただ甘いだけのシロップが横行する昨今において、これは見事としか言いようがない」
その称賛の言葉を聞いて、真っ先に胸を張ったのは、エルナではなく夫のフィリップだった。
「お褒めにあずかり光栄です、閣下」
フィリップは、最高級のシルクで仕立てられた上着を翻し、社交界で磨き上げた完璧な笑顔を浮かべた。
「商会の代表として、消費者の健康を守ることは僕の使命ですから。この配合に辿り着くまでに、僕も幾夜も徹夜をして考え抜いたんですよ」
エルナは、背筋を伸ばしたまま、微かに目を伏せた。
彼が徹夜で考え抜いた?
彼が工房に顔を出すのは、自分が二日酔いや疲労で甘い水を欲した時だけだ。
抽出の温度はおろか、使われているハーブの名前すら正確には言えないはずである。
それでも、フィリップは一切の悪びれる様子もなく、エルナの血を吐くような努力の結晶を自分の手柄として堂々と語っていた。
「ほう。男爵自身が?」
侯爵が片眉を上げると、フィリップは機嫌良く頷き、チラリとエルナの方を見た。
「ええ。もちろん、妻も少し手伝ってくれましてね。彼女は家にいることが多いので、まあ、暇つぶしの趣味のようなものですが。僕の指示通りに、よく動いてくれますよ」
妻の趣味。
暇つぶし。
その言葉が、エルナの胸を抉った。
何時間も火の番をして、焦げ付かないように鍋をかき混ぜ続けた時間が。
指先が茶色く染まり、香りが染み付くまで植物と向き合った日々が。
彼にとっては家にいる女の暇つぶしであり、他者の前で矮小化して語る程度のものなのだ。
徒労感が、重い泥のようにエルナの胃の底に溜まっていく。
これが初めてではない。
フィリップは常にこうして、エルナの実績を吸い上げては、外で有能な若き実業家の仮面を被ってきたのだ。
しかし、ルグラン侯爵の灰色の瞳は、フィリップの軽薄な笑顔を通り越し、静かに控えるエルナへと向けられていた。
「……男爵」
侯爵は、手元の資料をテーブルに置いた。
「あなたがこの見事なペクチンのコントロールを考案したと言いましたね。では、この六ページ目にある『第三段階の抽出』において、温度を正確に何度に保つべきか、そしてその理由を答えていただきましょうか」
応接室の空気が、ふっと張り詰めた。
「え?」
フィリップの笑顔が引きつった。
彼は瞬きを繰り返し、しどろもどろになりながら口を開いた。
「あ、ええと……、それはですね、熱すぎず、冷たすぎず……、適度な温度で煮詰めることが重要でして……」
「適度とは、具体的に何度ですか。ペクチンの凝固点とクエン酸の作用が交差する、あの極めて狭い温度帯の数値を、徹夜で考え抜いたあなたが忘れるはずがありませんね?」
侯爵の声音は静かだったが、そこには氷のような冷ややかな響きがあった。
部屋の空気を支配しているのは、商会の最大の上客であり、王国随一の味覚を持つ大貴族、アルベール・ルグラン侯爵だ。
ロマンスグレイの髪を撫で付けた落ち着いた佇まいの彼は、手元の分厚い書類に鋭い視線を落としていた。
エルナ・ウィンズレットは、応接室の隅で静かに控えていた。
ルグラン侯爵の手にあるのは、エルナが数ヶ月にわたる実験と検証を繰り返し、昨晩ついに徹夜で書き上げた新商品の成分配合と抽出工程に関する詳細資料である。
エルダーフラワーの微細な香りを逃さず、かつ保存性を高めるためのペクチンとクエン酸の完璧な比率。
それを導き出すために、彼女は何度失敗作を廃棄し、何度指先を火傷したか知れない。
「素晴らしい……」
侯爵が低く重厚な声で呟いた。
「この浸透圧の計算、そして薬効を損なわないための温度管理の緻密さ。ただ甘いだけのシロップが横行する昨今において、これは見事としか言いようがない」
その称賛の言葉を聞いて、真っ先に胸を張ったのは、エルナではなく夫のフィリップだった。
「お褒めにあずかり光栄です、閣下」
フィリップは、最高級のシルクで仕立てられた上着を翻し、社交界で磨き上げた完璧な笑顔を浮かべた。
「商会の代表として、消費者の健康を守ることは僕の使命ですから。この配合に辿り着くまでに、僕も幾夜も徹夜をして考え抜いたんですよ」
エルナは、背筋を伸ばしたまま、微かに目を伏せた。
彼が徹夜で考え抜いた?
彼が工房に顔を出すのは、自分が二日酔いや疲労で甘い水を欲した時だけだ。
抽出の温度はおろか、使われているハーブの名前すら正確には言えないはずである。
それでも、フィリップは一切の悪びれる様子もなく、エルナの血を吐くような努力の結晶を自分の手柄として堂々と語っていた。
「ほう。男爵自身が?」
侯爵が片眉を上げると、フィリップは機嫌良く頷き、チラリとエルナの方を見た。
「ええ。もちろん、妻も少し手伝ってくれましてね。彼女は家にいることが多いので、まあ、暇つぶしの趣味のようなものですが。僕の指示通りに、よく動いてくれますよ」
妻の趣味。
暇つぶし。
その言葉が、エルナの胸を抉った。
何時間も火の番をして、焦げ付かないように鍋をかき混ぜ続けた時間が。
指先が茶色く染まり、香りが染み付くまで植物と向き合った日々が。
彼にとっては家にいる女の暇つぶしであり、他者の前で矮小化して語る程度のものなのだ。
徒労感が、重い泥のようにエルナの胃の底に溜まっていく。
これが初めてではない。
フィリップは常にこうして、エルナの実績を吸い上げては、外で有能な若き実業家の仮面を被ってきたのだ。
しかし、ルグラン侯爵の灰色の瞳は、フィリップの軽薄な笑顔を通り越し、静かに控えるエルナへと向けられていた。
「……男爵」
侯爵は、手元の資料をテーブルに置いた。
「あなたがこの見事なペクチンのコントロールを考案したと言いましたね。では、この六ページ目にある『第三段階の抽出』において、温度を正確に何度に保つべきか、そしてその理由を答えていただきましょうか」
応接室の空気が、ふっと張り詰めた。
「え?」
フィリップの笑顔が引きつった。
彼は瞬きを繰り返し、しどろもどろになりながら口を開いた。
「あ、ええと……、それはですね、熱すぎず、冷たすぎず……、適度な温度で煮詰めることが重要でして……」
「適度とは、具体的に何度ですか。ペクチンの凝固点とクエン酸の作用が交差する、あの極めて狭い温度帯の数値を、徹夜で考え抜いたあなたが忘れるはずがありませんね?」
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