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第7話:忘れられた記念日の約束
その日は、エルナとフィリップが夫婦としての誓いを交わした、年に一度の記念日だった。
エルナは朝から工房の仕事を前倒しで片付け、厨房の使用人たちと共に、フィリップの好物である仔牛の香草焼きと、胃に優しい特製のハーブスープを仕込んでいた。
過労で倒れたあの日から、フィリップへの期待は完全に冷え切っていた。
それでも、彼女が几帳面に記念日の準備をしたのは、単なる妻としての義務感と、ルグラン侯爵との商談に向けた事業計画の相談をしたかったからだ。
商会の共同経営者として、最低限の意思疎通は図らなければならない。
しかし、約束の時刻である午後七時を過ぎても、フィリップは帰ってこなかった。
八時になり、九時になり、テーブルに並べられた料理はすっかり冷え切ってしまった。
エルナは暖炉の前の椅子に座り、膝の上で商会の帳簿をめくりながら、時計の針の音を聞いていた。
怒りよりも、「ああ、やはりそうか」という乾いた諦めが胸を満たしていた。
夜の十時を回った頃、ようやく玄関の扉が開く音がした。
「ただいま! 遅くなってごめんよ、エルナ!」
ばたばたと足音を立ててダイニングに現れたフィリップは、悪びれる様子もなく、むしろ、良いことをしてきたという晴れやかな顔をしていた。
その顔を見た瞬間、エルナは帳簿を閉じた。
「お帰りなさいませ。随分と遅かったですね。商会で何かトラブルでも?」
「いやいや、仕事じゃないんだ」
フィリップは上着を脱ぎながら、事も無げに言った。
「実は、親友がちょっと困っていてね。新しく立ち上げた事業のことで悩んでいたから、相談に乗ってあげていたんだ。彼女、すごく心細そうにしていてさ。僕がついていてあげないとダメだなって」
エルナは、瞬きを一つした。
妻との記念日のディナーをすっぽかした理由が、仕事のトラブルでも急病でもなく、困っている別の女性の愚痴に付き合っていたからだと言うのだ。
「……今日が何の日か、お忘れですか?」
エルナが静かに問うと、フィリップは今思い出したという顔をして頭を掻いた。
「も、もちろん覚えてるよ! 記念日だろう? でもさ、エルナなら分かってくれると思って。君は大人だし、いつも僕の仕事を理解してくれているじゃないか。彼女はまだ若くて、誰かが助けてあげないと本当に危なっかしいんだよ。君なら許してくれるよね?」
君なら分かってくれる。
君なら許してくれる。
その言葉は、エルナの心を縛り付けるための、最も卑怯な呪文だった。
理解のある妻というレッテルを貼り、エルナが反論したり怒ったりすることを心の狭い嫉妬として封じ込める。
フィリップは無自覚に、この甘えという名の搾取を繰り返してきた。
「それに、ほら! ちゃんと埋め合わせのプレゼントも買ってきたんだ」
フィリップは得意げに、背中に隠していた美しい包装の小箱を差し出した。
エルナは無表情のままそれを受け取り、リボンを解いた。
中から出てきたのは、王都で流行しているという、強烈な甘ったるい香りを放つ外国製の高級香水だった。
「……」
エルナは、言葉を失った。
彼女は、ハーブやスパイスの繊細な香りを扱う職人だ。
工房には常に自然の香りが満ちており、彼女自身も微かな柑橘の香りを纏っている。
そんな彼女が、人工的で強烈な香水を身につけられるはずがない。
香りを扱う作業の致命的な妨げになることは、少しでも彼女の仕事に関心があれば分かることだ。
それ以前に、エルナは過去に一度、この手の強い香料でひどい頭痛を起こしたことがある。
その時、フィリップも隣にいたはずなのだ。
「どう? すごくいい香りだろう? 流行りの香りだから、君も少しは華やかになると思ってさ!」
エルナの反応を待っているフィリップは、無邪気に笑っていた。
エルナは朝から工房の仕事を前倒しで片付け、厨房の使用人たちと共に、フィリップの好物である仔牛の香草焼きと、胃に優しい特製のハーブスープを仕込んでいた。
過労で倒れたあの日から、フィリップへの期待は完全に冷え切っていた。
それでも、彼女が几帳面に記念日の準備をしたのは、単なる妻としての義務感と、ルグラン侯爵との商談に向けた事業計画の相談をしたかったからだ。
商会の共同経営者として、最低限の意思疎通は図らなければならない。
しかし、約束の時刻である午後七時を過ぎても、フィリップは帰ってこなかった。
八時になり、九時になり、テーブルに並べられた料理はすっかり冷え切ってしまった。
エルナは暖炉の前の椅子に座り、膝の上で商会の帳簿をめくりながら、時計の針の音を聞いていた。
怒りよりも、「ああ、やはりそうか」という乾いた諦めが胸を満たしていた。
夜の十時を回った頃、ようやく玄関の扉が開く音がした。
「ただいま! 遅くなってごめんよ、エルナ!」
ばたばたと足音を立ててダイニングに現れたフィリップは、悪びれる様子もなく、むしろ、良いことをしてきたという晴れやかな顔をしていた。
その顔を見た瞬間、エルナは帳簿を閉じた。
「お帰りなさいませ。随分と遅かったですね。商会で何かトラブルでも?」
「いやいや、仕事じゃないんだ」
フィリップは上着を脱ぎながら、事も無げに言った。
「実は、親友がちょっと困っていてね。新しく立ち上げた事業のことで悩んでいたから、相談に乗ってあげていたんだ。彼女、すごく心細そうにしていてさ。僕がついていてあげないとダメだなって」
エルナは、瞬きを一つした。
妻との記念日のディナーをすっぽかした理由が、仕事のトラブルでも急病でもなく、困っている別の女性の愚痴に付き合っていたからだと言うのだ。
「……今日が何の日か、お忘れですか?」
エルナが静かに問うと、フィリップは今思い出したという顔をして頭を掻いた。
「も、もちろん覚えてるよ! 記念日だろう? でもさ、エルナなら分かってくれると思って。君は大人だし、いつも僕の仕事を理解してくれているじゃないか。彼女はまだ若くて、誰かが助けてあげないと本当に危なっかしいんだよ。君なら許してくれるよね?」
君なら分かってくれる。
君なら許してくれる。
その言葉は、エルナの心を縛り付けるための、最も卑怯な呪文だった。
理解のある妻というレッテルを貼り、エルナが反論したり怒ったりすることを心の狭い嫉妬として封じ込める。
フィリップは無自覚に、この甘えという名の搾取を繰り返してきた。
「それに、ほら! ちゃんと埋め合わせのプレゼントも買ってきたんだ」
フィリップは得意げに、背中に隠していた美しい包装の小箱を差し出した。
エルナは無表情のままそれを受け取り、リボンを解いた。
中から出てきたのは、王都で流行しているという、強烈な甘ったるい香りを放つ外国製の高級香水だった。
「……」
エルナは、言葉を失った。
彼女は、ハーブやスパイスの繊細な香りを扱う職人だ。
工房には常に自然の香りが満ちており、彼女自身も微かな柑橘の香りを纏っている。
そんな彼女が、人工的で強烈な香水を身につけられるはずがない。
香りを扱う作業の致命的な妨げになることは、少しでも彼女の仕事に関心があれば分かることだ。
それ以前に、エルナは過去に一度、この手の強い香料でひどい頭痛を起こしたことがある。
その時、フィリップも隣にいたはずなのだ。
「どう? すごくいい香りだろう? 流行りの香りだから、君も少しは華やかになると思ってさ!」
エルナの反応を待っているフィリップは、無邪気に笑っていた。
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