「言ってくれれば手伝ったのに」過労で倒れた私に微笑む無神経な夫。~親友を優先させ続けた夫の末路~

水上

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第13話:無自覚な侵食

 ウィンズレット商会の工房の奥、地下室へと続く重い木の扉の前に、エルナは一人立ち尽くしていた。

 普段なら冷んやりとした空気が漂うはずのその場所から、今日は異様な甘ったるい匂いが漏れ出している。

 胸騒ぎを覚えながら扉を開けると、そこには、エルナが最も恐れていた光景が広がっていた。

「あははっ! 旦那様、これくらいドバドバ入れちゃった方が、絶対美味しいですぅ!」

 地下室の中央で、マリベルが甲高い声を上げて笑っていた。

 彼女の足元には、エルナが数ヶ月かけて熟成させ、今日の夕方に出荷するはずだった最高級ヴィンテージ・ハーブシロップの大きな木樽があった。

 本来なら、厳重な温度管理のもとで封をされ、限られた顧客にのみ届けられるはずのその樽の蓋が、無惨にも開け放たれている。

 そして、マリベルの真っ白な手には、安価で粗悪なコーンシロップと、目に痛いほどのピンク色をした合成着色料の袋が握られていた。

「ほらほら、可愛い色になぁれ~!」

 マリベルは、エルナがミリ単位で計算し尽くしたペクチンとクエン酸の完璧なバランス、そしてハーブの繊細な薬効が溶け込んだ琥珀色の液体の中に、その粗悪な粉末とシロップを、何の躊躇いもなく大量にぶちまけた。

「……っ!」

 エルナは声にならない悲鳴を上げ、その場に縫い止められたように動けなくなった。

「おお、いいね! 一気に華やかになったじゃないか!」

 傍らで腕を組んでいたフィリップが、満足げに頷いている。

「エルナのシロップは、どうしても色がくすんでいて地味だったからね。これなら、若者にもウケる新商品として、明日の品評会に出せるぞ。マリベル、君のアイデアは最高だ!」

「えへへ、旦那様に褒められちゃいましたぁ!」

 エルナの頭の中が、真っ白になった。

 あの樽は、ルグラン侯爵をはじめとする、本物を知る大顧客たちへ納品するために、何十時間も火の番をして煮詰め、何ヶ月も寝かせて角を取った、彼女の血と汗の結晶だ。

 それを、素人が色が地味だからというただそれだけの理由で、一切の相談もなく、一瞬にして台無しにしたのだ。

「……何をしているんですか」

 エルナの低く震える声が、地下室に響いた。
 フィリップとマリベルが、驚いて振り向く。

「なんだ、エルナ。いたのか」

 フィリップは悪びれる様子もなく、むしろ、良いことをしてやったという顔で笑った。

「ちょうど良かった。君の地味なジュースを、マリベルが手直ししてくれたんだよ。見てごらん、こんなに可愛らしい色になった。君の古臭いやり方じゃ、これからの市場は生き残れないからね」

「奥様ぁ、勝手にいじってごめんなさぁい。でもぉ、こっちの方が絶対に美味しいですからぁ!」

 マリベルは、全く申し訳なさそうでない顔で舌を出した。

 エルナは、ゆっくりと樽に近づいた。
 覗き込んだその液体は、もはや美しい琥珀色ではなく、毒々しいピンク色に濁っていた。

 繊細なハーブの香りは、強烈な人工香料の匂いに完全に掻き消されている。
 浸透圧のバランスは崩壊し、薬効は失われ、ただの甘ったるいだけの毒水に成り果てていた。

 これは、単なる商品の損失ではない。

 エルナが職人として培ってきた誇り、そして、この過酷な日々の中で唯一心の拠り所としてきた聖域への、徹底的な破壊行為だった。

 現場で泥水をすすって品質を守っている人間にとって、こういう悪意のない無能な存在ほど、憎むべきものはない。

「……これは、ルグラン侯爵様に納品する予定の品でした」

 エルナは、感情を限界まで押し殺し、絞り出すように言った。

「侯爵様は、ハーブの薬効と自然な甘みを求めておられます。このような粗悪な混ぜ物をしたものを出せば、商会の信用は完全に失墜します。すぐに廃棄しなければ……」

「廃棄だと!?」

 フィリップが、あからさまに不機嫌な声を上げた。

「何を馬鹿なことを言っているんだ! マリベルがせっかく可愛くしてくれたのに、そんな安いジュースのことで目くじらを立てるなよ! 君は少し感情的になりすぎじゃないかな」

 フィリップは、エルナが安いジュースのためにヒステリーを起こしていると本気で思っていた。

 彼にとっては、炭酸水で割って飲む数十秒の液体に過ぎない。
 その背後にある膨大なプロセスを完全に軽視しているからこそ、平気で他人の努力を踏みにじれるのだ。

「それに、ルグラン侯爵だって、この新しい味を食べればきっと気に入るさ! 僕が上手く説明しておくから、君は黙っていればいいんだ」

「そうですぅ! 奥様は、私の新しいアイデアに嫉妬しているだけですぅ!」

 マリベルが、フィリップの腕にすがりつきながら泣き真似をした。

「そんな安いジュースのことで怒るなよ。マリベルが可哀想だろう?」

 フィリップは、完全にマリベルを庇うように立ち塞がった。

 その瞬間。
 エルナの中で、何かが音を立てて壊れた。

 それは、怒りを超えた絶望だった。

(この男は、私の大切なものを「安い」と言い捨て、私の領分を素人に荒らさせ、それを咎めた私を加害者に仕立て上げた……)

 もはや、対話の余地など一ミリも存在しない。

「……承知いたしました」

 エルナは、氷のように冷え切った目で、フィリップを真っ直ぐに見つめた。

「その樽は、どうぞお好きになさってください。明日の品評会にも、お出しになればよろしいかと存じます」

「最初からそう言えばいいんだよ」

 フィリップは満足げに頷き、マリベルの肩を抱いて地下室を出て行った。
 二人の笑い声が遠ざかっていくのを聞きながら、エルナは棚の奥へと歩みを進めた。

 そこには、フィリップのための特製シロップの瓶が並んでいる。

 残りは、九本。

「……あと九回」

 エルナは、暗がりの中で瓶の冷たさに触れ、微笑んだ。

 彼らが、あの毒水をルグラン侯爵の前に出せばどうなるか。
 本物を知る大顧客が、素人の戯言をどう評価するか。

 そして、エルナが手放した商会が、どれほどの速度で没落していくか。

 エルナは、懷に忍ばせていたルグラン侯爵宛ての独立支援に関する契約書の感触を確かめた。

 あとは、愚かな男が、己の無知の代償を支払うのを、見届けるだけだ。

 エルナの透明な妻としての時間は、終わりを告げようとしていた。

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