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第30話:招かれざる客
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ヴォルガード辺境伯領の発展は、指数関数的なグラフを描いていた。
衛生状態の改善、新産業の創出、そして経済の活性化。
領主館の執務室では、エレノアが次々と持ち込まれる決裁書類にサインをし、的確な指示を飛ばしていた。
「――羊毛の洗浄工程における排水処理は、Aプランを採用。沈殿槽のpH管理を徹底させてください。次は?」
「はっ! 南の商会から、石鹸の追加発注が来ております! 前回の三倍の量を希望とのこと!」
「生産ラインの稼働率を確認し、無理のない範囲で受注してください。品質の低下はブランド価値の毀損に直結します」
多忙だが、充実していた。
自分の知識が必要とされ、それが目に見える成果として現れる。
ここには、不毛なお茶会も、足の引っ張り合いもない。
あるのは、より良い領地を作るという共通の目的だけだ。
そんな生産的な時間を、不快なノイズが遮った。
「失礼します! お、お客様が……!」
青ざめた顔で飛び込んできた執事の背後から、その男は現れた。
王宮の護衛騎士に伴われ、部屋に入ってきたのは――かつての婚約者、王太子ウィリアムだった。
「……エレノア」
その姿を見て、エレノアは眉をひそめた。
かつて煌びやかだった金髪は艶を失い、目の下には濃い隈ができている。
自信に満ち溢れていたオーラは消え失せ、まるで雨に打たれた野良犬のような惨めさが漂っていた。
「……王太子殿下。アポイントメントなしでの訪問は、ビジネスマナーとして推奨されませんが」
エレノアは立ち上がることなく、事務的に告げた。
ウィリアムは顔を歪め、一歩踏み出した。
「頼む、エレノア……! 話を聞いてくれ! 国の……、いや、私の存亡がかかっているんだ!」
人払いはしなかった。
アレクセイがエレノアの背後に仁王立ちし、鋭い眼光でウィリアムを牽制している。
ウィリアムはアレクセイの威圧感に怯えつつも、必死に言葉を紡いだ。
「王都はもう限界だ。井戸の水は戻らないし、カレンの起こした騒動で貴族たちの信頼も地に落ちた。……誰も、私の言うことを聞かないんだ」
ウィリアムは両手をデスクにつき、身を乗り出した。
「君が必要だ、エレノア。君の知識があれば、汚染された井戸も、荒れた肌も、すべて元通りにできるんだろう? 辺境で聖女と呼ばれていることは聞いている!」
「……聖女ではありません。技術者です」
エレノアは冷淡に訂正した。
「それに、私が戻る理由がありません。ここの水質と土壌改良のプロジェクトはまだ進行中です」
「こんな田舎の仕事などどうでもいいだろう! 君は未来の王妃になるはずだった女だぞ! 国の中枢に戻り、私を支えるのが義務だろう!」
ウィリアムが大声を上げた。
その論理の飛躍に、エレノアは深いため息をついた。
彼は何も変わっていない。
自分こそが世界の中心という天動説的な思考から抜け出せていないのだ。
「……悪気はなかったんだ」
ウィリアムの声が、急に弱々しくなった。
情に訴える作戦に変更したらしい。
「カレンに騙されていたんだ。あんなに性悪で無知な女だとは思わなかった。……君こそが、本物だった。君の地味だと思っていた知識が、これほど素晴らしいものだったなんて、失って初めて気づいたんだ」
彼は潤んだ瞳でエレノアを見つめた。
「やり直そう、エレノア。婚約破棄は撤回する。カレンとは縁を切った。今ならまだ間に合う。……やはり、私が愛しているのは君だけだったんだ」
愛。
その言葉が出た瞬間、室内の温度が数度下がった気がした。
背後のアレクセイから、殺気にも似た冷気が放たれている。
だが、エレノアは片手を上げてアレクセイを制した。
これは、彼女自身の過去との決算だ。
エレノアはゆっくりと語り始めた。
衛生状態の改善、新産業の創出、そして経済の活性化。
領主館の執務室では、エレノアが次々と持ち込まれる決裁書類にサインをし、的確な指示を飛ばしていた。
「――羊毛の洗浄工程における排水処理は、Aプランを採用。沈殿槽のpH管理を徹底させてください。次は?」
「はっ! 南の商会から、石鹸の追加発注が来ております! 前回の三倍の量を希望とのこと!」
「生産ラインの稼働率を確認し、無理のない範囲で受注してください。品質の低下はブランド価値の毀損に直結します」
多忙だが、充実していた。
自分の知識が必要とされ、それが目に見える成果として現れる。
ここには、不毛なお茶会も、足の引っ張り合いもない。
あるのは、より良い領地を作るという共通の目的だけだ。
そんな生産的な時間を、不快なノイズが遮った。
「失礼します! お、お客様が……!」
青ざめた顔で飛び込んできた執事の背後から、その男は現れた。
王宮の護衛騎士に伴われ、部屋に入ってきたのは――かつての婚約者、王太子ウィリアムだった。
「……エレノア」
その姿を見て、エレノアは眉をひそめた。
かつて煌びやかだった金髪は艶を失い、目の下には濃い隈ができている。
自信に満ち溢れていたオーラは消え失せ、まるで雨に打たれた野良犬のような惨めさが漂っていた。
「……王太子殿下。アポイントメントなしでの訪問は、ビジネスマナーとして推奨されませんが」
エレノアは立ち上がることなく、事務的に告げた。
ウィリアムは顔を歪め、一歩踏み出した。
「頼む、エレノア……! 話を聞いてくれ! 国の……、いや、私の存亡がかかっているんだ!」
人払いはしなかった。
アレクセイがエレノアの背後に仁王立ちし、鋭い眼光でウィリアムを牽制している。
ウィリアムはアレクセイの威圧感に怯えつつも、必死に言葉を紡いだ。
「王都はもう限界だ。井戸の水は戻らないし、カレンの起こした騒動で貴族たちの信頼も地に落ちた。……誰も、私の言うことを聞かないんだ」
ウィリアムは両手をデスクにつき、身を乗り出した。
「君が必要だ、エレノア。君の知識があれば、汚染された井戸も、荒れた肌も、すべて元通りにできるんだろう? 辺境で聖女と呼ばれていることは聞いている!」
「……聖女ではありません。技術者です」
エレノアは冷淡に訂正した。
「それに、私が戻る理由がありません。ここの水質と土壌改良のプロジェクトはまだ進行中です」
「こんな田舎の仕事などどうでもいいだろう! 君は未来の王妃になるはずだった女だぞ! 国の中枢に戻り、私を支えるのが義務だろう!」
ウィリアムが大声を上げた。
その論理の飛躍に、エレノアは深いため息をついた。
彼は何も変わっていない。
自分こそが世界の中心という天動説的な思考から抜け出せていないのだ。
「……悪気はなかったんだ」
ウィリアムの声が、急に弱々しくなった。
情に訴える作戦に変更したらしい。
「カレンに騙されていたんだ。あんなに性悪で無知な女だとは思わなかった。……君こそが、本物だった。君の地味だと思っていた知識が、これほど素晴らしいものだったなんて、失って初めて気づいたんだ」
彼は潤んだ瞳でエレノアを見つめた。
「やり直そう、エレノア。婚約破棄は撤回する。カレンとは縁を切った。今ならまだ間に合う。……やはり、私が愛しているのは君だけだったんだ」
愛。
その言葉が出た瞬間、室内の温度が数度下がった気がした。
背後のアレクセイから、殺気にも似た冷気が放たれている。
だが、エレノアは片手を上げてアレクセイを制した。
これは、彼女自身の過去との決算だ。
エレノアはゆっくりと語り始めた。
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