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第1話:王太子妃の仮面
王宮の最奥、北棟の角に位置するその一室は、煌びやかなドレスや宝石が並ぶ衣装部屋とは対極の空間だった。
無機質なガラス器具と薬瓶が整然と並ぶ、王立化粧品研究所。
鼻孔をくすぐるのは、甘い香水の香りではなく、蜜蝋と油脂、そして微かな薬品の匂いだ。
「――融点六二度。乳化状態、安定。……いいえ、まだ少し分離が見られるわね」
セシリア・オルコットは、スポイトからシャーレに垂らした紅色の液体を凝視し、手元の実験ノートに万年筆を走らせた。
月明かりを思わせるプラチナブロンドの髪は一筋の乱れもなくまとめ上げられ、身につけているのは純白の研究衣だ。
だが、その下には王太子妃としての品位を損なわない濃紺のドレスを纏っている。
彼女のアイスブルーの瞳は、周囲からよく「冬の湖のようだ」と評される。
それは理知的であるという称賛でもあり、同時に「冷たい」という揶揄を含んでいることも、セシリアは理解していた。
「酸化チタンの配合率を〇・五パーセント下げて、代わりにホホバオイルの精製度を上げてちょうだい」
「は、はい! ただちに!」
セシリアの静かな、しかし凛とした指示一つで、助手の研究員たちが機敏に動き出す。
今、彼女が開発しているのは耐水性ルージュ。
サンタリア王国の主要な輸出品である化粧品において、食事をしても落ちにくく、かつ唇が乾燥しない口紅は、各国の貴婦人たちが渇望する夢のアイテムだ。
これは化学だ。
感情や感覚ではなく、論理と検証の積み重ねだけが、確かな品質を生み出す。
セシリアはこの仕事に誇りを持っていた。
王太子妃という飾り物の地位ではなく、一人の技術者として国に貢献できる、この時間を愛していたのだ。
――ガチャリ。
不躾な音と共に、重厚な扉が開かれたのは、そんな集中力が極限まで高まっていた時だった。
ノックはない。
この部屋にそのような入り方をする人物は、この国に二人しかいない。
「うわあぁ……! すごい! ここがセシリア様のお仕事場なんですねぇ!」
静謐な実験室の空気を切り裂いたのは、場違いに甘ったるい声だった。
ふわりと揺れるストロベリーブロンドの髪。
大きな瞳をキラキラと輝かせ、小動物のようにキョロキョロと周囲を見回す少女。
男爵令嬢のアリス・バーネット。
最近、セシリアの見習い助手として配属された新人だ。
化粧品開発に興味があるという触れ込みだったが、基礎知識の試験は散々だったにもかかわらず、なぜか特例で採用が決まったのだ。
そして、彼女の後ろから、柔和な笑みを浮かべた男が入ってくる。
「やあ、セシリア。精が出るね」
陽光を溶かしたような金髪に、新緑のような翠の瞳。
セシリアの夫であり、この国の王太子であるテオドール・フォン・サンタリアだった。
「テオドール殿下。……それに、アリス嬢も」
セシリアは実験の手を止め、定規で引いたような完璧な角度で礼をした。
内心では、繊細な温度管理が必要な工程の最中に空気が乱されたことに、小さく舌打ちをしたい気分だった。
だが、顔にはりつけた王太子妃の微笑みは微動だにしない。
「入室の際はノックをお願いいたします、と申し上げたはずですが」
「あ、ごめんなさい! 廊下までとってもいい匂いがしたから、つい気になっちゃって! 私、好奇心だけは誰にも負けないんです!」
アリスは悪びれる様子もなく、テヘッと舌を出した。
その仕草を、テオドールは目を細めて見守っている。
まるで、愛らしい仔猫の悪戯を許す飼い主のように。
「まあまあ、セシリア。そう堅いことを言うな。彼女の純粋な探究心は美徳だろう? 君の研究室はいつも薬品臭いが、今日は珍しくローズの香りがするから、誘われるのも無理はない」
「……殿下。ここは研究施設です。危険な薬品も扱っております」
「わかっているよ。だが、君がいるのだから大丈夫だろう? 君はいつだって完璧なんだから」
――君は完璧だから。
その言葉は、いつものようにセシリアの胸に小さな棘として刺さった。
彼はそれを信頼の証として口にする。
けれどセシリアには、「だから僕が配慮する必要はないだろう」という怠惰な宣言にしか聞こえなかった。
無機質なガラス器具と薬瓶が整然と並ぶ、王立化粧品研究所。
鼻孔をくすぐるのは、甘い香水の香りではなく、蜜蝋と油脂、そして微かな薬品の匂いだ。
「――融点六二度。乳化状態、安定。……いいえ、まだ少し分離が見られるわね」
セシリア・オルコットは、スポイトからシャーレに垂らした紅色の液体を凝視し、手元の実験ノートに万年筆を走らせた。
月明かりを思わせるプラチナブロンドの髪は一筋の乱れもなくまとめ上げられ、身につけているのは純白の研究衣だ。
だが、その下には王太子妃としての品位を損なわない濃紺のドレスを纏っている。
彼女のアイスブルーの瞳は、周囲からよく「冬の湖のようだ」と評される。
それは理知的であるという称賛でもあり、同時に「冷たい」という揶揄を含んでいることも、セシリアは理解していた。
「酸化チタンの配合率を〇・五パーセント下げて、代わりにホホバオイルの精製度を上げてちょうだい」
「は、はい! ただちに!」
セシリアの静かな、しかし凛とした指示一つで、助手の研究員たちが機敏に動き出す。
今、彼女が開発しているのは耐水性ルージュ。
サンタリア王国の主要な輸出品である化粧品において、食事をしても落ちにくく、かつ唇が乾燥しない口紅は、各国の貴婦人たちが渇望する夢のアイテムだ。
これは化学だ。
感情や感覚ではなく、論理と検証の積み重ねだけが、確かな品質を生み出す。
セシリアはこの仕事に誇りを持っていた。
王太子妃という飾り物の地位ではなく、一人の技術者として国に貢献できる、この時間を愛していたのだ。
――ガチャリ。
不躾な音と共に、重厚な扉が開かれたのは、そんな集中力が極限まで高まっていた時だった。
ノックはない。
この部屋にそのような入り方をする人物は、この国に二人しかいない。
「うわあぁ……! すごい! ここがセシリア様のお仕事場なんですねぇ!」
静謐な実験室の空気を切り裂いたのは、場違いに甘ったるい声だった。
ふわりと揺れるストロベリーブロンドの髪。
大きな瞳をキラキラと輝かせ、小動物のようにキョロキョロと周囲を見回す少女。
男爵令嬢のアリス・バーネット。
最近、セシリアの見習い助手として配属された新人だ。
化粧品開発に興味があるという触れ込みだったが、基礎知識の試験は散々だったにもかかわらず、なぜか特例で採用が決まったのだ。
そして、彼女の後ろから、柔和な笑みを浮かべた男が入ってくる。
「やあ、セシリア。精が出るね」
陽光を溶かしたような金髪に、新緑のような翠の瞳。
セシリアの夫であり、この国の王太子であるテオドール・フォン・サンタリアだった。
「テオドール殿下。……それに、アリス嬢も」
セシリアは実験の手を止め、定規で引いたような完璧な角度で礼をした。
内心では、繊細な温度管理が必要な工程の最中に空気が乱されたことに、小さく舌打ちをしたい気分だった。
だが、顔にはりつけた王太子妃の微笑みは微動だにしない。
「入室の際はノックをお願いいたします、と申し上げたはずですが」
「あ、ごめんなさい! 廊下までとってもいい匂いがしたから、つい気になっちゃって! 私、好奇心だけは誰にも負けないんです!」
アリスは悪びれる様子もなく、テヘッと舌を出した。
その仕草を、テオドールは目を細めて見守っている。
まるで、愛らしい仔猫の悪戯を許す飼い主のように。
「まあまあ、セシリア。そう堅いことを言うな。彼女の純粋な探究心は美徳だろう? 君の研究室はいつも薬品臭いが、今日は珍しくローズの香りがするから、誘われるのも無理はない」
「……殿下。ここは研究施設です。危険な薬品も扱っております」
「わかっているよ。だが、君がいるのだから大丈夫だろう? 君はいつだって完璧なんだから」
――君は完璧だから。
その言葉は、いつものようにセシリアの胸に小さな棘として刺さった。
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けれどセシリアには、「だから僕が配慮する必要はないだろう」という怠惰な宣言にしか聞こえなかった。
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