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第4話:盗人の涙
王宮の廊下を歩くセシリアの足音は、今日も規則正しく、かつ静かだった。
手には分厚い革張りのファイル。
中には、現在開発中の美白化粧水に関する最新の実験データが収められている。
この数週間、彼女は睡眠時間を削り、肌への刺激を最小限に抑えつつ効果を発揮する配合比率を模索してきた。
ようやく納得のいく数値が出たため、今日はその中間報告として、テオドールのもとへ向かっていたのだ。
執務室の前に立つ衛兵に軽く目配せをし、セシリアは扉をノックした。
「失礼いたします、殿下。化粧品開発の進捗報告に参りました」
許可を得て入室したセシリアの目に飛び込んできたのは、執務机で書類と格闘する夫の姿ではなく、ソファセットで優雅にお茶を楽しんでいる二人の姿だった。
テオドールと、その隣に座るアリス・バーネット。
アリスの手には、見覚えのない小瓶が握られている。
「あ、セシリア様! ちょうどよかったぁ! 見てください、これ!」
セシリアの姿を認めるなり、アリスは弾んだ声で駆け寄ってきた。
彼女が掲げた小瓶の中では、淡いピンク色の液体が揺れている。
「これね、私が作った新作の化粧水なんです! 乙女の雫って名付けました! バラのエキスをたーっぷり使ってて、とってもいい匂いがするんですよぉ」
「……新作、ですか?」
セシリアは眉をひそめた。
見習いのアリスに、単独での製品開発許可は出していない。
彼女にはまだ、器具の洗浄と原料の計量という基礎作業しか任せていないはずだ。
「ああ、そうなんだよセシリア」
テオドールが満足げな笑みを浮かべて立ち上がった。
「アリスが『少しでもセシリア様の役に立ちたい』と言って、夜遅くまで研究室に残って作っていたらしいんだ。健気だと思わないか? 香りも素晴らしいし、肌につけるとスーッとして気持ちがいい」
テオドールは自分の頬を撫でてみせた。
どうやら、既に試しに使ってみたらしい。
セシリアの背筋に、冷たいものが走った。
安全性試験も経ていない試作品を、王太子の肌に使わせたというのか。
彼女は表情を変えずにアリスから小瓶を受け取り、蓋を開けた。
――ツン、とした刺激臭。
バラの香料で誤魔化そうとしているが、その奥にあるのは、エタノールの過剰な揮発臭だ。
さらに、液体の底には微かに白い沈殿物が見える。
乳化が不完全な証拠だ。
「……アリス嬢。これのレシピは?」
「えっとぉ、研究室にあったセシリア様のノートを、ちょっとだけ参考にさせてもらいました! でも、難しい計算式とかはよくわかんなかったので、私の感覚でハーブを足してみたんです。そしたら、魔法みたいにできちゃって!」
アリスは悪びれもせず、むしろ褒めてほしいと言わんばかりに胸を張った。
セシリアの頭の中で、事実関係が整理されていく。
ノートを勝手に見た。
これは盗用だ。
しかも、計算式を無視した。
これは改悪だ。
スーッとするのは、防腐剤代わりに入れたアルコールの濃度が高すぎるからだ。
敏感肌の人間が使えば、間違いなく赤くただれるだろう。
「アリス嬢」
セシリアの声は、氷点下のように冷たかった。
「研究室のノートは機密情報です。許可なく閲覧することは禁じられています。それに、この配合は危険です。アルコール濃度が高すぎますし、沈殿物は不純物の可能性があります。直ちに破棄してください」
淡々とした指摘に、アリスの笑顔が凍りついた。
そして次の瞬間、彼女の大きな瞳が潤み始める。
「ひどい……、私、ただ……、みんなに喜んでもらいたくて……。一生懸命作ったのに……、危険だなんて……、うっ、ぐすっ」
「泣いても事実は変わりません。これは製品として未完成どころか、毒に近いものです。殿下、今すぐ顔を洗ってきてください。肌荒れを起こします」
セシリアは毅然としてテオドールに向き直った。
彼なら、これで理解してくれるだろう。
だが、夫の反応は、彼女が期待していたものではなかった。
手には分厚い革張りのファイル。
中には、現在開発中の美白化粧水に関する最新の実験データが収められている。
この数週間、彼女は睡眠時間を削り、肌への刺激を最小限に抑えつつ効果を発揮する配合比率を模索してきた。
ようやく納得のいく数値が出たため、今日はその中間報告として、テオドールのもとへ向かっていたのだ。
執務室の前に立つ衛兵に軽く目配せをし、セシリアは扉をノックした。
「失礼いたします、殿下。化粧品開発の進捗報告に参りました」
許可を得て入室したセシリアの目に飛び込んできたのは、執務机で書類と格闘する夫の姿ではなく、ソファセットで優雅にお茶を楽しんでいる二人の姿だった。
テオドールと、その隣に座るアリス・バーネット。
アリスの手には、見覚えのない小瓶が握られている。
「あ、セシリア様! ちょうどよかったぁ! 見てください、これ!」
セシリアの姿を認めるなり、アリスは弾んだ声で駆け寄ってきた。
彼女が掲げた小瓶の中では、淡いピンク色の液体が揺れている。
「これね、私が作った新作の化粧水なんです! 乙女の雫って名付けました! バラのエキスをたーっぷり使ってて、とってもいい匂いがするんですよぉ」
「……新作、ですか?」
セシリアは眉をひそめた。
見習いのアリスに、単独での製品開発許可は出していない。
彼女にはまだ、器具の洗浄と原料の計量という基礎作業しか任せていないはずだ。
「ああ、そうなんだよセシリア」
テオドールが満足げな笑みを浮かべて立ち上がった。
「アリスが『少しでもセシリア様の役に立ちたい』と言って、夜遅くまで研究室に残って作っていたらしいんだ。健気だと思わないか? 香りも素晴らしいし、肌につけるとスーッとして気持ちがいい」
テオドールは自分の頬を撫でてみせた。
どうやら、既に試しに使ってみたらしい。
セシリアの背筋に、冷たいものが走った。
安全性試験も経ていない試作品を、王太子の肌に使わせたというのか。
彼女は表情を変えずにアリスから小瓶を受け取り、蓋を開けた。
――ツン、とした刺激臭。
バラの香料で誤魔化そうとしているが、その奥にあるのは、エタノールの過剰な揮発臭だ。
さらに、液体の底には微かに白い沈殿物が見える。
乳化が不完全な証拠だ。
「……アリス嬢。これのレシピは?」
「えっとぉ、研究室にあったセシリア様のノートを、ちょっとだけ参考にさせてもらいました! でも、難しい計算式とかはよくわかんなかったので、私の感覚でハーブを足してみたんです。そしたら、魔法みたいにできちゃって!」
アリスは悪びれもせず、むしろ褒めてほしいと言わんばかりに胸を張った。
セシリアの頭の中で、事実関係が整理されていく。
ノートを勝手に見た。
これは盗用だ。
しかも、計算式を無視した。
これは改悪だ。
スーッとするのは、防腐剤代わりに入れたアルコールの濃度が高すぎるからだ。
敏感肌の人間が使えば、間違いなく赤くただれるだろう。
「アリス嬢」
セシリアの声は、氷点下のように冷たかった。
「研究室のノートは機密情報です。許可なく閲覧することは禁じられています。それに、この配合は危険です。アルコール濃度が高すぎますし、沈殿物は不純物の可能性があります。直ちに破棄してください」
淡々とした指摘に、アリスの笑顔が凍りついた。
そして次の瞬間、彼女の大きな瞳が潤み始める。
「ひどい……、私、ただ……、みんなに喜んでもらいたくて……。一生懸命作ったのに……、危険だなんて……、うっ、ぐすっ」
「泣いても事実は変わりません。これは製品として未完成どころか、毒に近いものです。殿下、今すぐ顔を洗ってきてください。肌荒れを起こします」
セシリアは毅然としてテオドールに向き直った。
彼なら、これで理解してくれるだろう。
だが、夫の反応は、彼女が期待していたものではなかった。
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