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第7話:彼が求めていたもの
「でも、君なら許してくれると思ったよ。君はアリスと違ってしっかりしているし、一人でも待っていられる強い女性だから」
テオドールのその言葉を聞いて、セシリアの中で、何かが切れる音がした。
それは、これまで彼女を支えていた最後の理性か、それとも夫への情だったのか。
強いから大丈夫、強いから後回しにしてもいい、強いから傷つかない。
それは賛辞ではない。
「お前には配慮するコストをかけたくない」という、怠惰な宣言だ。
セシリアが強くいられたのは、いつか彼が彼女の努力を認めてくれると信じていたからだ。
けれど、彼が求めているのは対等なパートナーではなく、手のかからない都合の良い妻と、守ってあげたくなる可哀想な少女の二役だったのだ。
「……殿下」
セシリアの声は、鈴を転がすように美しく、そして冷徹だった。
「一つ、訂正させていただきます」
「うん? 何だい?」
「私は、強くなどありません。ただ、泣いても無駄だと知っているだけです」
セシリアはドレッサーの引き出しから、一通の書類を取り出した。
それは、以前から準備していた化粧品事業の個人名義化に関する契約書だ。
今日、サインをもらうつもりだったが、ディナーの席では雰囲気を壊すと思いとどまっていたものだ。
だが、もう遠慮はいらない。
「これに、サインをいただけますか?」
「え? 今? 仕事の話?」
「ええ。殿下はお疲れでしょうから、手短に。私の開発した化粧品の権利に関する確認書です」
「ああ、分かったよ。君のやることに間違いはないからね」
テオドールは内容をよく読みもせず、サラサラと署名した。
彼は気づいていない。
それが、セシリアが王家から経済的に自立するための第一歩であることに。
彼はセシリアを信頼しているのではない。
思考を放棄しているだけだ。
「ありがとうございます」
セシリアは書類を受け取り、大切にしまった。
その動作は事務的で、そこにはもう、夫を労わる温かさは欠片も残っていなかった。
「もう遅いですわ。お風邪を召されますので、お早く着替えてお休みください」
「ああ、そうするよ。……怒ってないんだね、セシリア。やっぱり君は最高の妻だ」
テオドールは無邪気に笑い、セシリアの頬にキスをしようと顔を寄せた。
セシリアは反射的に身を引いて避けたかったが、ぐっと堪えた。
冷たい頬に、濡れた唇が触れる。
それは、かつて愛しいと感じた感触ではなく、ただの不快な湿り気だった。
「おやすみなさいませ、殿下」
セシリアは完璧なカーテシーを見せた。
テオドールが部屋を出て行くと、彼女はすぐにハンカチを取り出し、頬を拭った。
強く、何度も、皮膚が赤くなるほどに。
「……汚らわしい」
ぽつりと漏れた言葉は、自分でも驚くほど冷え切っていた。
窓の外では、雨がまだ降り続いている。
けれど、セシリアの心の中の雨は止んでいた。
そこにあるのは、荒れ果てた荒野と、静寂だけだった。
彼女は鏡に向かい、ネックレスを外した。
真珠の輝きが、どこか偽物のように見えた。
もう、期待はしない。
来年の同じ日には、こんな思いをしなくてすむ。
それはセシリアの中では、確信に近いものだった。
テオドールのその言葉を聞いて、セシリアの中で、何かが切れる音がした。
それは、これまで彼女を支えていた最後の理性か、それとも夫への情だったのか。
強いから大丈夫、強いから後回しにしてもいい、強いから傷つかない。
それは賛辞ではない。
「お前には配慮するコストをかけたくない」という、怠惰な宣言だ。
セシリアが強くいられたのは、いつか彼が彼女の努力を認めてくれると信じていたからだ。
けれど、彼が求めているのは対等なパートナーではなく、手のかからない都合の良い妻と、守ってあげたくなる可哀想な少女の二役だったのだ。
「……殿下」
セシリアの声は、鈴を転がすように美しく、そして冷徹だった。
「一つ、訂正させていただきます」
「うん? 何だい?」
「私は、強くなどありません。ただ、泣いても無駄だと知っているだけです」
セシリアはドレッサーの引き出しから、一通の書類を取り出した。
それは、以前から準備していた化粧品事業の個人名義化に関する契約書だ。
今日、サインをもらうつもりだったが、ディナーの席では雰囲気を壊すと思いとどまっていたものだ。
だが、もう遠慮はいらない。
「これに、サインをいただけますか?」
「え? 今? 仕事の話?」
「ええ。殿下はお疲れでしょうから、手短に。私の開発した化粧品の権利に関する確認書です」
「ああ、分かったよ。君のやることに間違いはないからね」
テオドールは内容をよく読みもせず、サラサラと署名した。
彼は気づいていない。
それが、セシリアが王家から経済的に自立するための第一歩であることに。
彼はセシリアを信頼しているのではない。
思考を放棄しているだけだ。
「ありがとうございます」
セシリアは書類を受け取り、大切にしまった。
その動作は事務的で、そこにはもう、夫を労わる温かさは欠片も残っていなかった。
「もう遅いですわ。お風邪を召されますので、お早く着替えてお休みください」
「ああ、そうするよ。……怒ってないんだね、セシリア。やっぱり君は最高の妻だ」
テオドールは無邪気に笑い、セシリアの頬にキスをしようと顔を寄せた。
セシリアは反射的に身を引いて避けたかったが、ぐっと堪えた。
冷たい頬に、濡れた唇が触れる。
それは、かつて愛しいと感じた感触ではなく、ただの不快な湿り気だった。
「おやすみなさいませ、殿下」
セシリアは完璧なカーテシーを見せた。
テオドールが部屋を出て行くと、彼女はすぐにハンカチを取り出し、頬を拭った。
強く、何度も、皮膚が赤くなるほどに。
「……汚らわしい」
ぽつりと漏れた言葉は、自分でも驚くほど冷え切っていた。
窓の外では、雨がまだ降り続いている。
けれど、セシリアの心の中の雨は止んでいた。
そこにあるのは、荒れ果てた荒野と、静寂だけだった。
彼女は鏡に向かい、ネックレスを外した。
真珠の輝きが、どこか偽物のように見えた。
もう、期待はしない。
来年の同じ日には、こんな思いをしなくてすむ。
それはセシリアの中では、確信に近いものだった。
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