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第10話:理想的な妻
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研究所の朝は、ガラスの破片が散らばる音から始まった。
「ああっ! ごめんなさいぃ! 手が滑っちゃって!」
アリスの甲高い声が響き渡る。
彼女の足元には、高価な香料が入っていたフラスコが無惨な破片となって散らばっていた。
部屋中に濃厚すぎるムスクの香りが充満し、鼻をつく。
以前のセシリアであれば、即座に貴重な香料の損失額を計算し、アリスに厳重注意を与えていただろう。
香料は一滴が金貨に匹敵するものもあるのだから。
だが、今のセシリアは違った。
「あら、大変」
窓を少し開けたセシリアは、眉ひとつ動かさず、穏やかな笑顔を浮かべていた。
その声には怒りも、焦りも、非難の色もない。
ただ、道端の小石が転がったのを見たときのような、平坦な関心しかなかった。
「お怪我はありませんか、アリス嬢?」
「は、はい……、大丈夫ですぅ。でも、お高いお薬だったんですよね……? どうしよう……」
アリスは上目遣いでセシリアの反応を窺っている。
いつものように叱られるのを待ち構え、その瞬間に泣き出してテオドールに泣きつく準備をしているのが見え透いていた。
しかし、セシリアは優雅に首を横に振った。
「いいえ、お気になさらないで。形あるものはいつか壊れるものですわ。お怪我がなくて何よりです」
「え……?」
アリスが呆気にとられたように口を開ける。
そこへ、騒ぎを聞きつけたテオドールが入ってきた。
「どうしたんだ、何か割れる音がしたが」
「テオドール様ぁ! 私、またドジしちゃって……!」
「アリス嬢がフラスコを割ってしまわれたのです。ですが、お怪我はないようで安心いたしました」
セシリアはアリスが泣きつく前に、先回りして穏やかに報告した。
テオドールは目を丸くし、それからパッと表情を輝かせた。
「そうか、怪我はないか。よかった……。セシリア、君も怒らないでいてくれたんだね」
「もちろんですわ、殿下。アリス嬢は悪気があってなさったわけではありませんもの。故意ではない過失を責めるなど、心が狭い人間のすることですわ」
セシリアの言葉は、かつてテオドールが彼女に浴びせた台詞を綺麗にラッピングし直したものだった。
皮肉など微塵も感じさせない、完璧な聖女のような微笑み。
テオドールは感動に打ち震え、セシリアの手を取った。
「ありがとう、セシリア! やっぱり君は変わった。僕の言った通り、女性らしい優しさを身につけてくれたんだね。今の君は、本当に理想的な妻だ」
テオドールの温かい手が、セシリアの冷たい手を包み込む。
セシリアは、吐き気を催すほどの嫌悪感を意志の力でねじ伏せ、更に深く微笑んでみせた。
「恐れ入ります、殿下。すべては殿下のお導きのおかげです」
(そう、理想的な妻でしょうね。あなたにとって都合のいい、何も言わない人形になったのですから)
セシリアの心の中には、氷河のような冷たさが広がっていた。
怒らないのではない。
関心がないのだ。
この研究所の備品も予算も、もはやセシリアにとっては、どうでもいい他人の財布の話だった。
彼女の真の財産は、既に別の場所に移されているのだから……。
「ああっ! ごめんなさいぃ! 手が滑っちゃって!」
アリスの甲高い声が響き渡る。
彼女の足元には、高価な香料が入っていたフラスコが無惨な破片となって散らばっていた。
部屋中に濃厚すぎるムスクの香りが充満し、鼻をつく。
以前のセシリアであれば、即座に貴重な香料の損失額を計算し、アリスに厳重注意を与えていただろう。
香料は一滴が金貨に匹敵するものもあるのだから。
だが、今のセシリアは違った。
「あら、大変」
窓を少し開けたセシリアは、眉ひとつ動かさず、穏やかな笑顔を浮かべていた。
その声には怒りも、焦りも、非難の色もない。
ただ、道端の小石が転がったのを見たときのような、平坦な関心しかなかった。
「お怪我はありませんか、アリス嬢?」
「は、はい……、大丈夫ですぅ。でも、お高いお薬だったんですよね……? どうしよう……」
アリスは上目遣いでセシリアの反応を窺っている。
いつものように叱られるのを待ち構え、その瞬間に泣き出してテオドールに泣きつく準備をしているのが見え透いていた。
しかし、セシリアは優雅に首を横に振った。
「いいえ、お気になさらないで。形あるものはいつか壊れるものですわ。お怪我がなくて何よりです」
「え……?」
アリスが呆気にとられたように口を開ける。
そこへ、騒ぎを聞きつけたテオドールが入ってきた。
「どうしたんだ、何か割れる音がしたが」
「テオドール様ぁ! 私、またドジしちゃって……!」
「アリス嬢がフラスコを割ってしまわれたのです。ですが、お怪我はないようで安心いたしました」
セシリアはアリスが泣きつく前に、先回りして穏やかに報告した。
テオドールは目を丸くし、それからパッと表情を輝かせた。
「そうか、怪我はないか。よかった……。セシリア、君も怒らないでいてくれたんだね」
「もちろんですわ、殿下。アリス嬢は悪気があってなさったわけではありませんもの。故意ではない過失を責めるなど、心が狭い人間のすることですわ」
セシリアの言葉は、かつてテオドールが彼女に浴びせた台詞を綺麗にラッピングし直したものだった。
皮肉など微塵も感じさせない、完璧な聖女のような微笑み。
テオドールは感動に打ち震え、セシリアの手を取った。
「ありがとう、セシリア! やっぱり君は変わった。僕の言った通り、女性らしい優しさを身につけてくれたんだね。今の君は、本当に理想的な妻だ」
テオドールの温かい手が、セシリアの冷たい手を包み込む。
セシリアは、吐き気を催すほどの嫌悪感を意志の力でねじ伏せ、更に深く微笑んでみせた。
「恐れ入ります、殿下。すべては殿下のお導きのおかげです」
(そう、理想的な妻でしょうね。あなたにとって都合のいい、何も言わない人形になったのですから)
セシリアの心の中には、氷河のような冷たさが広がっていた。
怒らないのではない。
関心がないのだ。
この研究所の備品も予算も、もはやセシリアにとっては、どうでもいい他人の財布の話だった。
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