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第21話:彼女が座っていた席
その頃、セシリアは王都を遠く離れた街道を走る馬車の中にいた。
ガタゴトと揺れる車内。
窓の外は漆黒の闇だ。
彼女の膝の上には、古びた革のトランクが一つだけ置かれている。
中身は、受け継いだ研究ノートの写し(原本が燃やされる前に取っておいたもの)、最低限の身の回りの品、そして愛用の万年筆。
王宮に残してきた宝石やドレスの総額は、小さな城が買えるほどだろう。
だが、セシリアにとってそれらは首輪と鎖でしかなかった。
「……身軽だわ」
セシリアは独りごちた。
物理的な重さの話ではない。
「王太子妃らしくあれ」「夫を立てろ」「物分かりの良い妻であれ」――そんな見えない重圧が、物理的な距離と共に剥がれ落ちていくのを感じていた。
彼女が選んだのは、高価な装飾品ではなく、自分の手で未来を切り開くための道具だけ。
それは彼女が、誰かの付属品として生きることをやめ、一人の技術者として生きる覚悟を決めた証だった。
「テオドール殿下。貴方様はきっと、私が感情に任せて飛び出したと思っていらっしゃるでしょうね」
セシリアは窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
そこには、不安に怯える迷子はいない。
冷徹な計算に基づき、損切りを実行した投資家のような、静かな瞳があった。
彼女は、彼が「セシリアは戻ってくる」と高を括っていることまで予測済みだった。
だからこそ、国王陛下への根回しは完璧に行った。
これまでの化粧品事業の売上データ、テオドールの浪費とアリスへの不適切な支出の証拠、そして今後のC.O.商会からの技術提供による国益(慰謝料代わりの手切れ金)を提示し、穏便な離縁を取り付けたのだ。
陛下も、愚かな息子に灸を据える意味で、この離縁を黙認した節がある。
「さようなら。……私の価値を見誤った、哀れな人」
セシリアはトランクを愛おしげに撫でた。
頭の中にある知識と技術さえあれば、どこの国でも生きていける。
彼女はもう誰かに養われる、か弱い花ではない。
大地に根を張り、自らの力で咲く大樹なのだ。
翌朝。
王宮の朝食会場は、奇妙な空気に包まれていた。
長テーブルの上座にはテオドール。
その右隣の席――本来ならセシリアが座るべき場所――は空席だ。
代わりに、少し離れた席にアリスが座っている。
「ねぇテオドール様ぁ、セシリア様まだ来ないんですかぁ? お腹空いちゃいましたぁ」
アリスはナイフとフォークをカチャカチャと鳴らし、不満げに頬を膨らませた。
彼女はまだ、セシリアがいなくなったことを知らない。
ただの寝坊だと思っているようだ。
「……彼女は、少し体調が悪いみたいでね。当分、食事は部屋で摂るそうだ」
テオドールは視線を泳がせながら嘘をついた。
給仕をする侍従たちの視線が痛い。
彼らは昨夜、セシリアが荷物をまとめて出て行ったことを知っている。
あるいは、噂ですでに察している。
だが、誰も何も言わない。
それが王宮という場所の冷たさだ。
「えぇー? つまんなーい。セシリア様がいないと、私のドレスのこと相談できないのにぃ」
「アリス。食事中は静かに」
テオドールは少し苛立った声を出してしまった。
いつもなら、セシリアが「アリス嬢、食事のマナーを守りましょうね」と優しく、しかし厳格にたしなめてくれた場面だ。
彼女がいないと、この場の規律を維持するのは自分一人になる。
「むぅ……、テオドール様、なんか今日イライラしてますねぇ。カルシウム足りてないんじゃないですかぁ?」
アリスは無神経に言い放ち、パンにたっぷりとジャムを塗りたくった。
その光景を見て、テオドールはふと、セシリアのいない日常の解像度が上がっていくのを感じた。
小言を言う人がいなくなった解放感?
いや、違う。
これは、重石がなくなったことで、船がバランスを崩して傾き始めた感覚だ。
「……僕は、間違っていない」
テオドールは冷めたスープを飲み込みながら、自分に言い聞かせた。
これは一時的なことだ。
彼女はすぐに戻ってくる。
あの完璧な妻が、自分を見捨てるはずがない。
その根拠のない自信が、砂上の楼閣であることを、彼はまだ認めたくなかった。
空席になった隣の椅子が、まるで大きな口を開けて彼を飲み込もうとしているような錯覚に襲われながら、テオドールは味のしない朝食を続けた。
ガタゴトと揺れる車内。
窓の外は漆黒の闇だ。
彼女の膝の上には、古びた革のトランクが一つだけ置かれている。
中身は、受け継いだ研究ノートの写し(原本が燃やされる前に取っておいたもの)、最低限の身の回りの品、そして愛用の万年筆。
王宮に残してきた宝石やドレスの総額は、小さな城が買えるほどだろう。
だが、セシリアにとってそれらは首輪と鎖でしかなかった。
「……身軽だわ」
セシリアは独りごちた。
物理的な重さの話ではない。
「王太子妃らしくあれ」「夫を立てろ」「物分かりの良い妻であれ」――そんな見えない重圧が、物理的な距離と共に剥がれ落ちていくのを感じていた。
彼女が選んだのは、高価な装飾品ではなく、自分の手で未来を切り開くための道具だけ。
それは彼女が、誰かの付属品として生きることをやめ、一人の技術者として生きる覚悟を決めた証だった。
「テオドール殿下。貴方様はきっと、私が感情に任せて飛び出したと思っていらっしゃるでしょうね」
セシリアは窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
そこには、不安に怯える迷子はいない。
冷徹な計算に基づき、損切りを実行した投資家のような、静かな瞳があった。
彼女は、彼が「セシリアは戻ってくる」と高を括っていることまで予測済みだった。
だからこそ、国王陛下への根回しは完璧に行った。
これまでの化粧品事業の売上データ、テオドールの浪費とアリスへの不適切な支出の証拠、そして今後のC.O.商会からの技術提供による国益(慰謝料代わりの手切れ金)を提示し、穏便な離縁を取り付けたのだ。
陛下も、愚かな息子に灸を据える意味で、この離縁を黙認した節がある。
「さようなら。……私の価値を見誤った、哀れな人」
セシリアはトランクを愛おしげに撫でた。
頭の中にある知識と技術さえあれば、どこの国でも生きていける。
彼女はもう誰かに養われる、か弱い花ではない。
大地に根を張り、自らの力で咲く大樹なのだ。
翌朝。
王宮の朝食会場は、奇妙な空気に包まれていた。
長テーブルの上座にはテオドール。
その右隣の席――本来ならセシリアが座るべき場所――は空席だ。
代わりに、少し離れた席にアリスが座っている。
「ねぇテオドール様ぁ、セシリア様まだ来ないんですかぁ? お腹空いちゃいましたぁ」
アリスはナイフとフォークをカチャカチャと鳴らし、不満げに頬を膨らませた。
彼女はまだ、セシリアがいなくなったことを知らない。
ただの寝坊だと思っているようだ。
「……彼女は、少し体調が悪いみたいでね。当分、食事は部屋で摂るそうだ」
テオドールは視線を泳がせながら嘘をついた。
給仕をする侍従たちの視線が痛い。
彼らは昨夜、セシリアが荷物をまとめて出て行ったことを知っている。
あるいは、噂ですでに察している。
だが、誰も何も言わない。
それが王宮という場所の冷たさだ。
「えぇー? つまんなーい。セシリア様がいないと、私のドレスのこと相談できないのにぃ」
「アリス。食事中は静かに」
テオドールは少し苛立った声を出してしまった。
いつもなら、セシリアが「アリス嬢、食事のマナーを守りましょうね」と優しく、しかし厳格にたしなめてくれた場面だ。
彼女がいないと、この場の規律を維持するのは自分一人になる。
「むぅ……、テオドール様、なんか今日イライラしてますねぇ。カルシウム足りてないんじゃないですかぁ?」
アリスは無神経に言い放ち、パンにたっぷりとジャムを塗りたくった。
その光景を見て、テオドールはふと、セシリアのいない日常の解像度が上がっていくのを感じた。
小言を言う人がいなくなった解放感?
いや、違う。
これは、重石がなくなったことで、船がバランスを崩して傾き始めた感覚だ。
「……僕は、間違っていない」
テオドールは冷めたスープを飲み込みながら、自分に言い聞かせた。
これは一時的なことだ。
彼女はすぐに戻ってくる。
あの完璧な妻が、自分を見捨てるはずがない。
その根拠のない自信が、砂上の楼閣であることを、彼はまだ認めたくなかった。
空席になった隣の椅子が、まるで大きな口を開けて彼を飲み込もうとしているような錯覚に襲われながら、テオドールは味のしない朝食を続けた。
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