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第36話:新しい色の口紅
数年の月日が流れた。
ガレリア帝国の帝都にあるクリスタル・ホールは、かつてないほどの熱気と華やかさに包まれていた。
今日は、世界的なコスメブランドへと成長したC.O.の設立三周年記念パーティーであり、同時に新作コレクションの発表会でもあった。
会場には、大陸中から集まった貴族、商人、そして美を愛する女性たちが溢れている。
彼女たちの唇には、思い思いの色のルージュが引かれ、その表情は生き生きと輝いていた。
かつて化粧がマナーや義務でしかなかった時代は終わり、セシリアが提唱した、自分のために装うという価値観が、国境を越えて花開いていたのだ。
舞台袖の控え室。
セシリア・オルコットは、姿見の前で最終確認を行っていた。
プラチナブロンドの髪は、ふわりとした柔らかな曲線を描いて結い上げられ、身に纏っているのは、自らのブランドカラーである深紅のイブニングドレスだ。
その姿は、かつてサンタリア王宮で氷の彫刻と呼ばれていた頃の堅苦しさを完全に脱ぎ捨て、内側から溢れ出る自信と知性によって、圧倒的な美のカリスマとしてのオーラを放っていた。
「……マダム・オルコット。準備はよろしいですか?」
ノックと共に現れたのは、ガレリア帝国の若き外交官であり、現在はC.O.の社外取締役も務めるアレクセイ公爵だった。
かつてアリスにハーブティーをかけられ、激怒して帰国した彼だが、その後セシリアの誠実な謝罪と、彼女の描くビジネスビジョンに感銘を受け、最大の支援者となっていた。
「ええ、アレクセイ公爵。いつでも」
セシリアは鏡越しに彼に微笑みかけた。
公爵は眩しそうに目を細め、敬意を込めて一礼した。
「今日のあなたは、いつにも増して素晴らしい。……あの時、あなたがサンタリアを出る決断をしてくれて本当によかったと、心から思いますよ」
「ふふ、私もですわ。あの決断がなければ、今の私も、この景色も存在しなかったのですから」
セシリアの声には、一点の曇りもなかった。
かつて彼女を苦しめた夫や令嬢の存在は、今の彼女にとっては遠い過去の記憶、あるいは自分を成長させてくれた踏み台程度の意味しか持たない。
風の噂では、サンタリア王国は経済危機により困窮し、王太子は心を閉ざして政務マシーンとなり、アリス嬢は修道院で静かに朽ちていっているという。
だが、セシリアはその情報に憐れみも優越感も抱かなかった。
ただ、「そう」という事実として受け流すだけだ。
彼女の視界は、未来にしか向いていないのだから。
「では、先に行ってお待ちしています。……あなたの晴れ舞台だ」
アレクセイ公爵は、恋愛感情とも同志愛とも取れる、温かく信頼に満ちた眼差しを残して部屋を出て行った。
彼はセシリアの領域を侵さない。
彼女の自立を尊重し、対等なパートナーとして隣に立つことを選んでいる。
それこそが、セシリアが求めていた人間関係だった。
部屋に一人残ったセシリアは、ドレッサーの上にある一本の口紅を手に取った。
フェニックス・レッド。
今回の新作コレクションの目玉であり、彼女自身が調合した特別な色だ。
灰の中から蘇る不死鳥のように、鮮やかで、力強い赤。
セシリアはキャップを外し、紅を繰り出した。
ふと、数年前の記憶が蘇る。
王宮の暗い実験室で、涙をこらえながら武装として口紅を引いた日。
夫に失望し、別れを決意した夜、鏡の前で無造作に口紅を拭い去った日。
あの頃の口紅は、彼女にとって仮面であり、盾だった。
本当の自分を隠し、傷つかないように心を守るための鎧。
だが、今は違う。
「……ふふ」
セシリアは鏡の中の自分と目を合わせた。
そこには、誰かに愛されることを乞う弱々しい女性はいなかった。
自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分の手で幸福を掴み取った、一人の誇り高き女性が立っていた。
セシリアはゆっくりと、唇に紅を滑らせた。
滑らかな感触と共に、鮮烈な赤が唇を彩っていく。
それは誰かに媚びるための色ではない。
誰かを威嚇するための色でもない。
ただ、セシリア・オルコットという人間が、今この瞬間を最高に楽しんでいることを証明するための、魂の色だ。
上下の唇を合わせ、色を馴染ませる。
完璧だ。
落ちない、滲まない。
そして何より、美しい。
セシリアは口角を上げ、鏡の中の自分に向かって、最高の笑顔を見せた。
それは、王太子妃時代の能面のような微笑みとは似ても似つかない、太陽のように眩しい笑顔だった。
「今の私が、一番輝いているわ」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、自分自身の心に深く刻み込まれた。
過去のすべての痛みは、この瞬間のためにあったのだと思えるほどに、今の彼女は満たされていた。
万雷の拍手が聞こえる。
世界が彼女を呼んでいる。
セシリアはドレスの裾を翻し、軽やかな足取りで扉を開けた。
その先には、まばゆい光の道がどこまでも続いていた。
かつて王太子妃だった彼女は静かに口紅を拭い、そして今、新しい色を纏って、自分だけの人生を歩き始めた。
ガレリア帝国の帝都にあるクリスタル・ホールは、かつてないほどの熱気と華やかさに包まれていた。
今日は、世界的なコスメブランドへと成長したC.O.の設立三周年記念パーティーであり、同時に新作コレクションの発表会でもあった。
会場には、大陸中から集まった貴族、商人、そして美を愛する女性たちが溢れている。
彼女たちの唇には、思い思いの色のルージュが引かれ、その表情は生き生きと輝いていた。
かつて化粧がマナーや義務でしかなかった時代は終わり、セシリアが提唱した、自分のために装うという価値観が、国境を越えて花開いていたのだ。
舞台袖の控え室。
セシリア・オルコットは、姿見の前で最終確認を行っていた。
プラチナブロンドの髪は、ふわりとした柔らかな曲線を描いて結い上げられ、身に纏っているのは、自らのブランドカラーである深紅のイブニングドレスだ。
その姿は、かつてサンタリア王宮で氷の彫刻と呼ばれていた頃の堅苦しさを完全に脱ぎ捨て、内側から溢れ出る自信と知性によって、圧倒的な美のカリスマとしてのオーラを放っていた。
「……マダム・オルコット。準備はよろしいですか?」
ノックと共に現れたのは、ガレリア帝国の若き外交官であり、現在はC.O.の社外取締役も務めるアレクセイ公爵だった。
かつてアリスにハーブティーをかけられ、激怒して帰国した彼だが、その後セシリアの誠実な謝罪と、彼女の描くビジネスビジョンに感銘を受け、最大の支援者となっていた。
「ええ、アレクセイ公爵。いつでも」
セシリアは鏡越しに彼に微笑みかけた。
公爵は眩しそうに目を細め、敬意を込めて一礼した。
「今日のあなたは、いつにも増して素晴らしい。……あの時、あなたがサンタリアを出る決断をしてくれて本当によかったと、心から思いますよ」
「ふふ、私もですわ。あの決断がなければ、今の私も、この景色も存在しなかったのですから」
セシリアの声には、一点の曇りもなかった。
かつて彼女を苦しめた夫や令嬢の存在は、今の彼女にとっては遠い過去の記憶、あるいは自分を成長させてくれた踏み台程度の意味しか持たない。
風の噂では、サンタリア王国は経済危機により困窮し、王太子は心を閉ざして政務マシーンとなり、アリス嬢は修道院で静かに朽ちていっているという。
だが、セシリアはその情報に憐れみも優越感も抱かなかった。
ただ、「そう」という事実として受け流すだけだ。
彼女の視界は、未来にしか向いていないのだから。
「では、先に行ってお待ちしています。……あなたの晴れ舞台だ」
アレクセイ公爵は、恋愛感情とも同志愛とも取れる、温かく信頼に満ちた眼差しを残して部屋を出て行った。
彼はセシリアの領域を侵さない。
彼女の自立を尊重し、対等なパートナーとして隣に立つことを選んでいる。
それこそが、セシリアが求めていた人間関係だった。
部屋に一人残ったセシリアは、ドレッサーの上にある一本の口紅を手に取った。
フェニックス・レッド。
今回の新作コレクションの目玉であり、彼女自身が調合した特別な色だ。
灰の中から蘇る不死鳥のように、鮮やかで、力強い赤。
セシリアはキャップを外し、紅を繰り出した。
ふと、数年前の記憶が蘇る。
王宮の暗い実験室で、涙をこらえながら武装として口紅を引いた日。
夫に失望し、別れを決意した夜、鏡の前で無造作に口紅を拭い去った日。
あの頃の口紅は、彼女にとって仮面であり、盾だった。
本当の自分を隠し、傷つかないように心を守るための鎧。
だが、今は違う。
「……ふふ」
セシリアは鏡の中の自分と目を合わせた。
そこには、誰かに愛されることを乞う弱々しい女性はいなかった。
自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分の手で幸福を掴み取った、一人の誇り高き女性が立っていた。
セシリアはゆっくりと、唇に紅を滑らせた。
滑らかな感触と共に、鮮烈な赤が唇を彩っていく。
それは誰かに媚びるための色ではない。
誰かを威嚇するための色でもない。
ただ、セシリア・オルコットという人間が、今この瞬間を最高に楽しんでいることを証明するための、魂の色だ。
上下の唇を合わせ、色を馴染ませる。
完璧だ。
落ちない、滲まない。
そして何より、美しい。
セシリアは口角を上げ、鏡の中の自分に向かって、最高の笑顔を見せた。
それは、王太子妃時代の能面のような微笑みとは似ても似つかない、太陽のように眩しい笑顔だった。
「今の私が、一番輝いているわ」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、自分自身の心に深く刻み込まれた。
過去のすべての痛みは、この瞬間のためにあったのだと思えるほどに、今の彼女は満たされていた。
万雷の拍手が聞こえる。
世界が彼女を呼んでいる。
セシリアはドレスの裾を翻し、軽やかな足取りで扉を開けた。
その先には、まばゆい光の道がどこまでも続いていた。
かつて王太子妃だった彼女は静かに口紅を拭い、そして今、新しい色を纏って、自分だけの人生を歩き始めた。
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