王太子から婚約破棄されましたが、インフラを支えていたの、実は私なんです~辺境改革で忙しいので、今さら復縁要請されても遅いです~

水上

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第9話:一方、その頃王都では(1)~雨と汚水~

 アッシュバーン辺境伯領が、ヴィオラの技術革新によって活気づいていた頃。
 王都は、どんよりとした厚い雲に覆われていた。

 例年よりも少し早い雨季の到来だった。

 王宮の執務室で、王太子クリストフェル・ヴァレンティンは窓ガラスを打つ雨音に舌打ちをした。

「まったく、鬱陶しい雨だ。いつまで降り続くつもりだ」

 彼はワイングラスを傾け、傍らのソファに座るクロエ・ダルトンに視線を向けた。

 クロエはフリルたっぷりのドレスに身を包み、子猫のようにクッションを抱きしめている。

「クリス様ぁ、雨の音が怖いですぅ。雷様が怒っているのかしら?」

「ははは、可愛いことを言う。私の愛が熱すぎて、空が嫉妬しているのかもしれないな」

「やだぁ、クリス様ったら! 素敵!」

 甘ったるい会話が交わされる室内とは裏腹に、扉の外では慌ただしい足音が響き渡っていた。

 その時、唐突にノックと共に扉が開かれ、財務大臣が顔面蒼白で飛び込んできた。

「で、殿下! 一大事でございます!」

「騒々しいぞ」

「王立食糧倉庫が……、第一から第三倉庫まで、すべて浸水しました!」

 クリストフェルは眉をひそめた。

「浸水? 何を言っている。あの倉庫の屋根は頑丈な石造りだろう」

「屋根ではありません! 保管していた小麦や保存食が、すべて水浸しになり、カビが生え始めているのです!」

 大臣の報告によれば、倉庫の屋根や壁そのものが壊れたわけではないという。
 問題は、積み上げられた木箱の覆いにあった。

「これまでは、ヴィオラ嬢……、いえ、クライン伯爵令嬢が開発した防水ゴムシートが掛けられておりました。しかし、彼女が去ってからメンテナンスが行われず、シートが経年劣化で破れてしまったのです」

 ゴムは紫外線やオゾンによって劣化し、ひび割れを起こす。

 ヴィオラがいた頃は、雨季の前に必ず劣化具合をチェックし、新しいシートに交換するルーチンが確立されていた。

 だが、彼女を追放した今、その業務を引き継ぐ者は誰もいなかった。

「たかが布一枚の話だろう! 普通の帆布でも掛けておけ!」

「やりました! しかし、この長雨です。帆布では水が染み込み、中の小麦まで湿気を帯びて……。備蓄食料の六割が廃棄処分です!」

「六割だと……!?」

 クリストフェルが絶句した時、クロエが首をかしげて口を挟んだ。

「ねえ、大臣さん。小麦さんが濡れちゃったなら、乾かせばいいじゃないですかぁ。お日様にお願いして、みんなでテルテル坊主を作りましょうよ!」

 大臣は、殺意に近い冷ややかな目をクロエに向けた。

「……男爵令嬢。カビた小麦は毒です。それに、テルテル坊主など迷信でございます」

「ひどぉい! 私はみんなのために提案したのにぃ!」

 クロエが嘘泣きを始めると、クリストフェルは慌てて彼女を抱き寄せた。

「大臣! クロエを責めるな! 彼女の純粋な心は、国一番の宝だぞ!」

「……宝で腹は膨れませんので」

 大臣は冷たく言い捨て、執務室を出て行った。

 だが、悲劇は食料倉庫だけでは終わらなかった。
 数日後、雨はさらに激しさを増し、王都全体にある異変が生じ始めた。

 ――臭いのだ。

 鼻が曲がるような、腐った卵と汚物を混ぜ合わせたような悪臭が、美しい石造りの街に充満し始めた。

「な、なんだこの臭いは……!」

 クリストフェルがハンカチで鼻を押さえながら廊下を歩いていると、侍女たちが青い顔で走り回っていた。

 床には、どこからともなく茶色く濁った水が滲み出し、高級な絨毯を汚している。

「殿下! 下水が……、下水が逆流しております!」

 今度は建設局長が、泥だらけの姿で駆けつけてきた。

「逆流だと? 王都の排水システムは完璧なはずだ!」

「それが……、配管の継ぎ目に使われていた逆止弁が機能不全を起こしまして」

 王都の地下には、複雑な下水路が張り巡らされている。

 大雨の際、汚水が住宅街や王宮に逆流しないよう、ヴィオラが設計したゴム製の弁が設置されていた。

 水圧がかかると自動的に閉まり、逆流を防ぐ単純だが確実な機構だ。

「ゴム弁が硬化して動きが悪くなり、ゴミが挟まって閉まらなくなった箇所が多発しています。そこへこの大雨で、処理しきれない雨水と汚水が混ざり合い、マンホールや排水口から噴き出しているのです!」

 想像するだけで吐き気を催す光景だ。
 かつてヴィオラは、定期的に地下水道へ潜り、ゴム弁の弾力性をチェックしていた。

 汚い仕事と周囲は蔑んだが、その地味な作業こそが、王都の衛生な環境を保っていたのだ。

「そんな……。では、どうすればいいのだ!」

「交換用のゴム弁が必要です! しかし、在庫は全てヴィオラ嬢が管理しており、その製造法も彼女しか知りません。王立工房の職人たちは、設計図が複雑すぎて再現不可能と匙を投げました」

 建設局長は、絶望的な顔で告げた。

「現在、王都の低地にある平民街は、膝下まで汚水に浸かっています。疫病が発生するのも時間の問題かと……」

 クリストフェルは窓の外を見た。

 雨に煙る街並みは、かつての輝きを失い、どす黒い水に沈もうとしていた。
 民衆の怒りの声が、雨音に混じって聞こえてくるような気がした。

「すべては、あの女……、ヴィオラが悪いのだ!」

 クリストフェルは責任転嫁するように叫んだ。

「そうだ、あいつが意地悪をして、欠陥品を設置していったに違いない! 私の統治を邪魔するために!」

 論理的に考えれば、メンテナンスを行わなかった現体制の責任であることは明白だ。
 しかし、彼の肥大したプライドはそれを認めることを拒絶した。

 そこに、クロエが鼻をつまみながらやってきた。

「くさぁい! クリス様、このお城、臭くて嫌ですぅ。別の別荘に行きましょうよぉ」

「……そうだな。それがいい。この悪臭が収まるまで、高台の離宮へ移ろう」

 王太子は、民を見捨てる決断を避難という言葉で正当化した。

 王太子一行が離宮へ向かおうと、王宮の玄関ホールを出た時のことだ。
 馬車寄せの石畳は濡れて黒く光っていた。

「さあ、クロエ。足元に気をつけて」

「はぁい、クリス様」

 クリストフェルは颯爽とエスコートしようとした。

 彼が履いているのは、最高級の革靴。
 靴底もまた、滑らかな革製だ。

 かつて、雨の日にはヴィオラが靴底に薄いゴムシートを貼ってくれていた。

「摩擦係数を上げないと転倒リスクがあります」と言いながら。

 クリストフェルはそれを「靴の美観を損ねる」と嫌がり、婚約破棄の翌日に全ての靴からゴムを剥がさせていた。

 乾いた音が響いた次の瞬間、クリストフェルの身体は宙を舞っていた。

「ぶべっ!?」

 受け身も取れず、背中から石畳に強打。
 さらに悪いことに、後頭部を馬車のステップにぶつけた。

 バシャリと汚れた水たまりの中に、王国の次期国王が転がる。

「きゃあああ! クリス様が泥まみれぇ!」

 クロエの頓狂な悲鳴が上がった。
 近衛兵たちが慌てて駆け寄る。

「で、殿下! 大丈夫ですか!?」

「い、痛い……。腰が……」

 クリストフェルは泥水の中で呻いた。
 お気に入りの白い服は茶色く汚れ、見る影もない。

 何より痛かったのは、周囲の使用人たちの視線だった。
 心配しているようでいて、その瞳の奥には冷ややかな色が宿っている。

(ああ、ヴィオラ様がいらした時は、こんなことは起きなかったのに)

(雨の日には必ず滑り止めマットが敷かれていたわ)

(殿下が自分で剥がさせたゴム底があれば……)

 誰も口には出さない。しかし、その沈黙こそが、最も雄弁な断罪だった。

「……くそっ、なぜだ! なぜ私の周りばかり、こんな不幸が起きる!」

 クリストフェルは濡れた拳を石畳に叩きつけた。

 彼は気づいていない。
 これは不幸でも偶然でもない。

 物理法則を無視し、メンテナンスを怠り、有能な技術者を排除したことによる、必然の結果であることを。

 雨は冷酷に降り続き、王都の排水溝からはゴボゴボと不気味な音が響き続けていた。

 それはまるで、王太子の治世の崩壊を告げるカウントダウンのようだった。

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