王太子から婚約破棄されましたが、インフラを支えていたの、実は私なんです~辺境改革で忙しいので、今さら復縁要請されても遅いです~

水上

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第13話:招かれざる客と、不可逆な拒絶

  アッシュバーン辺境伯邸の玄関ホールに、場違いな怒号が響き渡った。

「通せ! 私は王太子だぞ! この薄汚い田舎屋敷の主人はどこだ!」

 ドカドカと押し入ってきたのは、泥にまみれた白い軍服を着た男――クリストフェル・ヴァレンティンだった。

 その姿は哀れを誘うものだった。
 右腕は分厚いギプスで固定され、整っていたはずの金髪は乱れ、目の下には濃い隈ができている。

 かつての面影は、見る影もなかった。

 その背後には、ドレスの裾を持ち上げて文句を垂れるクロエ・ダルトンの姿もある。

「もう、最悪ですぅ! 馬車は揺れるし、泥が跳ねるし……。こんな野蛮な場所、一秒でも早く出たいですぅ!」

 騒ぎを聞きつけ、奥からヴィオラとルーファスが姿を現した。
 二人は並んで立ち、冷静な眼差しで招かれざる客を見下ろした。

「……何の用だ、殿下」

 ルーファスが低く唸るような声を出した。
 その威圧感に、近衛兵たちがビクリと身を竦ませる。

 だが、クリストフェルだけは、虚勢を張って顎を上げた。

「何の用だと? 決まっている! 私の大切な所有物……、いや、婚約者を迎えに来たのだ!」

 彼は血走った目でヴィオラを凝視した。

「ヴィオラ! 迎えに来てやったぞ。さあ、私に感謝してこっちへ来い!」

 ヴィオラは眼鏡の縁に指を添え、まじまじとクリストフェルを観察した。
 その視線は、壊れた実験器具を見る時のように冷ややかで、分析的だった。

「……殿下。現状認識に重大なエラーが発生しています」

「あ?」

「まず、私は貴殿の所有物ではありません。次に、婚約は貴殿の一方的な宣言により破棄され、現在はルーファス・アッシュバーン辺境伯の妻です。法的にも、貴殿が私を連れ出す権利は存在しません」

 淡々と事実を列挙するヴィオラに、クリストフェルは顔を真っ赤にした。

「うるさい、うるさい! あんなものは一時的な感情のもつれだ! 私は寛大だから、特別に許してやると言っているんだ!」

 彼はギプスの巻かれた右腕を振り回し、喚き立てた。

「王都は大変なんだ! 雨漏りはするし、下水は臭いし、ホースは破裂する! お前がいなくなってから、何もかもがおかしくなった! ……だから、戻ってこい。戻って、全部元通りに直せ!」

 それはあまりにも身勝手で、稚拙な要求だった。
 要するに、「不便だから帰ってきて世話をしろ」と言っているに過ぎない。

 謝罪の言葉一つなく、自分が優位であるという幻想にしがみついている。
 ヴィオラの隣で、ルーファスの拳がギリリと握りしめられた。

「……貴様。ヴィオラを何だと思っている」

「黙れ野蛮人! これは王命だ! お前のような筋肉だるまに、この女の知性は理解できまい。ヴィオラの才能を活かせるのは、次期国王である私だけだ!」

 クリストフェルは勝ち誇ったようにヴィオラに手を差し出した。

「そうだろ、ヴィオラ? こんな何もない辺境で、芋や泥にまみれる生活などうんざりなはずだ。王宮に戻れば、また綺麗なドレスを着せてやる。研究室も……、まあ、予算は少し減るが、使わせてやってもいい」

 ヴィオラは溜息をついた。
 その溜息は深く、呆れと憐憫が入り混じっていた。

「殿下……」

 彼女は静かに口を開いた。

「貴方は何も理解していませんね。私がここで、どれほど充実した生活を送っているか」

 ヴィオラは自分の手を広げて見せた。
 その手は、王都にいた頃よりも荒れていた。

 薬品による変色や、小さな切り傷がある。
 だが、その指には、ルーファスから贈られたダイヤモンドの指輪が輝いていた。

「私はここで、自分の技術が必要とされ、感謝され、正当に評価される喜びを知りました。綺麗なドレス? そんなものは作業の邪魔です。私が欲しいのは、最新の加硫プレス機と、共に未来を語れるパートナーだけです」

 ヴィオラは隣に立つルーファスを見上げ、信頼のこもった視線を送った。
 ルーファスもまた、愛おしげに彼女を見つめ返す。

 その二人の間には、クリストフェルが入る余地など一ミクロンも存在しなかった。

「な……、なんだと? 私より、その野獣の方がいいと言うのか!?」

「ええ。比較対象にするのも失礼なくらい、スペックに差があります」

 ヴィオラはきっぱりと言い放った。

「彼は私の理論を理解しようと努め、身体を張って実験に協力し、私の健康まで管理してくれます。対して貴方はどうでしたか? 私の成果を貴方自身のものとし、安全管理の進言を無視し、挙句の果てに私を追放した」

「だ、だから! それはもういいと言っているだろ! やり直そう! 昔のように!」

 クリストフェルは焦燥に駆られ、ヴィオラの手を掴もうとした。
 しかし、その手は空を切った。

 ヴィオラが半歩下がって避けたからではない。
 ルーファスが立ち塞がったからでもない。

 ヴィオラが発した、氷のように冷たい拒絶のオーラに、本能的に手が止まったのだ。

「やり直す? ……無理ですね。物理的に不可能です」

 ヴィオラは冷ややかな目で、元婚約者を射抜いた。

「加硫して硬化したゴムは、二度と元の生ゴムには戻らないんです。不可逆変化ってご存知ですか?」

「ふ、不可逆……?」

「ええ。ゴムに硫黄を混ぜて熱を加えると、分子同士が強力に結合します。一度その状態になったゴムは、冷やしても、叩いても、もう元の柔らかくて可塑性のある状態には戻りません」

 彼女は自分の胸に手を当てた。

「私たちの関係も同じです。貴方との冷え切った関係は、もう過去の廃棄データです。私はここで、新しい熱と圧力を受け、強固な結合を持つ別の物質に生まれ変わりました」

 ヴィオラの言葉は、難解な化学用語でありながら、残酷なほど明確な「さよなら」だった。

「熱しすぎましたね、殿下。貴方が私を追い出し、試練という名の熱を与えすぎたせいで……、私はもう、貴方の言いなりになる都合のいい女には戻れません」

 クリストフェルは口をパクパクと開閉させ、言葉を失った。
 復縁できると信じて疑わなかった。

 自分が手を差し伸べれば、女は喜んで飛びついてくると思っていた。
 だが目の前にいるのは、彼が知らない、強く、美しく、そして冷徹な他人だった。

「ひ、ひどいですわ!」

 その時、沈黙を破ってクロエが金切り声を上げた。
 彼女はクリストフェルの前に躍り出ると、目にいっぱいの涙を溜めてヴィオラを睨みつけた。

「クリス様は、国のために必死なんです! みんなのために、頭を下げてお願いしているのに……、どうしてそんな冷たいことが言えるんですか!? ヴィオラ様には、人の心がないんですか!?」

 クロエの頬を涙が伝う。
 それは王宮で多くの貴族を味方につけてきた、必殺の可憐な涙だった。

 近衛兵たちが、少しだけ同情的な空気を醸し出す。

 だが、ヴィオラは表情一つ変えなかった。
 むしろ、その泣き顔を顕微鏡で覗くような無機質な目で観察した。

「……人の心、ですか」

 ヴィオラは眼鏡のブリッジをくいと上げた。
 そのレンズの奥で、理性の光が鋭く閃いた。

「面白い命題ですね。では、その心とやらの定義について、少し議論しましょうか。――ただし、私は数字と事実以外は受け付けませんが」

 ヴィオラが一歩踏み出す。
 その背後には、魔王のような形相で腕を組むルーファスが控えている。

 これから、理詰めによる容赦のない断罪の時間が始まろうとしていた。

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